August 07, 2008

After Charlie Wilson’s Live…Soul Family At Soul Bar

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【ソウルバーにてソウル族集合す】

SOUL族。

というわけで、チャーリー・ウィルソンのライヴは熱く暑く燃えたのだが、こうなってしまっては、まっすぐ家に帰るわけにもいくまい。ほてった体を少しさますということで、同行ソウルメイト、松尾潔さんとソウルバーでも行きましょう、ということに。いろいろ考えたあげく、久しく行ってなかった恵比寿のアリ・オリに行くことに。前回『ユニヴァース』のトークイヴェントで行って以来。

六本木通りから駒沢通りへ入るあたりで松尾氏お店に電話。「今から大丈夫ですか? あ、大丈夫。すいてる、はい、あ、10分くらいで着きます~~」 そして、アリ・オリの扉を開けて、中に入って我々が見たものは!?!? 

「えええっ、なんでなんで? いつから?」と叫ぶ松尾氏。なんとカウンターの中にいたのは、あの渡辺祐氏ではないか。「今日は、本物のマスターが体調くずして休んでるんで、私が一日店長、オウナーとしてやらせていただいております」 ついに、いつかはやるとは聞いていたが、いきなり恵比寿のソウルバーの店長か! 祐さんとは当日昼間メールのやりとりで、チャーリー・ウィルソンのファーストに行くということだったが、どうやら、チャーリー→ちょっとお食事(おでんや)→ちょっと一杯(バー・アリオリ)のコースらしい。

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これがホントのTask Bar

しばし、その日の雑談に花が咲き、誰もオーダーを取ろうとしない。(笑) 「オーダーは何にいたしましょう」と祐さん。「でも、こちらの若林のほうに言ってください」とオーダーを振る。「僕、ここに立ってても、何もできないんでね。飲むくらいしか、できないんで」 ちょうど、僕たちが入ったときは他にお客さんはおらず貸切状態。お店のマスターはずっと立ちっぱなしで我々の相手をしてくれる。そのうち、マスター用にさっきオーダーしていたソーセージ登場。なんで、マスターがカウンター内側にてソーセージをつまむか。

そうこうするうちに、お客さんご来店で、何もしないでただ飲むだけの祐オウナーと、ボックス席へ移動。ここからがまた絶好調。ご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、松尾さんは一時期祐さんの事務所に所属していたことがある。祐さんが初めて松尾氏を知ったときのことを振り返る。

「ある朝、車乗ってたんですよ。そしたら、朝っぱらから、こゆ~~いブラック・ミュージックがかかってるんですよ。まるっきり朝には似あいもしない。夜にかかりそうな美メロがね。誰だあ、朝っぱらからこんな曲かける奴は、と思ってたんです。ベイFMでした。そしたら、DJが松尾潔です、っていうんだよね。あ~~、あのBMRとかに書いてる松尾さん、(ラジオで)しゃべってるんだあ、と思って。それで、知り合いの編集者に電話番号聞いてかけたんですよ。そしたら、何に驚いたって、(僕より)年下だったってことですよ。(笑) 絶対自分より上か同じくらいだと思ってた」松尾氏は祐氏より9歳年下。

今、祐さんはJウェイヴで毎週土曜の朝8時から正午までの生番組を担当している。そこで、どうしても寝過ごせないので毎週金曜は六本木のホテルに宿を取り、(ホテルに宿を取り、という表現はおかしいな、ま、おいといて)5時半に起きて7時までには歩いて局入りする、という。

「いやあ、土曜朝6時の六本木の交差点ってみなさん、行ったことあります? もうすごいですよ、とんでもない多国籍企業で。中東系、韓国系、お姉ちゃん系、クラブ帰りの若者系、アフリカ系、もうほんとどろどろの種々雑多、老若男女。ガラが悪いというか、まともなのは、ワタシだけですよ」

「(六本木のホテル)アイビス芸人っていうのがいてね、知ってます? 吉本の芸人で大阪から来る連中でまだ(東京で)売れてないのは、ホテルに泊められるんですね。それで、そこそこ関東エリアで売れると、晴れてこっち(東京)に部屋とかマンションとかを借りられる。だから、アイビス芸人を卒業できるっていうのは、ひとつ出世らしいんですけどね。あ、でも、僕は、アイビス芸人じゃあありません。違うホテルです。万一寝坊しても歩いて行ける距離ってことで、(Jウェイヴに)近いところに泊まってるんです。グランド・ハイアットにお泊り? なわけないでしょ。(ビシッ←頭叩く音)(ホテル代)自腹なんですから。ハイ」

話はノンストップ! 話題は縦横無尽。文壇バー、落語の話、おでんやさんの話などをはさみつつソウル・バー・トーキングは終演を知らない。そうこうしているうちに、アリ・オリ名物焼きそば登場。どうやら前回アリ・オリ来日時、まだご本人はこの焼きそばを食べていないらしい。若林さんによると「うちの焼きそば勧めたら、このあとミラクル行って食べるから~」と遠慮されたそうで。(笑)

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まだアリオリは食べていないアリオリ推薦のヤキソバ

「僕なんかけっこういいかげんですから」と祐さんが言うと松尾さん、「いやあ、こん中で一番ちゃんとしてますよ。僕たちなんかサラリーマンやったことないんだから」。「いや、でもね、吉岡さんとか松尾さんたちが、どうやってソウル業界で30年やってきたかなんて話を対談でやったら絶対おもしろいと思うよ。細かいソウルネタいれて対談やってよ」「僕、30年はやってないなあ…(苦笑)」と松尾氏。「ほら、あなたがた、いろんなアーティストともたくさん会って話ししてるわけじゃない。そういうのを好き勝手に対談すれば、きっと読者もおもしろがると思うんだよね、その現場感覚のものって、レコード聴いてああだ、こうだって言ってるのと違うんだから」 どんどんアイデアが膨らむ祐さん。さすが、名ライターにして名編集者である。編集者ってこうやって人を乗せることが仕事なんですね、流れる石、ガーサスです。

「吉岡さんのブログには、とうていかないませんよ。だから(自分が)ライヴ見て感想ちらっと書いても、後はこちらへ、ってリンクはってお終しまい。(笑) あれだけの量を、いいかげんじゃなくて、きちんと正確に、音楽評論家として書いてるっていうのに頭が下がります」「ありがとうございます!」

「で、(松尾さんに向かって)、本はどうなったの、いつ出るの?」 松尾さんが今、書き下ろしているという本についての質問だ。「いやあ、書いてるんですけど…。なかなか進まなくて…」 さあムラムラと編集者ダマシイに火が点くか?? 

ところで、同行Sちゃん、初めて会った祐さんを「はい、よくテレビでお見かけします」と言ったはいいが、なんと、山田五郎さんと勘違いしてたらしい。恵比寿ソウル族の夜は更ける…。

■ 小気味良いテンポで進む祐さんの人気ブログ

2008-8-6
[MIF通信]恵比寿深夜SOUL族の夜
http://d.hatena.ne.jp/dothemonkey/20080806
上記記事内リンクから再びソウル・サーチンへお戻りくださるようお願い申し上げます。ソウル・サーチン→MIF→ソウル・サーチン→MIFの無限ループへどうぞ。

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投稿者 吉岡正晴 : 03:42 AM | コメント (0)

August 23, 2007

Memory Of Jiyugaoka, Back In The Day (Part 2)

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(昨日からの続き。舞台は自由が丘から西麻布へ) 

【自由が丘へのルーツ】

西麻布。

なぜ、大貫さんと僕が「レノマス」に「エスピガ」のDJとして誘われたか。

それから遡ること3年余。1979年夏。僕は西麻布にあったDJバー「トミーズ・ハウス」という店に足を運び入れた。西麻布に住む友人が、「半地下からいい音が聞えてくるなんか面白そうな店があるから、行ってみよう」といって誘ってくれたのだ。六本木交差点から西麻布の交差点に向かい、左側を歩いていくと、交番の手前にその店はある。階段を数段下りて入っていくと、中では大音響で音楽が流れていた。

たくさんの曲を聴いたが、特に印象に残っていたのはちょうどその頃全米で流行っていたハーブ・アルパートのインストゥルメンタル曲で全米ナンバーワンになる「ライズ」だ。10坪程度の小さな店だったが音響に凝っていて、JBLとウーハーがものすごくいい音を出し、当時の流行の洋楽曲がかかっていた。カウンターは対面で客が座るようになっていて、そのテーブルには、バックギャモンのゲーム盤が作りつけられていた。店のスタッフは、ローラースケートを履いてドリンクを運ぶという、当時としてはかなり斬新な、しかもアメリカナイズされた店だった。バックギャモンのゲームを覚えたのもこの店だった。

オウナーはトミーで、彼は洋楽も最先端のものから、邦楽も洋楽寄りのものを厳選してかけていた。初めて足を踏み入れたその日、僕はそこの店の音の良さ(音響の良さと選曲の良さ)にほれ込み、以来頻繁に通うようになり、そのうちトミーに誘われひまな時間にDJをするようになったのだ。それがいつしかレギュラーで週末にDJをするようになった。僕は毎週金曜と土曜の夜10時半から夜中の3時まで4時間半、ノンストップで立ちっ放しでDJをした。僕がかけたのはほとんどソウル、ディスコばかりだった。

毎日深夜3時。店のクロージング・テーマは決まっていた。毎日、週末も平日も、深夜3時になると、「トミーズ・ハウス」では必ずこの曲がかかかり、この曲とともに暗かった照明が明るくなった。それが山下達郎さんの「ラスト・ステップ」だ。僕が達郎さんの音楽を知ったのがこの「トミーズ・ハウス」だったといっても過言ではない。トミーが達郎さんのレコードを大変好きで、洋楽曲の中にぽっと達郎さんのレコードをはさみこんでよくかけていた。彼が1980年に大ブレイクする前の話である。

1979年。

1979年夏というと、ソニーのウォークマンが世に出たときである。さっそく新しいもの好きの編集者などがそれを持って「トミーズ」にやってきたことを思い出す。初めてウォークマンを聴いたときの驚きといったらなかった。これはとんでもないものがでてきたと思った。

この「トミーズ・ハウス」はまもなくその音の良さで音楽関係者やファッション業界、雑誌編集者などが多数来るようになる。そんな中に大貫さんがいた。僕もそこで大貫さんと知り合うことになるのだが、大貫さんもトミーに誘われ、毎週水曜日にDJをすることになったのだ。大貫さんは、1980年に「ロンドン・ナイト」のイヴェントを始めていて、ほぼ同時期にこちらでもDJをやりだした。大貫さんと僕の選曲は決してかぶることがないので、それはそれでおもしろい。

ここで強烈に印象に残っているのは、さきほどの「ライズ」以外では、マクファーデン&ホワイトヘッドの「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」、クルセイダーズの「ストリート・ライフ」、マイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』のアルバムなどだ。「トミーズ・ハウス」での思い出もけっこうあるので、いずれ別の機会にでも書いてみよう。

そして、自由が丘の「レノマス」は、よくこの「トミーズ・ハウス」に遊びに来ていた。そこで、僕や大貫さんと知り合い、「エスピガ」でのDJへとつながっていくのだ。

ところが、その「エスピガ」は、あるときキッチンでちょっとしたボヤを出してしまう。僕はたまたまその日店にいたのだが、DJは終わっていたか、休憩中だった。キッチンの方から火がでてびっくりした。しかし、よくある料理のときにフライパンなどから瞬間火がぼーと燃え上がるのかと思っていたら、それがなかなか消えず、あれと思ったら、瞬く間に煙がでてきた。あわてて「火事じゃない?」と言って、店のスタッフがお客さんを店外に出した。結局、そのボヤは自力で消し大事には至らなかったのだが、その日は当然営業中止。確か店はキッチンが使えないためにしばらく休業し、これを機に、そのままクローズしてしまったように記憶する。

「エスピガ」をやめてからは「レノマス」とは疎遠になってしまい、近況はわからない。しばらくしてアメリカに行ったことを風の便りに聞いたくらいだ。

だが今回、「マルディ・グラ」が、実は以前「レノン・ストリート」の跡地だったという小さな事実を確認できたことは、個人的には大きな収穫だった。自由が丘の何の変哲もない交差点の角にあった昔の店と今の店。世田谷区奥沢5-29-10、この小さな角地には音楽好きの神が宿っているのかもしれないなどと無理やりにこじつけてみたくなった。

(この項、終わり)

■マルディ・グラのウェッブ
http://www.jiyugaoka-mardigras.com/

■大貫さんの「ロンドン・ナイト」のウェッブ
http://www.kenrocks.net/i.htm

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投稿者 吉岡正晴 : 12:41 AM | コメント (0)

August 22, 2007

Mardi Gras: Memory Of Jiyugaoka, Back In The Day (Part 1)

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【マルディ・グラからつながる自由が丘の思い出】

自由が丘。

自由が丘の駅から東横線沿いに日吉方面に右側の道を歩いていくと四つ角がある。左に曲がると上が東横線が走るガード。右角に雑貨屋があり、その地下に「マルディ・グラ」がある。

『ガンボズ・イアーVol.12~ソウル・サーチン・ビデオ・ナイト』でお世話になった「マルディ・グラ」は、名前から想像できるように、ニューオーリンズ気分にしてくれる音楽のある店だ。壁には何枚もの1970年代のロックやソウルのレコードのジャケットが額に入れて飾られている。ここで守島さんのイヴェント『ガンボズ・イアー』の第1回が行われたのが2000年10月。ちょうど同年7月に拙著『ソウル・サーチン』が発売され、「発売記念イヴェントは別にないです」と言ったら、守島さんが「じゃあ、なにかやりましょう」ということで企画してくださった。

それから7年を経て、再び、ここで「ガンボズ・イアー第12回」に参加したのだが、実は、この会場「マルディ・グラ」のある場所については以前から気になっていた。

レノン・ストリート。

その昔、1970年代後半から自由が丘でよく来る店があった。それは「レノン・ストリート」という当時比較的おしゃれな店だった。それこそ田中康夫氏の小説『なんとなく、クリスタル』(1980年)に出てきそうな(ひょっとしたら出てきていたかもしれない)店だ。まだ「カフェ・バー」という言葉が生まれる前に、新しめの洋楽のレコードをかけていた「カフェ・バー」風の店だった。たぶん1978年か1979年あたりのことだったのだろう。

で、7年前(2000年)に「マルディ・グラ」に来たときに、この辺に「レノン・ストリート」があったような気がおぼろげにしていた。そのときは、すっかりそれを確かめるのを忘れたのだが、日曜日(8月19日)に久しぶりに行った「マルディ・グラ」のオウナー川村さんに尋ねた。

すると、やはり、この地はまさにかつて「レノン・ストリート」があった場所だったのだ。「レノン・ストリート」の入口は東横線沿いだったが、「マルディ・グラ」の入口がそれと直角に交わる道にあるので、ちょっとわからなかったのだ。川村さんによれば、この場所は「レノン・ストリート」のマスター(僕や仲間たちは当時彼のことを「レノン・ストリートのマスター」ということで略して「レノマス」と呼んでいた)の両親が持っていたもので、建物を一部改装し、2階に住居、1階部分を「レノン・ストリート」という店にしていたのだという。もちろん、「レノマス」は、ジョン・レノンが大好きだったから、この店名にした。

「レノン・ストリート」も店内はブラックを基調にしたいい店で、レコードジャケットを壁に飾っていた。ビートルズや西海岸のイーグルスや、マイケル・フランクスやら、ちょっとしたソウル系、フュージョン系のレコードをそれほど大音量ではなくかけていた。

そして1980年代後期か1990年代初期に、「レノマス」はアメリカ人女性と結婚し、アメリカに移住することになり、この土地を売却、新たに買い求めた人が3階建てのビルを建て、その地下1階に「マルディ・グラ」がはいったらしい。

「マルディ・グラ」は最初のオウナー、ミックさんが1992年にオープン。しかし、1997年10月彼は事情で九州・熊本県人吉市に引っ越し、そのときにミックさんから現在のオウナー川村さんが店を引き継いだ。ミックさんは熊本でも、やはり「マルディ・グラ」のようなレコードをたくさん置いている音楽バー「ベアーズ・カフェ」という店を経営されている。ミックさんは、「マルディ・グラ」の前には青山で「サル・パラダイス」という店もやっていたというから根っからのミュージック・マンのようだ。「マルディ・グラ」はオープンして15年、川村さんの代になってからでもすでにちょうど10年だ。

僕が初めて「マルディ・グラ」に行ったのがいつだったかは正確には覚えていないのだが、2000年に行ったときは初めてではなかったので、その前に行っているはずだ。ひょっとしたら、あの近くに住んでいるFM局のディレクターをやっていたC氏に連れられて行ったのかもしれない。この店名から「音楽関係のバー」だということはわかる。(笑)

エスピガ。

さて、さきほどの「レノマス」だが、彼は1983年頃、「レノン・ストリート」も経営しながら、同じ自由が丘に「エスピガ(espiga)」というレストランをオープンした。これはスペイン語で「穂」といった意味らしいが、メキシコ系の食事をだしていた。「カフェ・バー」という言葉はこの頃までにかなり浸透したが、「カフェ・バー」というよりレストラン、しかし、若い人も入れるカジュアルなレストランだった。「レノン・ストリート」よりもっと広く明るい店になっていた。そして、そこはレストランなのに音楽好きのオウナーの趣味を反映し、店の中央の一段高いところにターンテーブルが2台あり、BGM的にDJをやっていた。レストランでDJブースがある店など、あの時代には他にはなかった。

そこで、「レノン」時代からのつきあいだった「レノマス」から、「週一でもいいからDJをしないか」と誘われた。そして、僕は週一でDJを始めたのだ。オープンしてまもなくだったので、やはり1983年頃のことだろう。僕は毎週水曜に入ったが、そのとき、別の曜日に別のDJが入った。たぶん、彼は金曜あたりだったような記憶なのだが、違うかもしれない。それがUKロックの大家・音楽評論家の大貫憲章さんだ。

僕は、どういう選曲をしようかいろいろ考えたのだが、ちょうどその頃存在を知ったアメリカのラジオで流行りだした「クワイエット・ストーム」のフォーマットを真似してやろうと思い、その路線で選曲をした。当時は「ラウンジ」などという言葉はなかったが、今から思えばまさに「ラウンジDJ」だった。

この「クワイエット・ストーム」を取り入れたのは、相当早かった。ちゃんと向こうのラジオのように、波の音とか、鳥の鳴き声とか、エアポートの音などの効果音を曲間にはさんでかけた。ターンテーブルは2台しかなかったので、効果音は事前にカセットに録音してかけたり、効果音のレコードなら、2-30秒かけている間に次の曲をセットするという早業をやっていた。

アメリカで「クワイエット・ストーム」がブレイクするのが1985年から1986年以降なので、かなり時代の先を行っていたかもしれない。僕はサンフランシスコのKBLX局のテープを入手したか、誰かから話をきいたかで、「クワイエット・ストーム」のことを知った。だが「クワイエット・ストーム」の歴史自体を知るのは、そのずっと後のことだ。当時のソウルのスロー・ジャム(そんな言葉もなかった)と若干のフュージョン系インストゥルメンタル曲に効果音。自分でいうのもなんだが、けっこういけてた。たぶん、「エスピガ」でやっていたものも、何本かカセットに録音して自分でも楽しんでいたように思う。

ところで、先ほどからずっと「レノン・ストリート」のマスターのことを「レノマス」としか書いてないのには、わけがある。実は「レノマス」の本名を思い出せないのである。(笑) 当時はもちろん知っていたのだが・・・。ずいぶん昔のことなので、かなり記憶がおぼろげである。情けない。(笑)

(この項、続く)

(明日は、なぜ大貫さんと僕がこの店でDJをすることになったか、などについてご紹介します)

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投稿者 吉岡正晴 : 01:30 AM | コメント (0)

June 07, 2007

Maxayn, Robbie, Anthony Talk:

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【話は広がる~雑談】 

歓談。

フィリップ・ウーの「ビリー・プレストン・トリビュート」ライヴの後、マクサンやロビー、アンソニーが席にいたので、ライヴ後ちょっと歓談した。

マクサンが、「あなたの最近のプロジェクトは」というので、今度の8月に行われる木下航志くんのライヴの手伝いをする、というと、彼女も「ソウル・サーチン」で会っていて、「おおお、あの子ね。彼はすごいわ」と大絶賛し始めた。

「すばらしい声の持ち主だわ。あのボーイは、はやく、海外にでるといいわよ、きっと。(アメリカの)南部でも、西部でも、東でも、全部の地域を旅すればいいわ。それぞれの土地の教会に行って、そこの人たちと歌うのよ。彼は(目が見えないので)余計な情報をとらない。ただ耳だけから聴くものを覚えていくでしょう。だから、自分よりレベルの高いミュージシャンたちと一緒にやると、彼のレベルがどんどんあがっていくのよ。ああいう子は少ないわ」 僕が「彼はスポンジのように、何でも吸収するんだ」というと、「そうそう、その通り」と返ってきた。

ロビーが、「ねえ、今度、アース・ウインド&ファイアー&エモーションズ・トリビュート、やりましょうよ」と言ってきた。「ほら、ここにエモーションズ(ロビー、マクサン、そしてポーラ・ジョンソンも座っていた)がいるでしょ。(笑) アースって、すごく日本で人気あるでしょう。絶対に、満席になるわ」 「なるほど、確かに。じゃあジェームス・ブラウンや、プリンスは?」 「おおっ、いいわね」 「ジェームス・ブラウン・ショーにはたくさんの女性シンガーがいるでしょう。リン・コリンズやマーヴァ・ホイットニーとか。ところで、プリンスの時は、ヴァニティー役やる?」 「おおっ、ははは、(ちょっと照れて)私にやれる役があれば、やるわ! (笑)」 「しばらく日本にはいる?」 「いるわよ。私は、今、KDブロージアをマネージしてるのよ。彼は今アメリカでレコーディング中なの」

アンソニーはほぼ一週間前にここコットンのジーノ・ライヴで初めて会った。そのとき「フィリップ・ウーに会うといいよ」と言っていたので、いきなり、ステージに飛び入りしたときにはびっくりした。「明日も来るの?」と聞くと、「明日はゴスペルを教えなければならないので来れない」と言う。彼は7月中旬まで東京にいる予定だが、何かいい仕事がはいれば、延長する、という。

それにしても、フィリップが言う通り、東京にもすばらしいシンガーが何人もいる。やはり、「トウキョウ・ソウル・プレイヤーズ(略してTSP)」を結成しないと。(笑)

ところで、木下航志くんのライヴについては、6月10日に詳細を発表します。8月29日(水曜)、品川教会でライヴです。

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投稿者 吉岡正晴 : 12:46 AM | コメント (0)

May 08, 2007

Soul Searchin Project Will Have Spin Off Projects

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【ソウル・サーチンから派生プロジェクト】

広がり。

定期的に行われている『ソウル・サーチン:ザ・セッション』をごらんになった方から、例えば、ソウル・サーチャーズを起用したいというオファーがいくつか来ている。まだ、発表できる段階ではないのだが、とりあえず3案件あり、話がうまくまとまれば、順に発表できると思う。

3案件のうちのひとつは、まだ日程が確定していないのだが、オウナー大西さんが自らのブログで少し書いているので、ここでもフライング気味に少し書いてしまうと、江田(東急田園都市線)駅前にあるピッツェリア「マルターノ藤が丘店」でのアコースティック・ライヴ。キーボード、パーカッション、ヴォーカルのトリオくらいの編成で、ソウル、ジャズのカヴァーを中心に聞かせるというもの。7月末か8月頭になりそう。

東京におけるライヴ・シーンというのは、なかなか厳しいものがあるが、それでも多くの優れたミュージシャンたちががんばっている。ただどうしても、ライヴハウスのキャパ(収容人数)とミュージックチャージの上限からくる限界というのはあり、そこがあらゆるミュージシャンたちの悩みの種だ。

ケイリブが毎回ステージで言うように、まさに「サポート・ユア・ライヴ・ミュージック(あなたのライヴ・ミュージックをサポート(応援)しよう」という感じだ。リアル・ミュージシャンが、そのステージで実際にリアル・ミュージックを演奏するというところが重要なのだ。

『ソウル・サーチン』は、毎回多くの出演者が登場する。出演者が多すぎるという見方もあるのだが、僕としては『ソウル・サーチン』にある種、新人のショーケース的な意味合いも含めているので、しょうがないと考えている。『ソウル・サーチン』で初めて見たアーティストを気に入ったら、ぜひ、そのアーティストの単独ライヴなどに足を運んでいただけると主催者としてはひじょうに嬉しい。

今年の1月に行ったディーヴァ・グレイのライヴは、『ソウル・サーチン』からの派生プロジェクト第一弾だった。昨年の『ルーサー・ヴァンドロス・トリビュート』で歌ったディーヴァのソロ・ライヴを企画したものだったが、こうした広がりがでて、ある程度の観客動員が望めればひじょうにいいのだが。まあ、ゆっくり支持を集めることを期待している。

詳細など決まり次第、順にご紹介していきます。

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投稿者 吉岡正晴 : 02:12 AM | コメント (0)

March 19, 2007

What's The Destiny For Mori Shinichi's "Mother" (Part 2)

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【森進一がなすべきこと】

魂。

さて、ポイントは、オリジナル楽曲の冒頭に何かを付け加えていいのか、という点。これを「改変」ととるか、新作の別楽曲かという見方は大きく別れる。追加部分の歌詞は別の作家が書き下ろした。メロディーはオリジナルと同じ猪俣氏。今回の場合は改変にあたる。

改変というのは、オリジナル曲があって、そのメロディーや歌詞を変えること。著作権上は、第三者が歌う場合、作者の許可なく改変はできない。替え歌も、自分で録音し、一般発売することになれば、オリジナル作者の許可が必要になる可能性が高い。改変物をオリジナル作者が認めないとなると、歌手はそれを録音したり、ライヴで歌ったりはなかなかしづらくなる。

では、例えば、今までイントロで歌われてきた歌詞をタイトルにし、「いつも心配かけてばかり」というタイトルの新曲を作ったとしたら、どうなるか。その新曲と「おふくろさん」をメドレーに歌ったら? これは誰も文句は言えない。「いつも心配かけてばかり」と「おふくろさん」をメドレーにして歌うことは論理的には自由だ。もちろん、感情的に川内氏は怒る。

しかし、現状は改変で、「おふくろさん」のイントロにいくつかの歌詞メロディーが付け加えられているという感じだ。こうなると、オリジナル作詞者の許諾が必要になる。川内氏がクレイムをつけるのは当然だ。いわゆる同一性保持(オリジナルに忠実に歌うことなどを規定すること)を尊重しなければならないからだ。

ただし、その改変がなされたのが30年以上前だと今ほど著作権に対する認識も高くなかったのだろう。森側もそれほどことが重大だとも思っていなかったのだろう。以来、ずっと歌ってきて大衆からの支持もあり、この曲は「自分の歌だ」と思った。

「おふくろさん」を森は森のものだと思い、川内氏も自分のものだと思う。

そこがそもそも大きな問題だと思う。川内氏と猪俣氏が作り、森が歌ってヒットさせ大衆の支持を集めた「おふくろさん」という楽曲は、もはや大ヒットした時点において、「一人歩き」が始まり、極論すれば森のものでもなくなり、川内氏のものでもなくなり、「大衆のもの」になったのである。

だから、僕は川内氏がこの曲に限らず、どのような歌手に対しても、自分の曲を歌うな、というのは感情論的には大変理解できるが、無理があると思う。自作曲を世間に発表した以上、それはもう世間のもの、人々のものなのだ。つまり川内作品をカラオケで「市井(しせい)の人(一般人)」が歌うことを誰も禁じることなどできない。大衆歌は、それを必要とする大衆のものなのだ。人に歌われたくなければ、世に出さなければいいだけの話になる。

しかし、僕は森の味方をしているわけではない。森側は川内先生に対して十分失礼なことをしてきた。人として大きな過ちを犯した。それまで先生に大きなお世話になってきたにもかかわらず、飼い犬が手を噛むようなことをしてしまった。よって、先生が弟子に対して激怒し、絶縁し、自分の曲を歌わせない、と主張するのはもっともなことだ。

たぶん、この「おふくろさん」の問題は、川内氏も、最初のうちに筋を通して話をしておけばまったく問題なく「イントロの付け加え」を了承していたことだろう。だが、森はあまりに先輩に対してリスペクト感がなかった。放置しすぎた。その全体的な尊敬の気持ちのなさに対して、川内氏は怒っているのだと思える。つまり、イントロどうのという小さな問題ではなく、「心の問題」として、川内氏の怒りの原点があり、それはそれで大変もっともなことなのである。

ところで、長い音楽の歴史の中で、「著作権」という概念が出来上がったのはほんの100年ほど、19世紀になってから、つまりつい最近のことである。もともと今で考えられる著作権などという概念はなかったのだ。楽譜や音盤が簡単に複製できることによって、「著作権」が大きなビジネスになり、その「権利」が大きくクローズアップされるようになった。しかし、そうした著作権が今度は「一人歩き」し始める。

そして、あまりの技術革新の早さゆえに、さらに新しい考え方が生まれた。「コピーレフト=[コピーライト=著作権=]の逆。直訳としては非著作権」の発想だ。これはしかし、著作権の概念がしっかりしたベースとしてあっての、次の段階の発想である。だが著作権がなかった時代から比べれば、原点回帰なのかもしれない。

コピーレフトの発想でいえば、グレイトフル・デッドもそれを踏襲した。コンピューターの世界でのリナックスもまさにコピーレフト。最近使いかってがよいウィッキペディアもコピーレフトだ。

「おふくろさん」は誰のものか、と問われれば、その歌を必要とする大衆のものなのだ。そして、「おふくろさん」は日本人の大衆から必要とされている。

結論。このままでいると、森進一は「おふくろさん」など川内作品を道義上歌うことができない。

そこで、森進一は、「おふくろさん」を必要としているそうした大衆のためにこそ、何が何でも、手段も選ばず川内先生の許しを乞うべきなのだ。今、命を懸けて、歌手生命を懸けて彼がやるべき仕事はそれしかない。著作権うんぬんという話ではない。「魂(ソウル)」の問題として、解決しなければならないのだ。

■過去、著作権関連記事。(下記3本は、いずれも「著作権」という考え方に対しての興味深い観察です)

2003/09/20 (Sat)
Lyrics Belongs To Whom It Needs, Not To Whom Wrote It
「詩は誰のものか」、映画『イル・ポスティーノ』における見事な論理
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/essay/diary20030920.html

2003/09/21 (Sun)
How To Give Him/Her A Standing Ovation?
クリエイティヴに対する拍手の仕方のお手本
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/essay/diary20030921.html

2003/02/01 (Sat)
Stop! In The Name Of Law
法律の元にコピーは止めて
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200302/diary20030201.html


ENT>MUSIC>ESSAY>Mori, Shinichi's "Mother"

投稿者 吉岡正晴 : 03:04 AM | コメント (0)

March 18, 2007

What's The Destiny For Mori Shinichi's "Mother"(Part 1)

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【森進一の「おふくろさん」の運命やいかに】

運命。

先日、松尾潔さんとヴァラエティーに富んだ雑談をしている中で、森進一の「おふくろさん」の一連の騒動の話題になった。僕も、ワイドショーや新聞などで報道されているほどの情報しか知らないが、いろいろと興味深いので僕なりの感じ方、感想などを書いてみたい。

そもそもの問題は森進一の代表曲のひとつ「おふくろさん」(作詞:川内康範=かわうちこうはん=、作曲:猪俣公章=いのまたこうしょう=) のイントロ部分に、新たなメロディーと歌詞(「いつも心配かけてばかり」といった部分)を付け加え、それから「おふくろさん」につないで(メドレーにして)ライヴで歌い始めたことに起因している。

川内氏は、この付け加えた部分に関して何も知らされておらず、森側はしたがって川内氏の許可も得ていない。そこで、これを知った川内氏は森に10年ほど前から止めるように、また、説明をするように求めていたが、その会合の当日に森が体調不良を理由にキャンセルしたところ、川内氏が激怒し大騒動になった。森の事務所のスタッフが川内氏に電話していたその背後で森の元気そうな声が聞こえたために、激怒したという話も伝わっている。

では、ここで要点を整理してみよう。(『行列の出来る法律相談所』風に)

1)森進一は、川内康範作詞の「おふくろさん」を1971年以降歌ってきて代表曲のひとつとなっている。

2)30年以上前から、森はライヴのステージでオリジナルの「おふくろさん」の冒頭(イントロ部分)に、独自のせりふを付け加え、メドレーにして歌っていて大変好評を博していた。

3)スタジオ録音のものはないが、イントロが付け加えられたヴァージョンがライヴ録音され、一時期商品化された。ただし現在は廃盤。

4)森進一は川内氏に対しこの「付け加えた部分」についての説明をしていない。

5)川内氏は、これはオリジナルに対する「改変」だから止めろと主張。

6)森はこれに対し、「おふくろさん」はもはや「森進一の歌になっている」と主張。この発言にも川内氏は激怒した。

7)川内氏は、自作曲を森に歌わせないようにJASRAC(=ジャスラック=日本音楽著作権協会)に通達、JASRAC側もこれに沿った発表を行った。

8)森は、川内作品をライヴなどで歌うことを自粛することにした。

さあ、あなたの真実は?

(明日に続く)

■関連記事

タイムリーに毎日新聞2007年3月15日付け夕刊「とっておき」コーナーで特集が組まれました。

「名曲…誰のもの 「おふくろさん」封印、七つの?」
(毎日新聞2007年3月15日付け夕刊2面夕刊とっておき~特集ワイド)
http://www.mainichi-msn.co.jp/tokusyu/wide/news/20070315dde012200027000c.html

◎ウィキペディアの「川内康範」の項目にも詳しい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%BA%B7%E7%AF%84


ENT>MUSIC>ESSAY>Mori, Shinichi's "Mother"

投稿者 吉岡正晴 : 03:50 AM | コメント (0)

March 08, 2007

After Champagne Party...

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【シャンパーン・パーティーのあとに~】

飛ぶ。

鈴木雅之さんのパーティーは、かなり派手なものだった。招待状には、ドレスアップでと書かれていた。会場には松尾潔さん、ブラザーコーンさんらも。ライヴ後、マーチンの楽屋へ。松尾さんとコーンさんは、1990年代初期にNHK-BSの『ソウル・トレイン』でいっしょに仕事をされていた。彼らも『ソウル・トレイン』以来とのこと。

コーンさんは、僕も久々だったので、改めて名刺を交換。彼が「僕、昔の吉岡さんの名刺持ってますよ」と言ってくれたので、恐縮。コーンさんの名刺には「魂同組」と書かれている。これで、「こんどうぐみ」と読むのだそうだ。さすが。ブラザー・コーンの苗字は近藤。そこからきているわけだ。 

話は飛ぶ。マーチンさんは、「コンチャンが来てくれたのが何よりうれしいねえ」と歓待。ちょうどそれから二日前の日曜、このイヴェントを仕切ったマイ・ソウル・メイト、ハセヤンから高井戸倶楽部で行われていた「ニックズ・ナイト」に誘われていたのだが、そこにコンチャンも来ていたらしい。「毎回、あれは行ってるんですよ」とコンチャン。昔ディスコをやっていた医者の息子H君の話がぽっとでて、驚いた。「今度みんなで会いましょう」ってことに。

その後、松尾さんと軽く飲みに行こうということになり、恵比寿方面へ。それにしても、松尾さん、よくしゃべる。移動中の車の中でもエイント・ノー・ストッピン・ヒム・ナウって感じ。しかも、話が飛ぶ。そして、どれもおもしろい。

マーチン新作ネタ。「日本語の表記、(「シェーム」のヒットで有名な)イヴリン・キングは、イヴリン・シャンペン・キングなんですね。それから「ハウ・アバウト・アス」の大ヒットのイリノイ州出身のヴォーカル・グループは、シャンペーンですね。ヨーロッパのディスコのグループかなんかでシャンペーンみたいなのもありましたねえ。今回のマーチンさんのアルバムの日本語表記、どうしようか、けっこう迷ったんです。シャンペインなのか、シャンペーンなのか。シャンパーンか、シャンパンか・・・」と松尾さん。おお、そうなんだ。そんなにいろんな書き方、あったか。確かに、よく見てみると、そうだ。結局はシャンペーン・ロワイヤルで落ち着く。

ジャケットの裏面にキラキラした王冠が映っている。これは、まさにキング・マーチンの王冠ということで、特注したそう。

話は飛ぶ。実は前から『ソウル・サーチン:ザ・セッション。VOL.2~アレサ・フランクリン』への出演を松尾さんに打診していた。当初は3月末に海外出張が入りそうなので、待ってくれ、という感じだったのだが、結局3月26日は、彼がDJを担当しているラジオ番組『ユニヴァース』の最終回の録音がその時間帯に入ってしまって『ソウル・サーチン』のほうにはご出席いただけないことになった。 

なんと、この日は最終回ということで、大瀧詠一さんがゲストに出演されるという。大滝さんは、「最初から、(その番組の)最終回なら出る」と松尾さんに言っていたという。

しかも、当日の夜に録音して、その日の深夜に放送する。通常は前週の水曜あたりに収録しているそうだが、「どうも、編集されることを嫌って」当日収録を希望されたらしい。まさに大瀧さんらしい話だ。

「じゃあ、松尾さん、8時過ぎに終わったら、大瀧さんと(『ソウル・サーチン』に)来ればいいじゃない(笑)」と言っておいた。松尾さんが「大瀧さんとアレサって結びつかないですよねえ・・・」と言うので、「いや、アリフ・マーディンとか、つながるんじゃないですか」と強引につなげると、「そうかあ・・・」とビミョーな返事。『スイート・ベイジル』、おいしいお食事もできますよ!」と追い討ち。果たして、どうなるか。

話は飛ぶ。雑談の中で9日(金曜)のヴァネッサ・ベル・アームストロングのライヴ話になった。いっしょに行きます?とたずねると、「吉岡さんのブログ見て、行きたいなと思ったんですよ。それで、金曜、行けたんですよ、本当だったら!」と手を叩く。おや? 「さっき、マーチンさんのマネージャーから7日の収録を9日にしてください、ゴメンナサイと言われたんです」 

話は飛ぶ。入ったカフェで「シーザー・サラダ」をオーダーすることになったが、「これ、何で『シーザー・サラダ』っていうんだっけなあ」と松尾さん。「携帯でウィッキペディアでしょう」と言うと、もう携帯を操作。しばらくして、答えが出て、読み上げる・・・。(シーザーサラダについて詳細お知りになりたい方は、ウィッキペディアでどうぞ)(笑)

話は、つながってるが、飛ぶ。「このウィッキペディア、どうなんですか? 僕の項目もあるんですが・・・。ちょっと違っててね」

ウィッキペディアの著作権の話から森進一「おふくろさん」ネタへ。きりがないので、この項目、書きかけということで、続くかもしれない・・・。話の飛び方は、シャンパーンの泡が飛ぶ如く。パ~~~ン。(←シャンパーン・ボトルを開けた音)

ENT>MUSIC>ESSAY

投稿者 吉岡正晴 : 01:08 AM | コメント (0)

January 31, 2007

James Brown's New Album Will Be Out On Brownstone

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【ジェームス・ブラウンの新作、ブラウンストーンから】

未発表作。

12月25日に急逝したジェームス・ブラウンのアルバムがブラウンストーン・レーベルからリリースされる。このブラウンストーンは、ジェームス・ブラウンとマイアミの音楽業界の大物ヘンリー・ストーンが1990年代に共同で再度始めたレーベルで、ブラウンがいくつかの作品をストーンに渡していた。新作とされるアルバムのタイトルは、『ア・ファミリー・アフェアー』でここには、ブラウン本人のほか、娘のヤマ・ブラウン、ヴェニーシャ・ブラウンなども参加している。

正確なレコーディング・データはまだはっきりしないが、90年代以降、ブラウンが独自にレコーディングしたもので、所属のレコード会社スコッティー・ブラザースが発売しなかったものがブラウンストーンに渡され、そのうちの何曲かではないかと思われる。

下記サイトで3曲が一部だけ試聴できる。

http://www.henrystonemusic.com.

ヘンリー・ストーンはマイアミを本拠とする音楽事業家。1921年6月3日ニューヨーク生まれ。現在85歳だが、元気に活躍している。20代から全米各地でレコードセールス、A&R(制作担当ディレクターのこと)などを歴任し、マイアミでレコード配給業を始めた。徐々にビジネスを拡大、60年代からは地元のブルーズ、ソウル・アーティストの作品を録音し、地元などで販売していた。後にベティー・ライト(「クリーン・アップ・ウーマン」)、KC&ザ・サンシャイン・バンドなど多数のヒットを生み出し、「マイアミ・サウンド」の世界的大ブームを巻き起こした。これらの作品はトーン・ディストリビューターが配給、レーベルもTK、アルストン、グレイズ、キャッツなど多数にふくれあがった。

ブラウンストーン・レーベルは、元々は1970年代初期に設立された。当初はポリドールが配給、その後インディとなり、またさらにその後マイアミのヘンリーストーンが持つTKレコードが配給していた。

ジェームス・ブラウンとは初ヒット「プリーズ・プリーズ・プリーズ」(1956年)以来の大親友同士。

+++++

投稿者 吉岡正晴 : 12:30 AM | コメント (0)

December 25, 2006

After Johnny Gill; Japanese Soul Men Summit

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【ソウル談義~恵比寿の夜は更けて】

一気通貫。

ジョニー・ギルのライヴを黒沢さんと一緒に見に行ったのだが、ショーが始まる前に、なんと松尾潔さんが山下達郎さんと来ていた。近くで食事をしていて、ウィスパーズかジョニー・ギルを見に行こうという話になり、達郎さんがウィスパーズは見たことがあったので、ジョニー・ギルにやってきたという。ライヴ後、どこかへ行きましょうということになった。

さらにショーが終わるとブラック系のライターでもある林剛さんが元ワーナーの湯山さんといらしていて、達郎さんたちと話していた。そこで、みんなで恵比寿のソウルバー「アリオリ」に行くことになった。階段を上がって外にでると、そこにジャズ界の重鎮、伊藤八十八さんが通りかかり、松尾さんが「今から恵比寿で飲むんですけど、一緒にいかがですか」と誘ったところ、即OK。車3台に分乗し移動した。すごい成り行き。いいね、こういうの。黒沢さんは翌日、横浜でライヴだが「達郎さんに誘われたら、行かないわけにいかないでしょう!」と半ば苦笑しながら覚悟を決めた様子。

アリオリに入るや否や、達郎さん、「ここは80年代はかかるけど、サザン系がかからないんだよなあ」と宣言。それを受けて、マスター小野田さん、いきなりジャッキー・ムーアのケイヴェット盤『メイク・ミー・フィール・ライク・ア・ウーマン』をかける。(笑) 

ジョニー・ギル談義は、ライヴ自体が短かったこともあり、あっさり終わり来年1月9日に目黒のブルースアレーでやるディーヴァ・グレイ・ショーの話になった。ニューヨークのトップ・スタジオ・セッション・シンガーで、自分名義のアルバムも出してるんですよ、と説明すると、ふと思い出したように、「ああ、それ、俺、持ってるよ!」と。おおっ、さすが。あのアルバムを持ってる人はなかなかいない。そしてちょうどできたばかりのフライヤーを渡す。ぜひ遊びにいらしてください、と言うと「行く、行く」。

林さんとは初対面。お互いに名前は知っていた。前日の映画『ドリームガールズ』を林さんも見ており誰が誰かという話になった。そこで、僕がジェイミー・フォックスがベリー・ゴーディーで、エディー・マーフィーがジャッキー・ウィルソンで、ビヨンセはダイアナ・ロスで~~みたいな話をしたところ、ほぼすべて意見が一致した。林さんは、最後のシーンでの「ドリームスは4人組でした」というところがデスティニーズ・チャイルドを想起させると言い、僕もえらく納得。下記日記でのその部分の(C)(著作権)は、林さんです。(笑) 

December 22, 2006
"Dreamgirls"(Part 2) : Between Fiction And Non-Fiction
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_12_22.html

一方で黒沢さんは達郎さんと、達郎さんのアルバムの話をしている。黒沢さんからすると達郎さんは大先輩で、『フォー・ユー』のアルバムは、3枚持ってるとか、『オン・ザ・ストリート・コーナー』は4枚持っているとか、すごい話が続々でてきた。なんで、そんなになるかというと、アナログ・アルバムでまず買い、普通のCDが出て買い、デジタル・リマスターのCDが出て買いとかでどんどん増えてしまったそうだ。

そうこうするうちに、松尾さんが携帯で話をしながら、誰かを迎えにちょっとだけ店を出た。そして、戻ってくるや、誰を連れてきたかというとなんと、久保田利伸さん。いやあ、びっくり。やはり近くで食事をしていたとかで、松尾さんの誘いに乗ってやってきたみたいだ。

しかし、山下達郎→久保田利伸→黒沢薫→松尾潔とまさに日本のソウル・ミュージックという役で一気通貫ではないか! 達郎さんは、久保田さんに「で、あなたは誰が一番好きなの?」と質問。この質問もすごい質問だが、「いやあ、よく聴かれるんですが、誰ひとりって絞れないんですよ。あるときはこの人が好きだったり、別のときは、違うシンガーが一番だったり。いっぱいいすぎて答えられなくないですか。達郎さんはそういう風に聞かれたらなんて答えるんですか」と逆質問。すると達郎さん「俺は、ジェームス・ブラウンだよ。みんなあの人をそういう風には評価しないけど、何がなんでも歌が一番うまいね」 

達郎さんのジェームス・ブラウン好きは以前から知っていたが、そこまでとは思わなかった。原盤のシングルも200枚以上持っているそうだ。「僕がね、自分で作った歌のうまいジェームス・ブラウンのコンピレーションCDあるから、今度あなたに焼いてあげるよ」と久保田さんに言っていた。

達郎さんは「俺はもともとドゥワップ(が好きで)で、ソウルばっかりだった。ドゥワップもラップも、同じだよ。ドゥワップが今だったら、ラップになってるんだ。そう言っても僕の世代の仲間は誰も理解してくれないんだけどね」と言う。まさにその通り。以前どこかに同じことを僕も書いたが、ドゥワップもラップも黒人のストリート・カルチャーで同じなのだ。

何がきっかけでソウルの道に入ったか、という話になり、久保田さんは「テレビでナタリー・コールの『ミスター・メロディー』や、マリリン・マックー&ビリー・デイヴィスの『星空のふたり』あたりを聴いてから」という。なるほど、75年から76年にかけてのことだ。達郎さんと久保田さんの話を聞いていた黒沢さんは、「もう、目の前でこんな放談を聴けるだけで大感激ですよ、僕は」と感動中。

達郎さんは1953年生まれ、久保田さんは1962年生まれ、そして黒沢さんは1971年生まれ。きっちり9年ごとに誕生している。となると、次代の日本のソウルシーンをになうのは1980年生まれ、さらに1989年生まれになるのか。ソウルシンガー9年周期誕生説? 80年生まれと言えばマル、89年生まれと言えば、我らが木下航志くん。

思わぬソウル・サミット・イン・エビスであった。ジョニー・ギルのライヴより、こっちのほうが強烈なインパクトがあったりして。(笑) 全部録音しておきたかったなあ。(笑) それにしても、こんなメンツを集める松尾潔氏、おそるべし! さすが、大プロデューサー! いよっ。楽しい夜をありがとう。

■ソウルバー・アリ・オリ

August 24, 2005
Soul Bar Searchin' : Bar "Ali Ollie" 
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_08_24.html

ENT>ESSAY>
ENT>SOULBARS>Ali Ollie

投稿者 吉岡正晴 : 04:00 AM | コメント (0)

October 27, 2006

Soul Talking With Mr. Luther

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【ルーサーさんとソウル談義・・・】

エア・ベース。

2007年1月14日(日)に第5回目のソロ・ライヴを行うミスター・低音ルーサー市村さんと、ライヴについてあれこれお話しをしてきた。すでに3ヶ月を切っているわけだが、まだ2ヶ月以上あるといえば、ある。だが、こんなのはあっという間に過ぎてしまう。(笑)

ルーサーさんすでに、かなりの曲を聞きこんでいて、さらに歌詞カードも集めておられているが、選曲に迷われている感じ。ルーサーさん向きと思われる曲を集めたCDを1枚焼いて持って行った。その他に、ルー・ロウルズのライヴ、アーロン・ネヴィルの届いたばかりの新譜(これがすばらしい、後日詳しく書きます)、ロナルド・アイズレーのバカラックのアルバムなどをお渡しした。果たして、どうなるか、乞うご期待。

曲の話も少しはしたのだが、それより、どうも気がつくとお笑いネタのほうに行ってしまうのはルーサーさんならではか。(笑) その席で思いついた曲は、ソウルナッツのDJケイコに頼んでかけてもらったり。

前回までのライヴのリスナーの反応は、曲についてよりも、トークネタへの反応のほうが圧倒的に多いそうだ。それはそれで、受ける。

そうこうしているうちに隣に、先日ブルースアレーのガッツのライヴでベースを弾いていた坂本竜太さんが仲間たちと来て、予期せぬ再会、雑談。そういえば、坂本さん、この近くに住んでいてよくナッツに来ていると言っていた。ルーサーさんと坂本さんを紹介すると、最初はわからなかったが、話し始めて大分たってから、実はかつて番組かなにかで会ったことがあったそうだ。坂本さん「ソウルバー、いいですよねえ! うちでCD聴くより、ここでアナログ聴くほうが、いいんですよ」

彼に「ねえねえ、エアー・ベースやって」と言ったら、テレながら堂々とやってくれた。(笑) ルーサーさん「エアー・ギターっていうのは聴いたことあるけど、エアー・ベースっていうのは初めて聴いた」 「僕も、今思いついて、初めて言いました(笑)」 「今、思い出しました。そういえばアメリカでは、楽器はほとんどなんでも『エアなんとか』、ってあるそうですね」 「へえ、そうなんですか」 「エア・ドラム、エア・ギター、エア・ヴァイオリンなんかもあるそうですよ」 「あ、じゃあ、ルーサーさん、ステージで曲の途中にピアノソロいれて、エア・ピアノでもやったら?」 

エア・ベース、っていったら、普通Air Base 航空機基地=飛行場のことだねえ。スペルが違うが。Air Bass ね。しかし、話は尽きません。

■ルーサーさんソロライヴ

October 15, 2006
Luther Number 1 Ichimura's Solo Live Will Be Held In January
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_10_15.html

ENT>ESSAY>Luther Ichimura

投稿者 吉岡正晴 : 03:56 AM | コメント (1)

August 17, 2006

Looking For An Echo: A Street Musician Under A Girder Bridge

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【ガード下のミュージシャン】

エコー。

近くのツタヤによった帰りに、車を走らせていると五反田駅のガード下で、なんとサックスを吹いている黒人がいた。夜の12時半くらいか。最初は通り過ぎたのだが、瞬間、なんでこんなところでと思い、車をバックさせてみた。(普通はバックなんかさせない。物好きだ) こんなところ、終電終ったら誰も通らないぞ。(笑) 

確かにそこはちょうどガード下なので音が響く。昔、アカペラ・コーラス・グループがエコーがいいので、ガード下、橋下などで練習したが、彼のサックスもけっこう響いていた。

僕が車を寄せると、彼が近寄ってきた。彼に尋ねた。「毎日、ここでプレイしているの?」 「ああ、11時半くらいから1時くらいまでかな。毎日、やってるよ」 「どこ出身?」 「元々はジャマイカだ。その後、ニューヨーク、ロスアンジェルス。でも、ロスアンジェルスはあんまり好きじゃない」 「普段は何をしてる人?」 「作家(writer)だ。映画の脚本を書いている。今も日本人俳優の脚本、書いてるんだ。原宿、表参道、代官山、渋谷、そんなところが舞台の映画だよ」 「へえ~~」 

しばらく雑談していると彼に名刺があるかと言われたので、ちょっと躊躇したが渡した。そして、「僕はメルヴィンだ。よろしく」と言う。ところどころ、日本語をまじえ、少し訛りのある英語だ。そんな彼がこう尋ねてきた。「映画『グリーンマイル』って知ってるか?」 「もちろん、知ってるよ。スティーヴン・キングでしょ」 「あれは俺が書いたんだ。でも、やつらが盗んだ。ハリウッドのプロデューサーたちが、俺のアイデアを盗んだんだ」 「へえ、じゃあ、訴えったらどうなの?」 「そう弁護士に聞いたが、大きなスタジオ、有名なライター、彼らは巨額のマネーを持っていて、こっちも金を持ってないと、まったく勝てないって言われたよ。でも、俺はいいんだ。アイデアはいくらでもあるからな。書いて書いて書きまくるのさ。ははは」

まあ、話半分というか、どこまで本当かまったくわからないのだが、こういう胡散臭い(うさんくさい)、怪しげな人物の話って、けっこう茶飲み話題におもしろい。例えば、日本で言えば、そうだなあ、松本清張の『点と線』、あれ、俺が書いたんだよ、と言うようなものだもんなあ。なかなか言えないよねえ。あるいはすっごく有名なヒット曲、例えば「およげたいやき君」をして、あれ、俺が書いたんだ、みたいな話。

しかし、なんであんな人通りも少ないガード下で毎日演奏してるんだろう。もっと人が集まりそうなところでやればいいのに。ガード下ゆえに、上に山の手線が走ると、音は聴こえなくなるのだ。彼もまた、エコーを求めているのかな。演奏はちゃんとは聴いてないんだが、今度そっと聴きに行ってみようかな。

ENT>MUSIC>ESSAY

投稿者 吉岡正晴 : 03:44 AM | コメント (0)

August 16, 2006

Silly Love Letters: Postcards Of Summer of 87 (Part 2 of 2 Parts)

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

夏休み、お盆スペシャルとして、昨日と今日に分けて、二人の大学生のとある夏の物語をお送りします。ノンフィクションですが、登場人物は仮名です。

【「シリー・ラヴ・レターズ」パート2】 

87年夏。二人の大学生が2ヶ月の夏休みの間にアメリカ本土全州制覇をする計画を立てた。そのうちの一人が、ガールフレンドに毎日絵葉書を描き綴り各地から送った。一体どのような旅になったのか。その絵葉書は、どうなったのか。とあるサマー・オブ・87の物語・・・。

■登場人物

イチロー=日本からの大学生
チューイ=イチローと同じ日本の大学からやってきた大学生
アイリス=イチローのガールフレンド

+++Postcards Of Summer Of 87

感動。

旅を続け、そこで触れる大自然は素晴らしかった。どの国立公園も景色が異なり、新たな国立公園に到着するときはいつも期待で胸が高まった。国立公園以外でも大自然は常に二人を魅了した。

ナイアガラの大瀑布(だいばくふ)、エメラルド・グリーンの海を走るキーウエストへのまっすぐの道、遥か谷底をメキシコとの国境を成すリオ・グランデ河が流れる絶壁、カリフォルニアの猛烈な砂漠の暑さ、地球上とは思えない不思議で壮大な景色が続くユタの巨石群、樹齢2000年以上でその周囲が20メートル以上のセコイア杉が無数に佇む森、ワイオミングの雄大な山々をバックに動くバッファローの大群、巨大な地下ドームが突然現れる洞窟とその入口を守る無数のコウモリ、標高4000メートル以上まで車で登り夜明けを迎えたロッキー山脈の神々しい山々。夜、国道でヘッドライトを消すと真っ暗闇になり、夜空に数え切れないほどの星が瞬いた。アメリカの大きな自然を彼らは感じ続けた。

イチローは、そんな大自然の感動を一枚一枚アイリスへの絵葉書にしたためた。全米の自然の雄大さがイチローが綴る絵葉書に載ってアイリスの元へ届いた。

街を抜けるとしばらくは砂漠のど真ん中にある道をひたすら走るだけで、景色はほとんど変わらないこともしばしばあった。国立公園でトレッキングしたりする以外は、毎日1日12時間以上走ってほとんどの時間を車の運転で過ごしていた。次第に二人は話すこともなくなってきた。

タイアが一度もパンクしなかったことが奇蹟だった。エンジンも、丈夫でエンストすることは一度もなかった。しかし、まずはパワーウインドウが効かなくなり、窓の上げ下げは手動になった。やがてエアコンも壊れ、そしてパワーステアリングがだめになり、ハンドルを回すのにも大変な力が必要になっていた。オイル漏れもひどかった。ガソリン・スタンドで直せるものは直してもらった。一度はそれでもだめで、イエローページで自動車工場を探し、訪ねたこともあった。2000ドルの中古車で全米を制覇するなどというのが、もともと無謀だったのだろうか。車の悩みは尽きなかった。旅の間中、決して壊れることはなかったカーラジオからは、ハートの「アローン」が何度も流れていた。

+++Keep On Driving, Sleeping In The Car

走行。

ある街ではこの車を売って新しい車にしようかとも考え、中古車の店に行ったが、いくらかつくかと思ったら、「置いてってもいいよ」としか言われなかった。つまり、値段は付かないのだ。捨てる費用がかかるが、それはいらないという程度のものだった。フリーウェイをまっすぐ走るだけだったら、何も問題はなかったし、余分なお金もなかったので、そのまま旅を続けた。ただ駐車するときや、細い道でハンドルを細かく切らなければならないときなどは汗だくの重労働だった。

食事はガソリン・スタンドやコンビニのようなところで、3本1ドルのホットドッグを買ったりしてすませた。レストランなどでの外食はせずにほとんど自炊だった。チューイの持参した自炊セットで、お湯を沸かしインスタント・ラーメンを作ったり、スーパーで買ったパンとハムで作ったサンドイッチが主食となった。最初はキャンプ場でテントを張って泊まっていたが、やがてはテントを張ることも面倒になり、かつ僅かなキャンプ場の使用料も節約するために、車の中で寝ることが多くなった。

「遅番」がまだ寝ているうちから「早番」が先に起きて運転を始め、やがて「遅番」が起きて朝食の用意をし、昼過ぎからは「遅番」が運転をして、夜は「早番」が先に寝て、「遅番」は自分が眠くなるまで運転して、眠くなったら車を道端に停めて寝る。いつの間にかそんなパターンの毎日となった。幸い、危ない目には一度も遭わずにすんだ。車もおんぼろの中古車だったし、二人とも日焼けして汚い格好だったせいか、周囲に気をとめられることもなく、悪い連中からもからまれることはなかった。彼らは走り続けた。スターシップの「ナッシングス・ゴナ・ストップ・アス・ナウ」は、春先からヒットしていたが、夏の間中も、全米どこの地域へ移動してもラジオから流れてきた。「何も俺たちを止めるものはない」。まさに二人のテーマと重なっていた。

街と街の間で、ラジオの電波が入らない場所がいくつかあった。そういうところでは、チューイはボブ・ディランをかけたり、イチローはジャクソン・ブラウンのテープをかけたりもした。二人のお気に入りのポール・サイモンやブルース・スプリングスティーンのテープも何度も聴いた。こうした曲は彼ら二人の、87年夏の思い出の曲となっていった。それらの曲を今聴くと、瞬時に彼らを87年のあの夏に連れ戻してくれるのだ。

+++Hey Mr. Postman

ポストマン。

アイリスはその「シリー・ラヴ・レター」を毎日、楽しみに待った。日々、イチローたちがどこの州の何という街にきているのか、何をしたかなどが刻々と報告されてきた。絵葉書に書かれているイチローたちが聴いている同じ曲をラジオで聴いたり、時にレコードをかけながら絵葉書を読んでいると、彼女自身もイチローたちと一緒に全米を旅しているかのような気になった。彼らは同じアーティストの同じ曲でもつながっていた。

Eメールも、ファクスもなかったその頃の唯一のコミュニケーションの手段。それが肉筆の手紙、しかもコピーも存在しない世界でたった一通のイチローからアイリスへの絵葉書だった。アイリスは毎日ポストマンがやってくる時間になると、自宅のポストの前で待ち構えることもあった。やがて、やってくるポストマンの顔も覚えた。

ある時、アイリスが買い物にでかけた時、街中(まちなか)でいつものポストマンが郵便配達をしているところを見かけた。前々日から「シリー・ラヴ・レター」が来ていなかった。そこで、思い切って彼女はそのポストマンのところに駆け寄って尋ねてみた。「私はモンティセロ通りに住んでいるアイリスです。今日、私宛の絵葉書はないかしら?」 

するとそのポストマンは最初怪訝そうに彼女を見つめたが、ふと何かがわかったような顔をして言った。「君は『シリー・ラヴ・レター』のことを話してるのかな?」 ポストマンも見て知っていたのか、あるいは毎日のように届くその絵葉書を見るでもなく覚えてしまったのか。 「そうよ!(苦笑) 今日は来てないの? 私宛の『シリー・ラヴ・レター』!」  

彼はものすごく残念そうな顔をして彼女に言った。「I’m so sorry.(ごめんなさい)」。それを聞いてアイリスは今日もまた来ていないのかと落胆して肩を落としつぶやいた。「OK…Thank you…(わかりました。ありがとう)」。だが、その後すぐにポストマンがにっこりしながら付け加えた。「Today, I have only 3 Silly Love Letters !(今日はシリー・ラヴ・レターはたったの3通しか来てないよ !)」。そして、ポストマンは黒いバッグから3通の絵葉書を取り出しアイリスの手に渡した。アイリスはポストマンに抱きついた。

+++Wall Of Iris

壁。

結局、イチローとチューイの旅は約2ヶ月と2週間続き、出発地のアイオワに戻ってきた時、全48州を横断したダッジ・オムニの走行距離は5万マイル(8万キロ)を超えていた。軽く1日1000キロ以上走った計算になった。

イチローが書き綴った最後の「シリー・ラヴ・レター」はちょうど60通目となり、シカゴでアイリスがイチローに再会した数日後に到着した。だが、1通だけアイリスの元に届かなかった絵葉書があった。イチローとチューイのアメリカ本土全州制覇の旅は無事終わり、3人は再会し59通のシリー・ラヴ・レターはアイリスの壁に貼られたが、1通のシリー・ラヴ・レターの放浪の旅はまだ続いている。

彼らがシカゴに戻ってきた時、イチローとチューイの「サマー・オブ・87」は終ろうとしていた。ロス・ロボスの「ラ・バンバ」が彼らの帰還を陽気に迎えているかのように、はしゃいだサウンドをラジオから流していた。ジグゾー・パズルのピースが一枚だけ欠けているアイリスの壁は、87年夏の3人にとって大切な宝物のような思い出になった・・・。

(おわり)

(名前はすべて仮名です)

ENT>MUSI>ESSAY>Silly Love Letters

投稿者 吉岡正晴 : 12:04 AM | コメント (2)

August 15, 2006

Silly Love Letters: Postcards Of Summer of 87 (Part 1 of 2 Parts)

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

夏休み、お盆スペシャルとして、今日と明日に分けて、二人の大学生のとある夏の物語をお送りします。ノンフィクションですが、登場人物は仮名です。

【「シリー・ラヴ・レターズ」パート1】 

87年夏。二人の大学生が2ヶ月の夏休みの間にアメリカ本土全州制覇をする計画を立てた。そのうちの一人が、ガールフレンドに毎日絵葉書を描き綴り各地から送った。一体どのような旅になったのか。その絵葉書は、どうなったのか。とあるサマー・オブ・87の物語・・・。

■登場人物 

イチロー=日本からの大学生 
チューイ=イチローと同じ日本の大学からやってきた大学生 
アイリス=イチローのガールフレンド

【シリー・ラヴ・レターズ~87年夏の絵葉書物語】

+++Conquer.

制覇。

1986年夏。アメリカ・アイオワ州。

日本からアメリカ中西部の大学に1年間交換留学で勉強しにいくことになったイチローとチューイ。それぞれ進む大学は違っていたが、最初の一ヶ月間だけはアイオワ州の片田舎にあるサマースクールで、他の留学生たちと基本的な英語などを学びながら共に過ごしていた。二人は同じ大学出身ではあったが、学部が異なっていたため初対面だった。しかし、次第に意気投合し、一年の留学を終えた翌年6月の再会を約束した。アメリカの学校の夏休みは6月末から9月末くらいまで、約3ヶ月ある。そこで日本に帰る前のその夏休みに一緒にアメリカを見て周ろうという話になった。

イチローは、かつて訪れたことがあったいくつかのアメリカの国立公園の素晴らしさをチューイに話した。「じゃあ、夏休みを利用して、アメリカ全土の国立公園を制覇しようではないか」というアイデアが生まれた。国立公園について調べてみると、ほとんどの州に最低ひとつはあったが、一方でひとつもない州もいくつかあった。そこで、どうせなら、ハワイとアラスカを除くアメリカ本土全48州を訪れ、すべての国立公園を車で走破しようということになった。目標期間は約2ヶ月。二人はその計画を胸に秘めて、それぞれの留学先の大学へ向かった。

+++Departure

出発。

1987年初夏。

それから一年は瞬く間に過ぎた。各々がそれぞれの地で勉強をし、アメリカでの生活にも慣れ、英語も日常会話なら困らない程度にはなっていた。

アイオワ州で再会したイチローとチューイは、中古車屋を回りおんぼろのダッジ・オムニを2000ドルで買った。それほどお金に余裕がない学生には一人1000ドルでもぎりぎりだった。そのダッジ・オムニに荷物を全部積み込んでアイオワを出発した。イチローがアメリカ本土全48州とそこにあるすべての国立公園を経由する綿密な予定ルートを立て、時計回りにアメリカ大陸の旅を始めた。イチローが留学先で出逢ったガールフレンドのアイリスも彼女の実家があるシカゴまでは一緒に行くことになった。

車ではカーラジオをつけたり、ラジオが聞こえなくなる地域では、音楽が大好きなイチローが各州にちなんだ曲を集めて作ったテープが旅のお供になった。ラジオからはU2の「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」などがよく流れてきた。

出発地アイオワ州からシカゴまでの1週間はイチローとチューイがかわるがわるに運転をしながら、アイリスも含めて和気あいあいだった。大小の湖が次から次へと現れるミネソタ州。ここを走る車のナンバーには、「一万湖の国(Land Of 10000 Lakes)」と書かれていた。そんなミネソタを北上し、キャンプをしながら旅は進んだ。ミネソタの東に位置するウイスコンシン州に入り、そこからイリノイ州へ南下、やがてシカゴに近づくにつれて、イチローとアイリスの表情に曇りが見えるようになった。アイリスをシカゴまで送った後は、アイリスと別れいざ男二人旅になるからだ。

++Silly Love Letter.

手紙。

シカゴを出発するときイチローはアイリスに約束した。「毎日、いや、最低でも州ごとに一通ずつ絵葉書を出すから」と。イチローとチューイはアイリスに別れを告げて、さらに東へ向かった。

イチローとチューイのアメリカ本土全州制覇は、ちょっとした珍道中となった。毎日毎日ただひたすら次の目的地へ向けて車を走らせた。都市はやがてどの都市も同じに見えるようになってきた。ビル街のあるダウンタウン、そして郊外に行けば、見慣れた田園風景。田舎の町並みもどれも同じになった。どこへ行ってもおなじみのファースト・フード店が並び、同じチェーン店のガソリン・スタンドがあり、大きなスーパーやドラッグストアも大差はなかった。1日2回ガソリン・スタンドへ寄って、ガソリンをセルフサーヴィスでいれ、そこで食料を調達する以外は走り続けた。たいくつな風景にベリンダ・カーライルの「ヘヴン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」がよきサウンドトラックになった。

イチローが運転している間、チューイはぼーっと外を眺め、ほとんど静止画像のような景色を眺めていた。一方、チューイがハンドルを握っているときは、イチローはよくアイリスへの絵葉書を書いていた。新しい州や国立公園に到着するたびに絵葉書を買って、揺れる車内で彼はいつも何かを書いていた。そして、この絵葉書に彼はタイトルをつけたのだ。

それは、「シリー・ラヴ・レター(Silly Love Letter)= 愚かなラヴ・レター」というものだった。ポール・マッカートニーの「Silly Love Song(シリー・ラヴ・ソング)」という曲のタイトルをもじったもので、そして、彼は一通ごとに書いた順に「通し番号」を打った。Silly Love Letter #3 とか Silly Love Letter #35 といった具合に。

イチローは手紙を書き終える度にその絵葉書をポストに投函したが、おもしろいことに郵便事情で、アイリスの元にはその絵葉書は通し番号順には到着しなかった。#3の次に#5がきたり、#20の次に#21が来たかと思えば#19がその後に来たりといった具合だ。イチローは毎日「シリー・ラヴ・レター」を書いては投函していたが、アイリスの所には毎日1通ずつきっちり届くかというとそうでもなく、1日1通の時もあれば、2-3日まったく来ないでその後3-4通一緒に来てしまうこともあった。シカゴで受け取るアイリスはいつしかその葉書を通し番号順に並べて壁に貼るようになった。

日ごとに壁を埋め尽くしていく全米各地からの絵葉書たち。アイリスの全米の壁は、アメリカ中のもっとも美しい景色ばかりを彩る壁になっていった。ジグゾーパズルのピースがひとつひとつ埋められていくように、毎日のように届く一枚一枚の絵葉書が少しずつその壁を埋めていった。


(続く)

ENT>MUSIC>ESSAY>Silly Love Letters

投稿者 吉岡正晴 : 12:39 AM | コメント (0)

January 05, 2006

The Best Of Soul Searchin Diary 2005 (Part 4) 

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【「ベスト・オブ・ソウル・サーチン・ダイアリー2005」(パート4)】

ベスト。

いやあ、よく読み返した。自分で言うのもおかしいが。(笑) 365本っていう数はかなりの量です。1本平均1000字としても、36万字以上になる。分厚い単行本2冊分にはなる量です。多分、1年分の日記の量は、『ソウル・サーチン』や『わが心のジョージア』以上のものになるんでしょうね。・・・ということを計算してみて、初めて気づいた。

それからもうひとつ、随分前から気づいていること。2002年6月にぼちぼち日記を始めた時は、文字数が少ない。2002年10月6日以降、休みなく連続で書いているが、当初は1日600字程度を目安に考えていたが、どんどん長くなっている。600字というのは、例えば新聞でライヴ評を書いたりする時がそのくらいの量だから。朝日新聞の天声人語も600字強だ。3000字を超えると、ちょっと量が多すぎるので、軽く読む感じではなくなる。そこで、ものによっては2部に分けるようにしているが、どうしたものか。

そういえば、昨年「ベスト・オブ」を選んだ時、手付かずの2003年もいつかやろうと思ったことを思い出した。いつかやりましょう。

<10月の1本>

October 02, 2005
Eric Benet: A Man At Crossroad (Part 1 of 2 Parts)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_10_02.html

October 03, 2005
Eric Benet: A Man At Crossroad (Part 2 of 2 Parts)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_10_03.html

エリック・ベネイにまつわるひとつの物語。ある人の人生の交差点にいたエリック・ベネイの音楽。エリックの音楽が彼女にどのような人生の転換を与えたのか。2部作。ストーリーが長かったので2部になった。まさに「ソウル・サーチン」物語です。

<10月のその他の候補>

October 05, 2005
Steve Tyrell Live: The Man Behind "Greatest Song Book"
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_10_05.html
October 06, 2005
Steve Tyrell Talks
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_10_06.html

October 10, 2005
More Steve Tyrell: Writing Diary In The Wee Small Hours Of The Morning
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_10_10.html

ロッド・スチュワートの大ベストセラー『グレイト・アメリカン・ソングブック』の誕生秘話。スティーヴ・タイレルのライヴ評。3部作。In The Wee Small Hours Of The Morningの訳詞も。

Dana Hanchard Live: PP=Perfect Performance 2005/10/08 (Sat)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_10_08.html

デイナ・ハンチャードのワンマン・ライヴの評。昨年初めて見たライヴパフォーマンスの中では、ベスト3にはいる。

October 20, 2005
Eyewitness To The Osaka Monaurail Live
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_10_20.html

オーサカ=モノレール・ライヴ評。このグルーヴ感は文句なし。

October 22, 2005
Studying "A Time To Love" Part 1
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_10_22.html

October 23, 2005
Studying "A Time To Love" Part 2
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_10_23.html

スティーヴィーの新作『ア・タイム・トゥ・ラヴ』研究。まず「イフ・ユア・ラヴ・キャンノット・ビー・ムーヴド」の解釈と訳詞。第2弾は、アルバム・タイトル曲の解釈・訳詞。なぜスティーヴィーがこの2曲を最初と最後に置いたのか。

October 24, 2005
The Rebirth: I Found A Piece Of Soul Today At BN
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_10_24.html

新グループ、リバースのライヴ評。事前知識なしに見たライヴの中でひじょうによかった。

October 25, 2005
Raul Midon: From Donny To Stevie To Raul
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_10_25.html

ラウル・ミドン・ライヴ評。ラウルはクインシー・ジョーンズと誕生日が同じ。ラウルの素晴らしい女性の見極め方は?

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<11月の1本>

November 21, 2005
Could You Do Me A Favor? Will You Play "Stardust" For Me? : Joe Sample (Part 3)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_21.html

November 22, 2005
A Night To Remember: Thank God For Joe Played It For Me ~ Joe Sample (Part 4)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_22.html

ピアノの魔術師、ジョー・サンプルとジョージ・デュークのライヴ。ジョーとの会話からとある曲のリクエストを思いつく。しかし楽譜がない。そこで僕は彼の元へCDを持っていった。リクエストはどうなるのか。6部作の内、パート3と4。

<11月のその他の候補>

November 02, 2005
Dinner Refugee: Searchin' For Good Cutlet
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_02.html

夕食難民かく迷いき。トンカツ店は火曜日が休みが多い。

November 03, 2005
Stevie Wonder: Accept 3 More Questions, 10 More Radio IDs
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_03.html

November 04, 2005
Eye To Eye Contact With Stevie
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_04.html

スティーヴィー記者会見にて。アイシャを伴った記者会見でスティーヴィーは終始ごきげん。そして、僕はスティーヴィーと目があった・・・。

November 06, 2005
Stevie Wonder Press Conference (Part 1 of 3 Parts):
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_06.html
November 07, 2005
Stevie Wonder Press Conference (Part 2 of 3 Parts):
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_07.html
November 08, 2005
Stevie Wonder Press Conference (Part 3 of 3 Parts):
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_08.html

スティーヴィー記者会見、発言全容。

Brenda Vaughn Steal The Show 2005/11/10 (Thu)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_10.html

カトリーナ被災者のためのチャリティーライヴで見せたブレンダ・ヴォーンの驚異的パフォーマンス。感動の「アメイジング・グレイス」。今年のライヴ1曲を選べと言われたらこれにとどめをさす。

Standing Ovation For 50 Years-plus History 2005/11/12 (Sat)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_12.html

50年以上のヴェテラン・ジャズ・ミュージシャン、ソニー・ロリンズのライヴ評。観客全員のスタンディング・オヴェーションは、彼の歴史すべてへのものだった。それは最後の花道への拍手。

November 19, 2005
Groove Hand, Poet Hand: Magic Hand Of Joe Sample (Part 1)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_19.html
November 20, 2005
The Master Of Improvisation; Like Raindrops & Clouds : Joe Sample (Part 2)~
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_20.html
November 21, 2005

ピアノの魔術師、ジョー・サンプルのソロ・ライヴ評とジョーとの会話。さらに、ジョーとジョージのデュエット・ライヴ。

November 25, 2005
Joe Sample (Part 5); Performance In Living Room
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_25.html
November 27, 2005
Joe & George: Can Never Describe Their Music By Words
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_27.html

ジョー・サンプル&ジョージ・デューク、ライヴ評。トータル6部作。

Jun Played Newly Arrived Piano: The Sound Of Piano Has Changed In Two Hours 2005/11/28 (Mon)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_11_28.html

深町純、新しいピアノを手なづけるの巻。たった2時間でそのピアノの音は変化を見せた。

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<12月の1本>

The Moment John Lennon Passed Me By My Side 2005/12/08 (Thu)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_12_08.html

ジョン・レノンと僕がすれ違ったあの瞬間。

<12月のその他の候補>

December 09, 2005
Very Interesting Facts: Between Lincoln & Kennedy... 
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_12_09.html

アメリカ大統領、リンカーンとケネディーの数奇な共通点。これはおもしろい。

December 16, 2005
McCoy Tyner Trio: New Scratches On Board Of Piano
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_12_16.html

ジャズ・ピアニスト、マッコイ・タイナーのライヴ評。

J.T.Taylor Live: I Saw Your Memories Through Your Face 2005/12/17 (Sat)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_12_17.html

クール&ギャングのリードシンガー、JTテイラー・ライヴ評。観客の反応の中に、あの頃の思い出を見るJT。

2005/12/24
NHK "Soul Music Live, Vol.5" (Part 1)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_12_24.html

2005/12/25
NHK "Soul Music Live Vol.5" (Part 2) (Sun)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_12_25.html

NHK・FM放送の番組『ソウル・ミュージック・ライヴ』の観戦評。5時間に及ぶライヴ。

John Tropea Band With Kenya Hathaway: 2005/12/27 (Tue)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_12_27.html

フュージョン・ギタリスト、ジョン・トロペイのライヴ。ゲストに登場したケニヤ・ハザウェイ。インパクトありました。2006年期待の新人だ。

DJ Spinna(Part 1): The Future Of DJ 2005/12/28 (Wed)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_12_28.html
DJ Spinna(Part 2): Record Maniac 2005/12/29 (Thu)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_12_29.html

『ソウル・ブレンズ』にやってきたDJスピナは、レコード・コレクターだった。

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投稿者 吉岡正晴 : 03:18 AM | コメント (0)

January 04, 2006

The Best Of Soul Searchin Diary 2005 (Part 3) 

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【「ベスト・オブ・ソウル・サーチン・ダイアリー2005」(パート3)】 

ベスト。

2005年下半期は、ルーサー死去という衝撃のニュースで始まりました。ルーサーに関しては、彼が倒れてからこまめにフォローしていたので、ルーサー関連記事はこの2年でかなりの量になりました。また、赤坂の伝説のディスコ、ムゲンの話もなかなかおもしろかった。これは雑誌ブリオ用に取材したいもの。機会があれば、さらにつっこんだ取材をしてみたい。

<7月の1本>

Luther Vandross Died At 54: Reunited After 46 Years With His Father 2005/07/03 (Sun)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_03.html

ルーサー死去のニュース。2005年最大の衝撃でした。天国で出会う父と息子という描写がよかった。これを含めたルーサー関連すべてを今月の1本にしたいほど。

<7月のその他の候補>

July 06, 2005
Luther Vandross Talks In Brooklyn Accent
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_06.html

ルーサーへの個人的な思い出。ルーサーと僕の唯一の遭遇。

Mugen: The Legendary Disco 2005/07/07 (Thu)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_07.html

赤坂の伝説のディスコ、ムゲン物語。60年代、ムゲンで何が起こったのか。

Hugh Masekela: Signed Autograph On His Autobiography 2005/07/21 (Thu)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_21.html

南アフリカ出身のトランペッター、ヒュー・マサケラのライヴ評。長く南アフリカを出ていた彼が、いつ母国に戻ったのか。最後の僕とヒューとのやりとりがよかった。

Harlem Nights: Omar Edwards, Barefoot Tap Dancer 2005/07/29 (Fri)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_29.html

タップ・ダンサー、オマー・エドワーズの感動のパフォーマンス。オマーが回転したときの汗のしぶきが本当に美しかった。

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<8月の1本>

A Friend Of 25 Years Ago Sent Me Email For The First Time 2005/08/12 (Fri)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_08_12.html

25年前の友人から突然やってきたEメール。一体何が起こったのか。インターネットの力を感じた出来事でした。

<その他の候補>

August 03, 2005
Dexter Redding Talks
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_08_03.html

オーティス・レディングの息子、デクスター・レディングが来日。いろいろな話をした。

Neumann U-87: It's Kei's Mike 2005/08/05 (Fri)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_08_05.html

美声DJ、ケイ・グラント氏愛用の「マイ・マイク」に隠された秘話。

August 15, 2005
Strange Avocado & Shrimp Burger
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_08_15.html

肉のないバーガーの不思議。

Musical "Stomp": Hitting Everything And Became Hit Worldwide 2005/08/17 (Wed)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_08_17.html

叩ける物は何でも叩く「ストンプ」。なぜ人は物を叩くと興奮するのか。

August 23, 2005
Tokyo Jazz 2005: Herbie Is Real Control Tower
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_08_23.htmlハービーの力量が存分にでたライヴ。司令塔ハービーの秘密。

August 25, 2005
Kishita Kohshi Live At Duo: Power To The Listener
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_08_25.html

木下君のライヴ評。リスナーに力を与えるパフォーマンス。

August 26, 2005
"Sweet Sweetback's Baadasssss Song" & "Baadasssss!"
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_08_26.html

映画『スウィート・スウィートバック、バッドアス・ソング』の監督、メルヴィン・ヴァン・ピーブルス、その息子であり出演もしているマリオのインタヴュー。

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<9月の1本>

Eric Benet Live: Best Live Show At Venue Under 500, This Year 2005/09/30 (Fri)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_09_30.html

エリック・ベネイのライヴ評。小さなライヴハウスで見た今年ベスト3にはいるライヴ・ショウ。

<9月のその他の候補>

Agassi Legacy Continues: 2005/09/09 (Fri)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_09_09.html

テニスプレイヤー、アガシの久々の勝利。

Pianin & Dana Hanchard Live: Dana Said My Language Is Music 2005/09/10 (Sat)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_09_10.html

初めて見たデイナ・ハンチャードのライヴ評。いくつもの言葉を話す彼女は、「私の言語は音楽」と言った。

September 14, 2005
Peabo Threw Roses For Ladies Only
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_09_14.html

粋なシンガー、ピーボ・ブライソンは、赤いバラを観客にプレゼント。

The Word Which Could Never Translated Into Japanese 2005/09/25 (Sun)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_09_25.html

日本語にできない英語の単語に関する考察。


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投稿者 吉岡正晴 : 12:10 AM | コメント (0)

January 03, 2006

The Best Of Soul Searchin Diary 2005 (Part 2)

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【「ベスト・オブ・ソウル・サーチン・ダイアリー2005」(パート2)】 

ベスト。

このベストを選ぶために、365本の日記を全部読み返したら、大変なことになるので、タイトルで大体のあたりはつけているのですが、それでも、ちょろちょろ読み始めるとけっこう止まりません。(笑) 本棚を整理したり、雑誌を捨てようと思って、捨てる捨てないの判断をする時に、それらの雑誌を読み始めて結局思いのほか時間が経ってしまう、みたいな感じです。さて4月から6月にかけてのワンクールで選んだ作品群です。もし、読者の方でこれもいれて欲しいなどというご希望がありましたら、日記の日付を明記の上、BBSにお書き込みください。

<4月の1本>

April 24, 2005
The Last Day Of George's: Part 1
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_04_24.html

April 25, 2005
The Last Day Of George's: Part 2
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_04_25.html

日本最古のソウル・バー、ジョージが41年の歴史を持って閉店。その閉店最後の日を描く2部作。ジョージ最後の日に集まった人々の喧騒とそれぞれのジョージへの思いを綴る。

<4月のその他の候補>

Nat King Cole Sings "Love" In Japanese In A Beautiful Way 2005/04/11
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_04_11.html

ナット・キング・コールが歌う日本語版「ラヴ」の魅力。この日本語詞は、昨年亡くなった草野昌一さんがてがけたもの。

Cutting Edge To Edge Of Cup: The Shot Of Soul, Another History Was Made 2005/04/13 (Wed)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_04_13.html

タイガー・ウッズ、16番の奇蹟のショット。それは「ザ・ショット」と呼ばれる魂のショットになった。そこで起こった勝負の分かれ目は。
April 14, 2005
Stylistics Live At Kentos: After 37 Years, They Still Keep On Singing
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_04_14.html

April 15, 2005
Never Dreamed I'd Meet Them 30 Years After
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_04_15.html

超ヴェテラン・スタイリスティックスとのライヴ評。2部作。30年以上前に初めて会った彼らと再会して。スタイリスティックスは新リードを迎え、新たにパワーアップ。

April 16, 2005
Past, Present & Future Of R&B: Destiny's Child Live
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_04_16.html

デスティニーズ・チャイルド・ライヴ評。今年アリーナクラスで見たライヴの中では最高のものだった。

April 19, 2005
All That Simplicity Is Gold: Norah Jones
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_04_19.html

僕がノラ・ジョーンズの好きなところは、どこか。ノラのライヴ評から探る。

April 27, 2005
Knack For Writing Piece With Longevity
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_04_27.html

長く読まれる文章を書くコツ。とても勉強になるお話をテレビで阿川さんがされていた。どうしたら永続性のある文章がかけるか。

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<5月の1本>

The Soul Of Hamburger: 7025 Franklin Avenue 2005/05/06 (Fri)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_05_06.html

島津山のハンバーガーショップ、フランクリン・アヴェニュー・オウナーの松本幸三さんのハンバーガーへの執念を描く。ほんの雑談から始まったおしゃべりから、本質を射抜いたストーリーが次々と飛び出してきた。それは、まさに魂のハンバーガーの物語だった。

<5月のその他の候補>

May 04, 2005
The Last Chapter Of Life: Jimmy Scott Live
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_05_04.html

人生の最終章で歌い続けるジミー・スコットのライヴ評。ライヴの痛々しさに別の意味で感動。

May 17, 2005
Share The Love: Declares Dee Dee Bridgewater
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_05_17.html

ディー・ディー・ブリッジウォーターの「愛を分かち合おう」の宣言。毎回趣向が違うライヴにプロのエンタテイナーの真髄を見る。

May 22, 2005
Senju Akira Talks (Part 1): Native Speaker Of Music
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_05_22.html

May 23, 2005
Senju Akira Talks (Part 2): Baton Was Passed On To Son
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_05_23.html

音楽家、千住明氏の講演会。2部作。千住氏と父親とのソウルの触れあいが語られた。感動のお話。これも今月の1本に選びたいほどの内容です。

May 29, 2005
Why Do Machines Break Easily Lately?
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_05_29.html

最近のマシンはなぜすぐ壊れるのかという話。勉強になりました。

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<今月の1本>

Soul Searchin' Talking Vol.4; What'd I Write (Part 1) 2005/06/27 (Mon)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_06_27.html
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_06_28.html
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_06_29.html
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_06_30.html
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_01.html

第4回『ソウル・サーチン・トーキング』のレポート。ダイアリー始まって以来の大型レポート、5部作。書くことが本当にたくさんありました。木下航志君を広く紹介できたこと、ゴスペラーズの黒沢さんが出てくれたこと、そしてその二人がデュエットをしてくれたことなど、大変内容の濃いイヴェントになりました。

<6月のその他の候補>

June 16, 2005
Kimukatsu:  Millefeuille Of Tonkatsu
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_06_16.html

噂のキムカツを初めて食べて。トンカツのミルフィーユ、その魅力。

Tonkuro: The Most Underrated Tonkatsu Restaurant 2005/06/17 (Fri)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_06_17.html

キムカツの余波でなぜかトンカツ・シリーズ。隠れた名店、とん黒の話。

June 21, 2005
Eric Benet's New Album "Hurricane" Portrays His Soul Searchin' Story
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_06_21.html

ベネイの最高作か。エリック・ベネイの最新作『ハリケーン』に描かれたソウル・サーチン・ストーリー。


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投稿者 吉岡正晴 : 05:09 AM | コメント (0)

January 01, 2006

Happy New Year: I Say A Little Prayer

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

謹賀新年。

新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
今年も日々ソウル・サーチンに精進いたします。

吉岡正晴-The Soul Searcher

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意気込み。

新年にあたって、いくつか目標を作ってみた。そのいくつかをご紹介したい。紹介するほどのものではないが。(笑) 目標リスト、これらが実現できるように、お祈りします。2006年、小さな願い! 

1) 聴いたCDは、そのCDのプラスチックケースの中に必ず戻す。そして、最初にあったところに必ず戻す。

 最近、ほんとやばいんですよ。聴いたらそのまま、みたいな。プラケとCDがバラバラというのが、一番たちにおえない。必ず、まず、プラケに返す。

2) 届いた郵便物は3日以内に必ず封を切る。

 郵便物は封を切るのがけっこう大変で、すぐに貯まってしまう。毎日やるようにしよう。

3) いらないものはすぐ捨てる。そして大掃除。

 とにかく捨てる、を今年のテーマにしてみよう。(笑) 

4) しっかりプランを練る。予定や目標や企画を立てて、紙に書く。そして実行する。

 やはり、これは大事です。

5) 聴いたこと、見たこと、感じたことは、忘れないうちにすぐ書き記す。

 日記ネタになりそうだなあ、などと思ったら、発表するしないにかかわらず、貯めずにすぐ書いておく。時間が経つと本当に忘れてしまう。自分でも一年前の日記を見てて、え~~、こんなことあったっけ、と思うことしばしば。ほんと、人間の記憶力なんて、たいしたことないもんです。去年の訃報記事見て、あれこの人死んだっけ、みたいなことさえある。笑えるようで笑えないです。

以下はソウルサーチャー的に、前々からなんとかしたいと思っていたこと。

6) スタンダード1000曲を覚える。

 いわゆる誰もが知ってるスタンダードを1000曲覚えたい。(べつに1000曲以上でもいいんだけど) 「これ、聴いたことある、絶対昔のスタンダードだ」「なんだっけ、なんだっけ」というような曲に出会った時、すぐに曲名がでるようにしたい。すでに何曲かは知ってるのはあるだろうが。最初に、何をもってスタンダードとするかその定義付けもむずかしいが。1955年以前の作品という感じだろうか。1955年以前に限定すれば、ヒット曲という意味で、5000曲あれば、ほぼ網羅できそうな感じだ。

7) オールタイム・ベスト100アルバムを選出する。

 ソウル・アルバムで自分的にベスト100と一般的な評価の定まったものを100枚、選んでみたい。時代的に1955年から2005年までの50年間かなあ。これもずいぶん前からのものですが。

8) 50・50・50をなんとか一度は成し遂げてみたい。

 これは、去年も書いたかも。ライヴ50本、本50冊、映画50本を見るということ。一番のネックは本でしょうねえ。毎年持ち越しのテーマ。ライヴは楽勝に100本越えてますが。

9) ソウル・サーチン・ウェッブのリノヴェーションをしたい。

 ひたすら日記だけの更新になっていて、それだけでかなり大変ではありますが、もう少しコンテンツを充実させたい。日記は2002年10月6日から一日も休まずに続いています。丸3年2ヶ月。1000日以上連続というのはけっこうたいしたもの。(笑) もっともっと続けましょう。

10) ソウル・サーチン・トーキングを充実させたい。

 昨年は結局1回だけでしたが、今年は2回はやるつもりです。詳細決まったら、告知します。


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投稿者 吉岡正晴 : 04:56 AM | コメント (0)

December 28, 2005

DJ Spinna(Part 1): The Future Of DJ

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【DJの未来図~セラート・スクラッチ・ミックス】

未来図。

日曜日(25日)に『ソウル・ブレンズ』にゲストでやってきたDJスピナ。ニューヨークを本拠にDJとして活躍すると同時に、多くのアーティストのリミックスをてがけている人物だ。1月2日に西麻布イエローで行われるイヴェントの告知にやってきた。

DJをするというので、では何枚くらいレコードを持ってきたのかと尋ねた。すると、驚くべき答えが。もはや、彼はアナログのヴァイナル・レコードを使わない。なんと、ハード・ディスクにすべてかける曲をいれておいて、そこから自由自在にミックスするという。

最近、アイポッドを2台使用してDJをする人がでてきた、という。同じように、ラップトップのパソコンを2台持ってきて、それをミキサーにつないでDJする人もいるそうだ。アナログからCDへ、アイポッドへ、そして、コンピューターへ、という時代になっているわけだ。ところが、スピナが使っているその機材はプロDJ用のもので、レーン社のセラート・スクラッチ・ライヴという機材。説明によると、そこにはいっている曲のピッチなども自由自在に変化させることができ、しかも、スクラッチもでき、言ってみれば通常のターンテーブル同様に使える、という。BPMも自動的に読み込み、テンポもあわせるられる。まさに未来のDJの図だ。

その話を聞いて、これはすごい、と思った。しかも、アメリカでは約550ドル程度。ここにDJスピナは8000曲ほどいれている、という。2台買う必要はない。1台で、その中に入っている曲をすべて自由自在にミックスできる、というのだ。ただ、まだ機材が新しく、アメリカでも使いこなせるDJがそれほどいないらしい。

モービルDJにとって、レコードやCDをいかにたくさん持っていくかが勝負のひとつだとは思うが、それでもやはり限界はある。12インチ、アナログ・アルバムだったら、せいぜい4箱くらい、3-400枚くらいが持っていく限度だろう。それがこの新兵器があれば、8000曲が自由自在になるのだ。アイポッド、パソコンでのDJも曲数に関して言えば、かなり無限大に近くなったが・・・。

これなら、またDJやろうかな、とも思った。(笑) CDJを買うより、こっちだ。

日本のディスコDJの歴史で言えば、最初はジュークボックス、次に普通のレコードプレイヤー、2台のレコードプレイヤー、2台のレコードプレイヤーにミキサー、CDプレイヤーの登場、などと進歩してきた。79年にニューヨークのディスコDJ、リッチー・リヴェラが来日し、いわゆる「つなぎのDJ」の技を見せていった。以来、日本のディスコでもDJが、それまでのしゃべり主体のDJスタイルから、つなぎスタイルへ劇的に変化していった。ひょっとすると、このセラート・スクラッチ・ライヴの登場は、それ以来の革命になるかもしれない。

DJスピナ、1月2日西麻布イエローで「プリンスVSマイケル・ジャクソン」というイヴェントを行う。マイケルとプリンス関連の曲しかかけないイヴェントだ。その新機材をどのように使うのか、じっくりと見てみたいと思う。

(DJスピナの項、明日に続く)

■DJスピナの公式ウェッブ
http://www.djspinna.com/

■西麻布イエローのウェッブにある告知
http://www.club-yellow.com/flyer/06html/0102.html(イヴェントは午後10時から、DJスピナは12時くらいからまわす予定。イエローはIDチェックがあります。20歳未満は入れません)

ENT>MUSIC>ESSAY
ENT>MUSIC>EVENT>ANNOUNCEMENT

投稿者 吉岡正晴 : 02:25 AM | コメント (0)

December 08, 2005

The Moment John Lennon Passed Me By My Side

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

The Moment John Lennon Passed Me By My Side

【ジョン・レノンとすれ違った瞬間】

瞬間。

12月8日というとジョン・レノンの命日だ。1980年12月8日、ちょうど今から25年前に彼はマーク・チャップマンという男に殺された。ジョンは40歳だった。このニュースは僕は9日の午後1時くらいだったかに電話で知らされた。それからテレビをつけた。

最初のうちは詳しいニュースがなかったが、徐々にいろいろなニュースがはいってくるようになった。夕刊に記事がでた。1面だった。それからNHKの『7時のニュース』が伝えた。

ちょうど1970年代後期というと、ビートルズの作品は、それほど大騒ぎされるという時期ではなかった。もちろん、定番として認知はされていたが、子供も大人も誰もが聞くというところまではいっていなかった。70年に解散したビートルズは70年代後期は、ちょうど人気がエアポケットにあった時期だ。各メンバーのソロ活動のほうがまだ注目されていたといえるかもしれない。

ところが、80年1月にポールが来日時に麻薬所持で逮捕、強制送還され衝撃が走った。さらに同じ年、このジョン・レノン射殺のニュースだから、ビートルズ関連の大きなニュースが世間を賑わした。

それまで僕はビートルズは、やはり反体制的な存在の象徴だったと思う。いわゆるロックン・ロールの最高峰的存在だ。ポールの逮捕は別にして、ジョンの死は一部の音楽ファンだけでなく、ビートルズをそれほど知らない人たちにも大きな衝撃を与えた。このジョンの死を機に、ビートルズという存在は、それまでのオルタナティヴなものから、一気にメジャーなものになったような気がする。要は朝日新聞の一面に記事が出て、NHKのニュースが大々的に報じたあたりで、ビートルズが、変な言い方だが、認められたわけだ。

つまりビートルズは老若男女みんなのものになったのだ。それまでは、ビートルズなんて一部の不良、一部の音楽ファンが聞くものなどと言われていた。そんなことは、今の21世紀では想像もできないだろう。だが、実際そうだったのだ。今だったら、さしずめ、その役目はローリング・ストーンズが果たしているのかもしれない。

あれは確か78年か79年の夏休みだったと思う。友人たちと軽井沢に遊びに行っていた時だ。旧軽井沢銀座をぶらぶらしていると、2人乗りの長い自転車に外人の親子が乗って、横をすり抜けていった。髪はとても長く、印象的だった。その瞬間、横にいた友人が「あれ、今のジョン・レノンじゃないの?」と言った。あわてて振り向くと確かに紛れもなくジョン・レノンの後姿だった。そして、すぐその後にオノヨーコさんがやはり別の自転車で走っていった。あの子供はショーンだったのだろう。

つまり、当時はジョン・レノンが日本に来ていても、それほど大騒ぎになることもなかったのだ。そのときも、「ジョン・レノンってよく万平にきてるからね、また見かけるよ」みたいな話をした。だが、その1年後か2年後にあんなことになり、あのすれ違いは大変貴重なものになった。毎年12月8日になると、僕はあの一瞬のすれ違いのことを思い出す。だから、なんだということでもないのだが・・・。

ENT>MUSIC>ESSAY>Lennon, John

投稿者 吉岡正晴 : 11:03 PM | コメント (0)

October 03, 2005

Eric Benet: A Man At Crossroad (Part 2 of 2 Parts)

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

(昨日のパート1からの続き) 

【人生の交差点--Part 2】

灯火。

音楽彼女はなにかがふっきれて、東京に戻ってきた。それを見た、彼女をいつも応援してくれていた女友達が一言つぶやいた。「ようやくわかったみたいね」 彼女にはすべて見えていたかのようだった。

2000年。そんな彼女がテレビで見た音楽ヴィデオの映像に目をとめ、そのアーティスト名をメモしていた。CDショップに行ったときに、そのメモを見ながらCDを探した。それがエリック・べネイのセカンドアルバム『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』だった。

家に戻りCDをかけると、一曲目からノックアウトさせられた。もうやられっぱなしだった。それこそ擦り切れるほど聴いた。自分が音楽をやることをやめてから、やみくもにただ音楽を趣味として聴いていた彼女が再び、自分でも音楽を作りたいと思い出すようになった。こんな声で歌われたらたまらない。だが、自分でもこれだけ人の魂を揺さぶる曲が作れたらいいなあ、という思いが少しずつ湧き上がってきた。音楽を止める決意をしてから5年以上の月日が経っていた。

改めて曲作りをするようになると、10年前の自分がいかに似非(えせ)シンガー・ソングライターだったかが、痛いほどわかった。10年間の経験が彼女にさまざまなことを教え、人間に深みを与えていたのだ。

音楽2005年、もちろん3作目も出たらすぐ買った。エリックのことをいろいろ読んだ。すると、エリックの苦労と挫折に感動し、その人生が妙に自分と重なってきてしまった。『ハリケーン』のいくつかの曲の歌詞を読めば読むほど、エリックの気持ちがわかってきた。

エリックは最初の妻と死別していた。次の奥さん、ハリウッドの大女優ハル・ベリーとも離婚していた。自分には子供はいなかったが、同棲していた彼氏と別れていた。

人に惑わされずもう一度自分自身になる決意を表明する「ビー・マイセルフ・アゲイン」、ハリケーンしか痛みを洗い流す方法がないときもあるという「ハリケーン」、僕は愛されたいと懇願する「アイ・ウォナ・ビー・ラヴド」・・・。いずれも、エリックが過去15年で経験してきたさまざまな出来事が投影されてきた作品だ。最初の妻の死、その忘れ形見インディア、そのインディアへの愛、親権をめぐる争い、新たな恋と別れ。個々の出来事が、それぞれの曲から実際には見てもいないのに、映画のワンシーンのように、フラッシュバックしてきた。そして、自分の10年を振り返ると、音楽での成功を夢見て東京にでてきたこと、しかし、いろいろあって音楽を止めたこと、まったくおもいがけず不倫をして、しかしそこから生きる糸口を見つけたこと、溺れかかったときに「生きたい」と強く感じたこと、同棲していた彼氏との別れなど、さまざまなシーンがリアルによみがえった。

彼女にとって、エリックの音楽は、自分の人生の節目節目に見事に現れてきた。自分の人生に迷いがあったとき、エリックの歌と声が、彼女にとっての漆黒の海原を照らす一筋の光を灯す灯台さながらとなっていたのだ。

+++++

直撃。

3作目『ハリケーン』を買ってからまもなくエリック・ベネイが来日することを知った。とるものもとりあえず予約した。最初土曜日を予約した。しかし、何日かして土曜日一日だけでは十分ではないのではないかと思い、初日も追加で予約した。

初日当日、最初はブルーノートには2時くらいに来るつもりだった。だが、ちょっと寝坊して、4時くらいになってしまった。予約番号は60番台だった。本当は一番前で見たいと思っていたが、一人だったのでなんとか前から数列目に座ることができた。9時過ぎに席に座り、ジントニックをオーダーした。テーブルにはハンカチを置き、準備万端にした。始まるまでの間、彼女は『ハリケーン』のCDの解説書と歌詞の日本語訳を読んでいた。歌詞を徹底的に頭の中にいれようと思っていたのだ。「その歌が歌われたとき、内容がストレートに私の中にはいってくるようにと思って」彼女は歌詞を丹念に読んでいた。彼女は、横に座っていた男がその姿を見て、心の中で「この彼女は本当にエリックが好きなんだな。ハンカチをテーブルに置いてるということは、本気で泣く気だな」などと推理していたとは夢にも知らなかった。

9時半スタートの予定がなかなか始まらず、彼女はちょっといらいらしてきた。だが、あこがれのエリックのライヴがまもなく始まると思うと、いらいらよりも、どきどきのほうが高まってきた。彼女の向かいの席はひとつ空いていたが、両隣にはカップルが座っていた。彼女の隣に座っていた女の子が男性に「エリックっていくつくらいなのかしら」と尋ねていた。彼が「う~んと、1969年か68年くらいの生まれじゃなかったかなあ。36か37かな」と言っていた。「へえ、けっこういってるんだ~。でもかっこいいよね~」

彼女の耳はダンボになっていた。「ブルーノートのホームページちゃんと予習したよ。そこにはエリックは1969年の10月15日生まれだって書いてあるよ~~。私と誕生日2日しか違わないんだから、ちゃんと覚えてるよ」と心の中でつぶやいていた。「68年じゃないよ~~。しかもまだ誕生日前だから、35だよ」 思わずとなりの会話に口を挟もうかと思ったが、さすがにやめた。

観客席のライトが落ち、ミュージシャンたちがステージにあがってきた。もう興奮は最高潮だ。彼らが音を出し、エリックが楽屋からでてきたら、気持ちは最大限に爆発していた。一曲目から立ちあがりたかったが、ちょっとだけ我慢して、椅子に座りながら踊った。無意識のうちに激しく体が反応していた。エリックの年を聞いていた隣の女の子には少し迷惑になったかもしれない。

一曲目からはやくも放心状態だった。通路を歩いてきたそのスーツ姿のエリックを見ただけで来てよかったと思った。そして、マイクを握り、歌い始めた瞬間卒倒しそうになった。「やっぱり、あの声なのよ。すべての苦労があの声に入ってるのよ。だから、私のソウルに直撃なの」 彼女はそう思った。「インディア」では体が凍りついた。「ハリケーン」には涙があふれた。

さいごのアンコール曲ではもう会場も立ちあがっていたので、自分も立ちあがって踊った。エリックが後ろ側の通路を通ってステージに向かった時、思わず、小走りにエリックに向かって、ちょっとだけ触ってしまった。

自分の過去10年と、エリックの過去10年。もちろん、その10年は場所も、スケールも、人生の中身もすべて違うものだったが、このエリックのライヴ空間に来たことで、まったく歩みの違ったふたつの人生が一瞬交わったような気がした。彼女と同じように、ベネイの音楽に影響を受けた人もたくさんいるだろう。ベネイのように自身の人生を歌に託すシンガー・ソングライターには、男でも女でも共感者が多い。エリック・ベネイは、彼自身人生のいくつもの交差点を通り過ぎてきた男だが、彼はまた、さまざまな他の人たちの人生の交差点にも立つ男だ。

ライヴが終わると力が抜けて、彼女は魂の抜けたぬけ殻になっていた。ソウルなきボディーだ。すると、となりに座っていた彼が声をかけてきた。「エリック、相当お好きなんですね」 その日、ひとりで行動していてほとんどしゃべっていなかった彼女は、水道管の蛇口をひねったように、いっきにしゃべり始めた。今見たライヴの感動を語り合いたかった彼女は、それだけでなく、自分が札幌から歌手を目指してでてきたこと、エリックの音楽との出会い、そして、エリックと自分のことについてずっと話し続けた。ふと気付くと店内のBGMは消え、満員だった席には彼女らしか残っていなかった・・・。

ENT>MUSIC>ESSAY>Benet, Eric


投稿者 吉岡正晴 : 01:35 PM | コメント (0)

October 02, 2005

Eric Benet: A Man At Crossroad (Part 1 of 2 Parts)

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【人生の交差点】 

期待。

音楽ライヴが始まる前は、観客の期待感も徐々に高まっている。特に満員のセカンドセットとなれば、その温度もかなり熱くなっている。エリック・ベネイ初日、一人できていたその彼女はジントニックを係りの者にオーダーすると、おもむろにバックからハンカチを取り出し、テーブルに置き、さらに最新CD『ハリケーン』の解説書まで取り出した。そして、その解説文(ライナーノーツ)をさらりと読み、歌詞の日本語訳を熟読していた。まさに来るべきショウへの予習を熱心にしていたのだ。

約20分遅れで始まったショウ。バンドが音を出した瞬間から、その彼女はたったひとりで来ていたにもかかわらず、大爆発して座りながらも激しく体をゆすり踊り始めた。何人かグループで来て、盛り上がって踊り出す連中はよくいる。しかし、たったひとりできて、こののりは。いったいなぜ、彼女はこれほどエリック・ベネイの音楽に反応しているのか・・・。

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挫折。

1994年、札幌に住んでいた歌手志望の彼女は、真剣に歌手になる夢を求めていた。札幌時代にいくつかデモテープを作って売り込んだところ、とあるレコード会社が声をかけてくれ、レコード・デビューへの話が進み、とりあえず東京にやってきた。都内に部屋を借り、ちょっとアルバイトをしながら、ひたすら曲を作リ始めた。自分はいっぱしのシンガー・ソングライターだと思っていた。自分が他人よりも感性があることはうっすら気付いていた。自分が何かの出来事に感じる悲しみや喜びの度合いが他の人たちよりはるかに大きいのだ。だから嬉しいときはとても嬉しいが、悲しいときは相当落ち込む。その感情の起伏の激しさゆえに、なかなか友達も作り辛かった。

男2人と彼女でとりあえずユニットを作り、ライヴの準備も進めた。レコード会社の指導の元でレコーディングをしてみた。だが自分が作った作品について、ディレクターがあれこれ口出しをしてきた。もちろん、その曲をよくしようという建設的な意見なら、それもいいだろう。しかし、根本的な音楽的な違いからくる意見の相違は、なかなか受け入れることが難しかった。それでも、まだ何も音楽業界のことを知らない、10代のうぶな新人は、できるだけ、ディレクターや周囲の人に好かれようと、彼らの言う意見をどんどんとりいれた。

目指すサウンドは、スイングアウト・シスターズやシャーデーのようなちょっとおしゃれでクールな都会的サウンドだった。ところが、彼女は地があっけらかんとしていて、「がはは」と大きな声で笑うような豪快な女性だったから、目指す音とは少し違っていた。そして、周囲の意見に基づいて直して出来あがったデモ・テープの音は、彼女が最初に作ったものとは、似ても似つかぬものに変貌していた。ライヴも、MC(トーク)は、クールに行くようにといわれていたが、ひとたび話し始めるとオヤジギャグ満載でかなりファンキーになってしまった。観客からはバカ受けしたが、メンバーとスタッフは眉間にしわを寄せていた。

そして、次のライヴでは、自分を殺してクールにやってみた。しかし、自分で自分が自分じゃないように思えた。そんなこんなで、徐々に彼女にはストレスがたまっていった。曲も思うようにできなくなり、彼女は煮詰まって煮詰まって、部屋にこもるようになった。典型的な引きこもりだ。そして、悩みに悩んだ末、彼女は音楽をやめようと一大決心を固める。

収入も途絶え、なんとかわずかな蓄えとアルバイトでその日暮らしを続けたが、毎日がつまらなかった。大好きだった音楽を止めて、なにか自分の体から魂が抜けてしまったようだった。自分はせみのぬけがらのようだったと彼女は感じていた。挫折の日々だった。

自殺。

自分の顔を鏡で見ても、とても嫌な顔になっていた。そんなとき、アルバイト先のひとりの女性がいつも彼女のことを応援してくれいてた。なぜかはわからないが、落ち込み、元気のない彼女を「だいじょうよ、いいことが起こるから」と声をかけてくれた。もちろん、彼女にとっては少しは嬉しかったが、それほどの励ましにはならなかった。躁鬱(そううつ)のうつ状態がずっと続いた。自分が嫌いで、何度も自殺したいと思った。「でも、痛いのは怖いので、本当に自殺する勇気はないの。だから、何かの事故にでもあって死ねればいいのになんて本気で考えていた」

そんな彼女は、自分ではひじょうにまっとうに生きてきて、曲がったこと、道理にそぐわないことが大嫌いな性格だった。竹を割ったような性格で、白黒をはっきりさせるタイプだ。たとえば、男女関係で言えば、不倫などもってのほか、絶対に許せないことであり、自分が妻子持ちなどに興味を持つことなどありえなかった。彼女はそのころ、ミュージシャンの彼氏と同棲していた。

彼女のバイト先は飲食店だった。そこにはさまざまなタイプの客がやってきた。そんな中で彼女に積極的にアプローチしてくる男がいた。だが第一印象から、彼女はその男が大嫌いだった。自分の嫌いなタイプだったのだ。客なので、それほどそでにもできないが、彼女なりにかなり邪険に扱っていた。何度も顔を合わせるようになってしばらくしてから、店のスタッフとその客の男と何人かで飲みに行くことになった。宴が終わり、帰ることになると、その大嫌いな男と家の方向が同じだったので、その彼が彼女を送ることになった。彼女はかなり酔っていた。彼の家のまえで別れ際に、なんと彼女のほうから彼にキスを求めてしまったのだ。

「それがわからないのよ。なんでそうなったのか。よっぱらっていたからか。嫌いなはずなのに、しつこく、これでもかこれでもかってアプローチされて、だんだん惹かれていたのか。わからない」。そして、これを機に彼女は彼と会うようになり始める。

ところが、彼女が一番感じたのが、その彼に会うことによって、自分がうつから少しずつ抜け出せるような気がしてきたということだった。彼女はそれが信じられなかった。しかし、しかし、その彼には妻子がいることが発覚したのだ。絶対に不倫などしないと思っていた自分がよりによって気になり始めた男に妻子があったのだ。彼女は、またここで多いに葛藤する。

彼女は、いつも自分は死にたいと思っていた。そんな死にたいと思っていた95年1月、阪神大震災が起き、さらに2ヶ月後の3月には地下鉄サリン事件が起こる。魂の抜け殻の体で「ぼーっと」その映像をテレビで見ていて、彼女は思った。「私が、地震で死ねばよかったのに。私がサリンで死ねばよかったのに。死にたい私がこうして死ねないでいるのに、なんで死にたいなんてこれっぽっちも思っていない多くの人が死ななければならないの? これはおかしい。私は、神にひょっとして生かされているのかもしれない。私は生きていかなければならないのかもしれない」と。

生。

そんなあるとき、彼女は友人たちに屋久島へ数日間の旅を誘われる。うつ状態からも少しずつ抜け出し、しかし、不倫で悩んでいることもあり、悩みの状態は続いていた。心機一転する意味でこの旅行にでかけることにする。

屋久島はもちろん、彼女にとって初めてだった。ここで彼女は初のダイヴィングに挑戦することになった。初めてのダイヴィングは楽しかった。彼女はどんどん調子にのって沖に進んでいった。まったくの初心者だったので、自分では方向性がわからず、沖から岸に戻ろうとしているのに、実際は岸にはまったく近づいていなかった。ちょっと不安に思ったその瞬間、彼女の足がつった。そして、そこで彼女はおぼれかかったのだ。

足をばたばたさせると、水が口の中にはいってきた。苦しい。ダイヴィングの機材が急に重く感じられた。海底のほうから、何かが自分の足を引っ張るような感覚がした。しかし、おぼれ始めて、自分が何がどうなったのかわからなくなったその瞬間に、彼女は思ったのだ。「死にたくない!」 そして、思いの丈をこめ彼女は叫んだ。「助けて~~~!!!」

周囲の人たちがかけつけ、大事に至らずに彼女は助かった。このおぼれそうになった時感じた「死にたくない」という気持ちを、彼女は感慨深く考えていた。「私は、死にたくないんだ」 岸に引き上げられた彼女は、何度もその気持ちを反芻(はんすう)した。生への執着が生まれた瞬間だった。

(明日のパート2へ続く)

ENT>MUSIC>ESSAY>Benet, Eric

投稿者 吉岡正晴 : 06:30 AM | コメント (0)

September 25, 2005

The Word Which Could Never Translated Into Japanese

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【日本語にできない言葉】 

和訳不能。

『ソウル・ブレンズ』にはリスナーからいろんなメールがやってくる。18日の放送では、2時半から約1時間にわたって「山野ビッグバンド・コンテスト」の模様をオンエアしていた。そうしたら、たまたまそれを聴いた、番組自体を初めて知ったリスナーからメールをいただいた。とてもそのバンド演奏が気に入ったようで、感謝の言葉が添えられていたのだが、最後にかかれていた一行(いちぎょう)にスタッフ一同うなった。それが~~

日本語にできない言葉がある。それは、ジャズ。

という言葉だ。これはいい! とすぐにオンエアー。この話題についてみんなで話していると、DJオッシー「吉岡さん、ぱくらないでくださいよ~~(笑)」。「いやいや、広く使わせていただきたいと思います(笑)」 そして、いくつか違うヴァージョンを考えた。

「日本語にできない言葉がある。それは、ソウル」

「『魂』って訳せるよ!」「あちゃ~~」

「日本語にできない言葉がある。それはカントリー」

「『田舎』だよ!」「おりゃ~~」

で、いろいろ考えた。リズムは「拍子」、ビートは「拍子をとる、打つ」、ブルースは「哀歌」。けっこう、無理やりだが日本語に変換できる。

そんなこんな考えていたら、しばらくしてから、別のリスナーから「(さきほどの言葉)使わせていただきます」。これほどの名言はみんな使いたがる。(笑)

というわけで、こんなものを思いつきました! 

「日本語にできない言葉がある。それは、ファンク」

これは、できない。説明しても、音を聞かせないと厳しい。それから、これもできないぞ。

「日本語にできない言葉がある。それは、ニュー・ジャック・スウィング」

「日本語にできない言葉がある。それは、レゲエ」

「日本語にできない言葉がある。それは、レゲトン」

説明はできるが、ずばり決まった訳語はない。そんな言葉は、まだまだありそうだ。

ENT>MUSIC>ESSAY>The Word

投稿者 吉岡正晴 : 03:39 AM | コメント (2)

June 25, 2005

It Was A Long Day:

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【密度の濃い1日】 

ロングデイ。 

昨日はかなりきつい1日だった。まず、雑誌ブリオ用の取材をひとつ。次号で赤坂ムゲンについて書くのだが、その取材の一環で、ゴールデンカップスのマモル・マヌーさんに話をうかがった。場所が赤坂ミラクル。ちょっと緊張した。マモルさんが終った後、川畑さんとしばし雑談。その後すぐに青山のスタジオで、7月から始まる新番組のナレーション録り。それを終えた後、トクの番組の収録。 

トクの番組については前にも書いたが、ジャズやAORっぽいもの、スタンダードから古いポップスまで幅広くかけているが、なかなか選曲がいい。で、それが終った後、トクに今日はどこ行くの、と尋ねると、なんと高田馬場のコットンクラブに行くという。前から一度行ってみたいと思っていたので、もう一件用事をすませていこうかな、と考える。 

もう一件の用事は、26日のソウル・サーチン・トーキングで使用するヴィデオを編集したものをDVDに焼いてもらっていて、それを受け取るという件。編集は立ち会っていたのだが、焼く時間が足りなくなり、あとでやってもらっていたものだ。そこで、恵比寿で無事それを受け取ったのだが・・・。 

恵比寿・金曜夜・・・といえば、はい、キムカツです。ちょうおなかがすいていたので、又、行ってしまいました。すいません。12時過ぎ、並ぶことはなかったが、店内はほぼ満員。オッシー曰く「これね、金・土やってるの知れ渡ったら、絶対、この時間帯でも並びになっちゃうんじゃないですかねえ~」。 

そこに某放送作家K氏より電話。「今どこ? 今から、ラーメン、食べ行こうよ~」。ちょうどキムカツ食べ終えたところで、「もう食えないよ~」。そういえば、先週の金曜のこんな時間帯も彼から電話があった。そして、「なんで、(キムカツ)誘ってくんないのよ~」とどつかれたことを思い出した。 

オッシーとは解散し、K氏を誘い、高田馬場へ直行することに。早稲田通り沿いにあるなかなか大きな感じのいい店だった。コットンクラブ。名前がいい。ライヴを見せるのは、地下一階。天井が高くて気持ちいい。この日は、ジャムセッションの日で、ミュージシャンやシンガーが好き好きにセッションに参加していいという。トクが比較的リーダーシップをとって、いろいろやっていた。トクの仲間と、そこに来ている連中が自由気ままにジャムセッションをしている。腕試しするにはとてもいい場所だ。 

今度7月にフランクリンでピアノを弾いてくれるジョージ君と、そのジョージ君と別のライヴハウスで一緒に歌って来たという泉さんが仲間と来ていて、僕たちがちょうど店に入っていったら、彼がピアノを弾いていた。彼らが一番前の席に座っていたので、そこに座ってライヴを楽しんだ。 

Kが言った。「いやあ、遅れてきた僕のために、みんなでこんなに素晴らしい演奏してくれるなんて、感激したよ~」 君のためだけにやってるんじゃないっ。すると彼は続けた。「これって、歌とか楽器とか、何でも参加していいんだ。じゃあ、僕はダンスでエントリーしようかな」 ジャズにあわせて、ムーンウォークでもしなさい。なお、彼は熱狂的なマイケル・ジャクソン・ファンである。そして、外に出ると夜は白々としていた。今日は、ロング・デイだった。 

投稿者 吉岡正晴 : 05:50 AM | コメント (1)

June 15, 2005

Michael Jackson: Not Guilty On All Counts

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【マイケル・ジャクソン無罪を獲得】 

無罪。

マイケル・ジャクソン無罪のニュース(2005年6月13日・現地時間)は、メジャーな各メディアが大々的に報道しているので、そちらを参照していただくとして、生中継を見ての軽い感想などを。

陪審員たちが評決に達し、まもなく評決が言い渡されるというニュースが流れ、マイケル被告の到着がまだかまだかと待たれたのが日本時間の朝方。

裁判所の中に入っていくファミリーたち。ジャーメインがいる。ラトーヤがサングラスをかけている。たぶん、ちりちりのカーリーヘアーはジャネット。サングラスでちょっとよくわからなかったが。ティトもいた。父親ジョー・ジャクソン、母親キャサリン・ジャクソンもいた。マイケルはかなり弱々しく、不安そうだ。

評決の言い渡しの瞬間は、テレビでは音声だけ。その映像はなかったが、次々と10のカウント(罪状)で「ノット・ギルティー(無罪=有罪ではない)」が言い渡される。

全体的に言えば、「疑わしきは罰せず」「推定無罪」が言い渡されたのだと思う。「有罪にするだけの十分な証拠と説得がなされなかった」ということだ。文字通り、「ノット・ギルティー(有罪ではない)」。様々な報道を総合すると、被害者の母親の証言の信憑性が薄いことが決定的だったようだ。

それに加え、やはり、あのOJシンプソンが無罪になっている裁判の歴史で、このマイケルを有罪にすることはできないのではないか。これがアメリカの陪審員制度の元の裁判だ。

別の見方からすれば、現状の裁判システムでOJが無罪で、マイケルが有罪はおかしい、というもので、無罪もそれなりに理解できる。もちろん、陪審員たちは、今回の事件をOJのものと比較して評決をだしたことはないだろう。純粋に今回提出された証拠だけを精査し、有罪にするだけの証拠がなかったと判断しただけだ。

もっと言えば、できるだけはやく、素晴らしい音楽作品をだして、全米ヒットチャートに返り咲いてもらいたい。昼も夜も働いて、傑作を作れ。それが心配させたファンへの償いだ。 Working Day & Night!


投稿者 吉岡正晴 : 04:44 AM | コメント (2)

May 26, 2005

Watching DVD "Ray" By Great Sound/Visual System

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【オーディオ・ヴィデオのF1マシンで映画『レイ』のDVDを鑑賞】

F1。

Ray / レイオーディオ雑誌、「ステレオ・サウンズ」の姉妹誌に「Hi Vi(ハイ・ヴィー)」という月刊誌がある。そこでは、毎月何点かDVDなどの作品をかなり立派なオーディオ装置で見聞きして、その感想を述べるというページがある。次号で、レイ・チャールズの映画『レイ』が取り上げられることになり、オーディオ評論家の先生たちと一緒にその素晴らしいオーディオ、ヴィジュアル機器でDVDを見てきた。

この映画はスクリーンで3-4回見ているし、またアメリカ盤DVDも購入し、特典映像などもさっとは見て、いろいろ書いているので、その内容についてはここでは書かないが、その音と再生された映像にまいった。

約20畳くらいのオーディオルームに、120インチのスクリーン。プロジェクター、プレイヤー、これにパワーアンプ3台、ウーファー2本、スピーカーもフロント左右、センター、リア2本と恐るべき装置が用意されていた。まさにオーディオ・ヴィデオの「F1」マシン群だ。総額でなんと700万円を越えるシステムである。

はっきり言って、小汚い映画館で見る映像よりきれいでクリア、音も完璧にサラウンド。ホームシアターというより、シアターだ。普通に映画館で映画を見てるようで、しかも椅子が半分リクライニングっぽいかなり横になれるもので、すっかり気持ちよくなってしまった。

とても現状、こんなものは手が届かないが、これはいつかなんとかしたい。プロジェクターは、ここ2-3年で圧倒的に画質がよくなったそうだ。

どんなシステムか詳細は月刊「Hi Vi」2005年7月号(6月17日発売)をご覧になっていただくとして、興味深かったのは、映画『レイ』自体はそれほど、例えば『スターウォーズ』のように、音が前後左右に激しく飛んだりはしないで、音的には地味な作品だが、それでも、例えば、レイがまだ目が見えなくなってきていた頃、床に転び、窓の外に通る馬車の音を聞いたり、鈴虫に耳を傾けたりするシーンでの音の浮かび上がり方が見事だ。

こんなシステムが自宅にあったら、毎日引きこもって映画と音楽のDVDばっかり見るようになるんではないだろうか。

ENT>MOVIE>Ray
ENT>MAGAZINE>Hi, Vi
ENT>MUSIC>ESSAY>Audio

投稿者 吉岡正晴 : 03:29 AM | コメント (0)

May 11, 2005

Booklet For Martin’s Tour 

[ ENT>MUSIC>ESSAY>]

【鈴木雅之ツアー・パンフは、キャリアの集大成】

集大成。

Ebony&Ivoryこのゴールデン・ウィークから、僕は来る6月8日から始まるマーチン(鈴木雅之)さんのツアー・パンフの原稿書きに明け暮れている。すでに彼自身があちこちで語っているように、今年は鈴木雅之、シャネルズ・デビュー25周年で「ニコニコ・プロジェクト」としてさまざまな企画を打ち出していて、ツアーも、いつになく凝りに凝った豪華版になる。

そして、その25周年記念パンフレットということで、かなりの内容のものが作られることになったのだ。大きな柱としては、マーチンのこれまでの歩みの資料的なものを大々的に集めるというもの。そのために、年表を作っているのだが、これが大変。鈴木雅之の歴史を集大成しようという試みだ。

僕も、それこそスティーヴィーの年表、ジェームス・ブラウンの年表、レイ・チャールズの年表など、さまざまなアーティストの年表を作ってきて、「年表男」(笑)などと呼ばれたりすることもあるが、今度のマーチンさんのはいつになく大変な仕事になった。

特にシャネルズ結成当初の頃(75年)からラッツ時代までが、資料が散在していて集めるのが難しい。これは正式にマーチンのファンクラブ、ラヴァーズで募集をかけるが、どなたか「シャネルズ時代のファンクラブの会報」「ラッツ&スターのファンクラブの会報」をお持ちの方がいらっしゃったら、コピーを取らせていただけないだろうか。事務所にも残るには残っているのだが、かなり穴があいている状態だ。91年以降のラヴァーズになってからは、すべて揃っている。

とは言うものの、マーチン自身が「自分コレクター」で、かなりの自分関係のものを持っていて、それを丹念に組み合わせていくと、いろいろなことがわかってくる。それはジグゾー・パズルを組み合わせていくようなものだ。僕もどちらかというと、調べて書く、ということが好きで、そういう細かい作業が苦にはならないのだが、、微妙に不明のところが別の資料からわかったりすると、かなり嬉しくなるものだ。

また、この年表以外で、大きな読み物が2本ある。ひとつは、シャネルズの核とも言うべき桑野さん、佐藤さんとマーチンのトライアングル対談、もうひとつは、あの日本ポップス史の歴史の生き証人、大瀧詠一さんとマーチンのビッグ対談である。特に大瀧さんとの対談は7時間以上におよぶものになり、とても全部は収録しきれない。

大瀧さんの話は、とにかく脱線する。しかし、その脱線がいちいち面白い物だから、僕もマーチンさんも「ふむふむ、それで?」と聞き入ってしまう。ので、なかなか話が進まない。2時間録音できるカセットを3本用意していたが(それでも2時間くらいで終るのではないかと想定していた)、足りなくなって、急遽コンビニでカセットテープを買い足したほどだ。

その中で、マーチンさんがいかに大瀧さんに対して熱い思いを持っていたか、そして、二人の絆が徐々に強まっていくか、どのように物語が展開していくのか、それが明らかにされ実に劇的であった。

このあたりのこぼれ話は、またおいおいこの日記でも紹介できるかもしれない。

パンフレットは6月8日のコンサート初日には会場に並ぶ予定である。マーチン・ファン、シャネルズ、ラッツ・ファン、そして、大瀧詠一ファンは要チェックだ。

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投稿者 吉岡正晴 : 04:36 AM | コメント (0)