November 16, 2008

Rufus @ Blue Note (Part 3) : Kevin Murphy Of Rufus Talks

(昨日の続き)

【ルーファス(パート3)~ケヴィン・マーフィー語る】

歴史。

ケヴィンは日本に来るのは3回目だという。1回目がルーファスで東京音楽祭に出た時。シャカと同時に来日した。1976年6月のこと。次がデビュー当時14歳という女の子のブルーズ・ギタリストとして話題を集めたシャノン・カーフマンのバックで来日。ケヴィンは2000年ごろだと思うと言ってたので調べてみると、2000年5月のブルーズ・フェスだった。そして、今回が3回目。

ということは、84年のムゲンには来ていない? 「うん、来ていないなあ」 「ムゲンですか、懐かしい」と入ってきたのは、今回のもうひとりのキーボード奏者ミチコ・ヒルさん。東京出身のミチコさんは、とにかくソウル・ミュージックが好きで昔ムゲンに入り浸っていたという。その後80年代(1981年頃)になって本場のソウル・ミュージックを求めて、アメリカに渡った。アメリカでキーボード奏者として活動を始め、あちこちのライヴハウスなどでプレイするようになり、ミュージシャン界隈で知られるようになった。そして、今回来日しているベースのロバート・ピーウィー・ヒルは、彼女の夫。すでにグリーンカードではなく、アメリカ市民権も獲得し、従ってパスポートはもはやアメリカ、もちろん、選挙もできて、今回の大統領選にはオバマに一票を投じた一人。

さて、ルーファスは、ある意味でケヴィンが作ったバンドと言っていい。そこに何度かメンバーチェンジしているうちに、トニー・メイデンが入ってきて、以来、トニーとケヴィンはルーファスの核となった。お互い36-7年知っているということになる。

彼らは木曜のライヴ後、赤坂のソウルバー「ミラクル」に遊びに行った。もちろん、川畑さん、DJキヨミさんらも大歓迎。六本木のソウルバー「ワッツアップ」のマスター、カツミさんもいて、アナログ・レコードにサインをもらっている。そこで、ケヴィンに話の続きを聞く。

ケヴィンが言う。「僕は、元々ミネソタ州ミネアポリスの生まれだよ。1943年の9月21日生まれ。その後、シカゴに10年ほど住んでいた。そこでアメリカン・ブリードに入った。もっともグループの終盤だったけどね。69年くらいかなあ。ちょうどシカゴのラッシュ・ストリートという繁華街のようなところで、プレイしていた。ナイトクラブなんかがたくさんあるところだ。僕はそこで、ダンサーのバックでキーボードを弾いていた。そこに彼らが来て、プレイを気に入ってくれ、バンドに誘ってくれたんだ。で、そのアメリカン・ブリードに入るんだが、しばらくして、僕はグループを辞めた。すると他のメンバーもほぼ同じ時期に辞めてしまったんだ。で、僕が新しいバンドを作ることになったとき、その辞めた連中がみんな僕のところにやってきた。アンドレ・フィッシャーやアル・サイナーだ。これがルーファスの始まりだよ」

アメリカン・ブリードは、1967年暮れから「ベンド・ミー・シェープ・ミー」というポップの大ヒットを放ったポップ・グループ。リーダーは、ゲイリー・ロワイザーと言って、彼だけ新しいグループに入ってこなかった。ゲイリーは、この動きを不満に思ったらしい。ただケヴィンによれば、自分が辞めただけのことで残りの連中はケヴィンとは関係なく勝手に辞めたのだという。ただ彼らは、「あなたと一緒に行きたい」とケヴィンには言ったそうだ。つまり、アメリカン・ブリードのリーダーに人をひっぱる力、人徳がなくて、ケヴィンに人徳があったということなのだろう。それは、実際に彼に会って話すとよくわかる。ハッピーでとても人生を楽しんでいる人物だ。

このグループは当初はスモークと言っていたが、この最初のリード・シンガーは、ポーレット・マックウィリアムスという女性シンガーだった。バンドはシカゴのナイトクラブなどでけっこう人気となり、これを気に入った当地の若き女性シンガーが毎日これを見に来ていた。それがシャカ・カーンだった。

「ポーレットが辞めるときに、シャカがやってきて、オーディション受けさせてもらっていいかしら、と言ってきた。もちろん、といい受けるんだが、彼女は毎日来ていたから、すべての曲をもう知っていたんだ。だから、彼女が辞めた後、シャカはすぐに次のリード・シンガーになったんだよ。71年~72年あたりかな。その頃、彼女には大きな虫歯が2本あってね。それがすきっ歯みたいになって、そこに彼女はダイアモンドみたいなものをいれたがった。僕は言ったよ。『歯にダイアモンドはやめておきなさい』ってね(笑)」

「シカゴに引っ越したのは、ディック・クラークのキャラヴァンに参加することになってからだ。これは、ディック・クラークの(テレビ番組)『アメリカン・バンドスタンド』の地方巡業もの。3年ほどやった。1960年代だな。1965年くらいから3年くらいかな。だいたい毎回10組くらいの歌だけのグループがいて、それぞれが2-3曲ずつ歌うんだが、僕らはそのバックバンドだった。オルガンを弾いて、アナウンサーをやった。次に出るアーティストの紹介をしてた。大体1回で3ヶ月ツアーに出る。バスで全米を回るんだよ。それはそれは大変だった。バックをつけたアーティストに、シュープリームスがいた。確か、最初のヒット、何だっけ。『ホエア・ディド・アワ・ラヴ・ゴー』、それが出た直後、彼女たちは10組いる内の一番最初にでるアーティストだった。だが、ツアーが終わる頃には彼女たちは、トリ(一番最後にでるアーティスト)になっていたよ。ほんと大きくなっていた。他には、ジーン・ピットニー、ブライアン・ハイランド、チャッド・ジェレミー、ゾンビーズ…。コースターズ、ドリフターズ…。名前が思い出せないアーティストがたくさんいるな…」

「バスでの移動は本当にきついんだよ。ろくに寝るところなんかもなかった。荷物室で寝たこともあった。僕は、これを3回やったんだ。それで、もういいという感じになって、本拠を定めることにした」 バスツアー時代のおもしろいエピソードを何か教えてください。「いやあ、あまりに多すぎて。でも、話せる話はない。(爆笑)」

ケヴィンの声はライヴでもMC、いや、CM宣伝でさんざん聴かれたと思うが、実に深いいい声、マイクのりのする声だ。DJでもやっているかと思うほど。「DJはやらないのですか」と尋ねると、「DJはやってないな。音楽をプレイするほうが好きだから。(笑)今の人生でとてもハッピーだよ。好きな音楽をプレイできて、時々、こうやって日本にも来られて。日本の人たちはみんなよくしてくれる。あ、DJはやってないが、ヴォイス・オーヴァー(声のナレーション、CMの声などのこと)はやったことがあるよ。ナントカカントカ(英語で早口でCM風にやってくれたがわからず)~~」

ルーファスっていうのは、解散していたんですか、と訊くと「ルーファスは一度も解散していない。トニーと僕でずっとやっている。トニーのことは、彼が結婚している期間より長く知ってるんだよ(笑)」

「(ルーファス以外の活動?) 僕は今、孫の世話なんかしてるよ。(笑) 結婚して44年。僕にとって人生とは、ゆっくり楽しむものなんだ。これ(今回の来日)なんか、僕の人生にとってのグレーヴィー・ソースみたいなものだ。(人生をおいしく味付けるソース、といったところか。グレーヴィー=思いがけない利得みたいなもの) 素晴らしい家族と、仲間がいて、とても楽しんでいるよ」

(この項続く=次回はマダム・ディー、ヴァル・ヤングなどについて)

(2008年11月12日水曜、東京ブルーノート=ルーファス・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Rufus
2008-186


投稿者 吉岡正晴 : November 16, 2008 07:20 AM
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