March 27, 2009

Funk Brother, Drummer, Uriel Jones Dies At 74

[ ENT>OBITUARY>]

【モータウン・サウンドのドラマー、ユーリエル・ジョーンズ死去】

訃報。

1960年代に多くのヒットを放ったモータウン・サウンドの要であるドラムスを担当していたひとりであり、ファンク・ブラザースのメンバー、ユーリエル・ジョーンズ(ウリエルなどの表記も見られるが、ユーリエルが正しい発音。ユーレルのように聴こえることもある)2009年3月24日(火曜)、デトロイト郊外ディアボーンのオウクウッド・ホスピタル&メディカル・センターで死去した。74歳だった。2002年公開の映画『スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン(邦題、永遠のモータウン)』撮影時にすでに心臓に病気があり、バイパス手術を受けていたがそれを隠していた。2009年2月に心臓発作を起こし入院。一時期快方に向かったが、24日容態が変わり死去した。

ユーリエル・ジョーンズは、1934年6月13日生まれ。1950年代からドラムスをプレイしだしたが、マーヴィン・ゲイのツアー・バンドのドラマーになったことから、1963年頃にモータウンのスタッフ・ドラマーとなる。それまでモータウンではベニー・ベンジャミンがメインのドラマーだったが、彼がドラッグ中毒でレコーディングにしばしば穴を開けたりするようになり、徐々にユーリエルの仕事が増えていった。モータウンにはもうひとり強力なドラマー、リチャード・ピストル・アレンがおり、ユーリエルとピストル・アレンが両巨頭となった。

ユーリエルの代表作は多数あるが、マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」、ダイアナ・ロスの同曲のカヴァー、マーヴィンの「エイント・ザット・ペキュリアー」、「アイ・ハード・イット・スルー・ザ・グレイプヴァイン(悲しいうわさ)」、テンプテーションズの「クラウド・ナイン」「アイ・キャント・ゲット・ネクスト・トゥ・ユー」「エイント・トゥー・プラウド・トゥ・ベッグ」、ミラクルズの「アイ・セカンド・ザット・エモーション」、「トラックス・オブ・マイ・ティアーズ」、スティーヴィー・ワンダーの「フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ」など。

また、彼はモータウンが1972年に本拠をロス・アンジェルスに移動しても、デトロイトに残り地元でミュージシャンとして活動していた。デトロイトの他のレーベル、ウェストバウンドやその他のインディ・レーベルでの録音も多数ある。モータウン時代の盟友でもあるギタリスト、デニス・コフィーのヒット「スコーピオ」のドラムもユーリエルだ。また、パーラメンツの「アイ・ウォナ・テスティファイ」のドラムスもユーリエルだという。

デニス・コフィーによれば「ユーリエルにとってモータウンは彼の人生だった。最終的に(映画の成功によって)多くの人に認められたことを彼は誇りに思っていた」という。またアレンジャーで多くの仕事をともにしたポール・ライザーは「ユーリエルのドラム・サウンドは3人のドラマーの中で(他にベニー、ピストル)もっともオープンでレイドバックしたものだった。そして、3人の中でもっともファンキーだった。同時にさまざまなタイプの音も作り出せた」と語る。

ユーリエルを始めとするファンク・ブラザースは2002年秋、映画『スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン(邦題、永遠のモータウン)』でフィーチャーされ、一躍脚光を浴びた。その勇姿やインタヴューが同映画で見られる。

ジョーンズは、彼の妻ジューンと3人の子供たちによって送られるが、葬儀は3月31日火曜にグレイター・グレイス・テンプルで行われる予定。

■ ファンク・ブラザース関連記事。

ファンク・ブラザースの快進撃は2002年秋、アメリカで映画が公開されたニュースから始まった。

1)  2002年12月2日付け日記。全米で映画『スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン』が公開されたというニュース。ファンク・ブラザースに関する第一報。もう4年も前のことになる。

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200212/diary20021202.html 

2) 2003年4月29日付け日記。ファンク・ブラザース・ライヴ評。そのファンク・ブラザースがニューヨークで行ったライヴのライヴ評。

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200304/diary20030429.html

3) 2003年10月24日付け日記。日本でも映画の公開が決まり、『永遠のモータウン』の字幕付き試写を見ての映画評。

"Standing In The Shadows Of Motown": Motown's Sparkle & Shadow
「モータウンの光と影」

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200310/diary20031024.html

4) 2004年3月28日付け日記。ファンク・ブラザースの音源をCD化。

The Funk Brothers' Album Released 
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200403/diary20040328.html

5) 2004年3月29日付け日記。『ソウルブレンズ』でモータウン特集。

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200403/diary20040329.html

6) 2004年5月6日付け日記。モータウン・ニュースいろいろ。 

Motown, Motown, Motown: "To Be Loved" Would Be TV Mini-Series
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200405/diary20040506.html

7) 2004/05/08 (Sat)
"Standing In The Shadows Of Motown" : Story Of Unsung Heroes
映画『永遠のモータウン』関連記事・特集

http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200405/diary20040508.html

8)ベリー・ゴーディー自伝 『モータウン、わが愛と夢』 (原題 To Be Loved)(東京FM出版より発売中)

モータウンレコード創始者、ベリー・ゴーディーの唯一の自伝。ゴーディーがいかにしてモータウンを設立し、これを世界的な大レーベルにしたか。ダイアナ・ロス、スティーヴィー、マーヴィン、スモーキーらとの知られざるエピソード満載。映画に感動したら、この本でさらに感動を増幅させてお楽しみください。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/492488068X/soulsearchiho-22/ref=nosim

9) その書籍『モータウン、わが愛と夢~ベリー・ゴーディー・トリビュート 』のサウンドトラック

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005FMTW/soulsearchiho-22/ref%3Dnosim/249-2275356-8019517

10) 2004/11/28 (Sun)
DVD "Standing In The Shadows Of Motown" On "Soul Blends": The Brothers Are Family
国内盤DVD発売。特典映像の紹介。

http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200411/diary20041128.html

11) April 11, 2006
The Funk Brothers Live: Don't Forget To Bring Lyrics Of "My Girl" ファンク・ブラザース初来日。そして、そのライヴ評。

http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_04_11.html

12) April 16, 2006
The Funk Brothers Again: Standing In The Light Of Motown
ファンク・ブラザース:モータウンの栄光に立って

http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_04_16.html

13)April 17, 2006
The Funk Brothers: Larry Johnson Story
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200604/2006_04_17.html

14)February 04, 2007
Funk Brother Joe Hunter Dies Quietly At 79
【ファンク・ブラザー、ジョー・ハンター死去】

http://blog.soulsearchin.com/archives/001561.html

■ 新聞記事

Joe Hunter: 1927-2007
Motown's first Funk Brother dies at age 79
http://www.detnews.com/apps/pbcs.dll/article?AID=2007702020459

Motown drummer Uriel Jones dies in Michigan
Wed Mar 25, 2009 1:12am
http://www.reuters.com/article/entertainmentNews/idUSTRE52O0Q520090325?feedType=RSS&feedName=entertainmentNews&rpc=22&sp=true

■ DVD 永遠のモータウン

永遠のモータウン [DVD]
東北新社 (2004-11-25)
売り上げランキング: 17006

ENT>MUSIC>OBITUARY>Jones, Uriel June 13,1934 - March 24, 2009, 74


投稿者 吉岡正晴 : 01:24 AM | コメント (0)

January 29, 2009

Nakao Kouichi, Writer Of "Soul Music" Dies At 42

[ ENT>OBITUARY>]

【NHK『ソウル・ミュージック』構成作家、中尾浩一さん死去】

訃報。

NHK-FMで毎週木曜日午後11時から放送されている『ソウル・ミュージック』(DJ・尾臺順子(オダイジュンコ)さん)の構成作家であり、また、自身のバンド、東京ブロウのギタリスト兼ヴォーカルでもある中尾浩一さんが、2009年1月24日(土)療養中の都内の病院で肺がんのため亡くなった。42歳だった。

中尾浩一さんは、1966年7月7日生まれ。幼少の頃から親の仕事の関係でアメリカ、サンフランシスコ、シカゴなどに住み、帰国後は、ICU高校、慶應義塾大学法学部で学び、その後音楽関係の仕事に従事していた。約1年半前に体の痛みを感じ検査したところ、肺がんとその転移が発覚。闘病しながら、入院はせず現場での仕事を休まず欠かさなかった。また、自身の病気については一切公表せず、ほんの身内にしかそのことを知らせなかった。最後まで、『ソウル・ミュージック』の現場に立っていた。先週、容態が悪くなり入院、24日(土)不帰の人となった。

また、12月末に行われた『ソウル三昧』の生放送も病気を押して立会っていた。最後の方は痛みを抑えるために、モルヒネを打ち、耐えていたという。9月の『ソウル・パワー』も見に来たようだが、終了後すぐに帰ったらしい。この頃はすでに抗がん剤を投与していたためもあり、常に帽子を被っていたという。

アメリカに育ったという環境のためあってか、6歳の頃からオハイオ・プレイヤーズを聴いていたというほど根っからのブラック・ミュージック、ファンク好きで、生き方そのものもファンク、グルーヴ・ライフだった。彼を知る友人には、「中尾くんは、中身はアメリカ人、それも黒人だよ」という人もいた。

『ソウル・ミュージック』のDJ尾臺順子さんとは、17年前に知り合い、公私共にパートナーとなった。『ソウル・ミュージック』は10年ほど前に、尾臺さんと中尾さんとで企画を立ち上げ、苦労の末、やっとの思いで番組として成立、晴れてNHKでのレギュラーとなった。尾臺さんによれば、「この番組は、私たちの子供のようなものです。それが今度の4月でちょうど10歳になります」と語っている。

番組構成作家として活動する一方、もっぱらのブラック・ミュージック好きが高じ、自身ギターを弾き、歌い、作詞・作曲、友人たちと「TOKYO BLOW」(東京ブロウ)というグループを6年ほど前に結成、このところライヴ活動、また初めてのアルバム制作に取り掛かっており、1月までスタジオでレコーディング作業を行っていた。彼自身の頭の中には、「300曲もの構想がある」と言っていたという。追悼ライヴ・イヴェントも予定されているという。

尾臺さんは、『ソウル・サーチン』イヴェントにもマーヴィン・ゲイ、ルーサー・ヴァンドロス、アレサ・フランクリンで参加。必ず、中尾さんの姿があった。

1月28日(水)お通夜が世田谷区の公益社 用賀会館で行われ、1月29日(木)午前10時から告別式が行われる。喪主は尾臺さんで、「彼ほど地位や名声などにとらわれず、彼ほどピュアで、誰にも心を広げて接した人はいませんでした」と挨拶した。式では、彼のバンド仲間が録音したトラック(中尾さんの歌)に合わせライヴ演奏をし、式中はずっと彼が好きだったソウル・ミュージックの数々が流れていた。

ご冥福をお祈りする。

告別式・葬儀

2009年1月29日(木)午前10時半
公益社 用賀会館
住所:〒158-0095 東京都世田谷区瀬田3-6-8
電話 03-5491-7520
ファクス 03-5491-7521

++++

この一報を受けたのが28日の午後7時前。岡伸昭さんからいつものように電話がかかってきた。「吉岡さん、今、何してます?」 「マーヴィンやってるよ」「実は、中尾さんが…」と言われ絶句した。僕は彼の病気をまったく知らず、寝耳に水で驚いた。岡さんによると8時からお通夜があるので、行きませんか、とのこと。とりあえず、用賀にかけつけた。会場はたくさんの人があふれていた。ゴスペラーズ、ブラザー・トムさんからもお花が。

中尾さんは、いつもひょうひょうとして、動きがファンキー。『ソウル・サーチン』もいつも楽しんでくれていて、「このバンド、サイコーっす」などと言ってくれた。とにかく、ファンク系が大好き、もちろん、アル・グリーンだ、スイート・ソウルだも大好き。それから、ブラック・ムーヴィーについても、やたら詳しかった。かなりマイナーなブラック映画をよく知っていて、ずいぶん教わった。しかし、みんな若すぎる。Too young to dieって感じだ。

尾臺さんに中尾さんの訃報をブログに書いていいか、と尋ねたら、ぜひ書いてください、と言われたのでまとめました。

Rest in Peace!

ENT>OBITUARY>Nakao, Kouichi, July 7th, 1066 - January 24, 2009 (42)


投稿者 吉岡正晴 : 03:54 AM | コメント (0)

December 30, 2008

Eartha Kitt Dies At 81, Delaney Bramlett Dies At 69

[ ENT>OBITUARY>]

【アーサ・キット、デラニー・ブラムレット死去】

訃報。

ブロードウェイなどで活躍した黒人シンガー、エンタテイナー、アーサ・キットが2008年12月25日、コネチカット州の病院で大腸がんのため死去した。81歳だった。

彼女は「セックス・キットゥン」(セクシーな子猫ちゃん)の愛称を持って、親しまれた。芸名のキットと子猫を意味するキットゥンをかけている。

アーサ・キットは1927年1月17日サウスキャロライナ州生まれ。母はチェロキーと黒人のハーフ、父はイギリスとオランダのハーフということで、さまざまな血が入った人物。また彼女は、自身がレイプされたことによって誕生したと自伝などで明かしている。1950年代から歌手として徐々に頭角を出し、いくつかのヒットを放った。その後ブロードウェイ、映画界にも進出、エンタテイナーとして知られるようになった。1960年代のテレビ映画『バットマン』第3シリーズでのキャット・ウーマンの役でも知られる。

レコード面では、1953年の「ウスカ・ダラ~ア・ターキッシュ・テール」がポップ・チャートで23位、他に「セッシ・ボン」(1953年)、「サンタ・ベイビー」(1953年=4位)などのヒットがある。また、1983年にニューヨークのストリートワイズ・レーベルからディスコ・ヒット「ホエア・イズ・マイ・マン」を出し、これがディスコ・チャートで7位を記録している。

彼女のターニング・ポイントは、1968年に当時のヴェトナム戦争に反対し、その声明をホワイトハウスの昼食会で宣言し、大きな論争を巻き起こしたとき。そのために、彼女はアメリカに居辛くなり、海外を拠点にするようになった。約10年を経て、1978年、彼女はブロードウェイに戻る。

12月25日の命日は、ご存知の通り、ジェームス・ブラウンと同じである。

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デラニー・ブラムレット死去

ロック・ギタリストで多くの作品を残してきたデラニー・ブラムレットが2008年12月27日午前5時前、ロスアンジェルスの病院で死去した。胆嚢(たんのう)の手術をした後だった。妻によるとこの7ヶ月闘病していたという。

デラニーは、1939年7月1日ミシシッピー州ポントトック生まれ。南部のR&Bに根ざしたサザンロック系のアーティストとして活動。特にデラニー&ボニーとして活躍しヒットもある。テレビの音楽番組『シンディグ』のハウス・バンドの一員となり、その頃からJJケール、レオン・ラッセルらと音楽活動をするようになる。彼がかかわった作品では、レオン・ラッセルが歌った「スーパースター」(後に、カーペンターズ、ルーサー・ヴァンドロスなどの歌でも有名)、エリック・クラプトンが録音した「レット・イット・レイン」などがある。エリック・クラプトンは、元々デラニー、ボニー&フレンズに参加し、デラニーがクラプトンのファースト・アルバムを共同プロデュースしている。その他にも、エタ・ジェームス、エルヴィン・ビショップ、ドロシー・モリソン、ステイプル・シンガーズなどの作品もプロデュースしている。


ENT>OBITUARY>Kitt, Eartha (January 17, 1927 - December 25, 2008, 81)
ENT>OBITUARY>Bramlett, Delaney (July 1, 1939 - December 27, 2008. 69)


投稿者 吉岡正晴 : 01:40 AM | コメント (0)

November 14, 2008

Miriam Makeba Dies At 76

[ ENT>OBITUARY>]

【ミリアム・マケバ死去~「パタ・パタ」の大ヒット】

訃報。

サウス・アフリカ出身のシンガー、ミリアム・マケバが去る2008年11月10日、出張先のイタリア南部ナポリ近くのカセータの病院で心臓発作のため死去した。76歳だった。

マケバは、作家ロバート・サヴィアーノのためのコンサートに他のアーティストと出演した後に、体調が悪くなり、病院に運ばれ死去したという。ステージで「パタ・パタ」を踊った後、舞台袖に戻り、関係者の腕の中で倒れた、という報告もある。

ミリアム・マケバは「ママ・アフリカ」の愛称で知られるシンガー。1932年(昭和7年)3月4日、南アフリカ国ヨハネスブルグ生まれ。1959年、同地のグループ、マンハッタン・ブラザースの一員としてアメリカ・ツアーを行うが、翌年帰国しようとしたときに、母国で「アパルトヘイト(人種隔離政策)」が勃発。マケバの市民権が剥奪され、彼女の音楽も禁止されてしまった。その結果、彼女は以来ずっと南アフリカに帰れないまま「亡命生活」を余儀なくされる。

1964年から1966年まで、同じ南アフリカ出身のトランペター、ヒュー・マサケラと結婚していた。

1966年、マケバはその前年にハリー・ベラフォンテとともに出したアルバム『アン・イヴニング・ウィズ・ベラフォンテ/マケバ』で、グラミー賞「ベスト・フォーク・レコーディング」部門を獲得した。

1967年、自国のダンスをモチーフにした楽曲「パタ・パタ」がアメリカを始め世界で大ヒット。一躍有名になった。ニーナ・シモン、デージー・ガレスピーなどとともに共演。また、ジョン・F・ケネディー、ネルソン・マンデラらの前でも歌った。

「反アパルトヘイト」活動家として、2度国連でスピーチをしたり、積極的に活動していた。


しかし、彼女の生涯は決して恵まれたものではなかった。1985年、彼女の一人娘が36歳で急死したとき、マケバには棺を買う現金もなく、多くの友人たちが協力したという。その後、アパルトヘイトが終わり、ネルソン・マンデラが解放されると晴れて母国南アフリカに戻った。

現在葬儀をどうするか検討されているが、遺体を南アフリカに戻すように手配中。また、孫娘のゼンジ・ミヒゼさんは、「遺灰を海にまいてほしいと願っていた」と述べている。

■ ミリアム・マケバ死去・記事の1本

http://www.iol.co.za/index.php?set_id=1&click_id=139&art_id=nw20081111093036343C388466

ENT>OBITUARY> Makeba, Miriam (3/4/1932- 11/10/2008, 76)


投稿者 吉岡正晴 : 01:11 AM | コメント (0)

November 09, 2008

Former Motown President, Jheryl Busby Dies At 59:

[ ENT>OBITUARY>]

【元モータウン社長、ジェリー・バズビー氏死去】

元社長。

伝統的なソウル・レーベル、モータウン・レコードの1988年から1995年まで社長を務めた音楽エグゼクティヴ、ジェリー・バズビーが2008年11月4日、カリフォルニア州マリブの自宅のバスタブで死去しているのが発見された。59歳だった。

ロスアンジェルス郡検死オフィースのエド・ウィンターは、「事故か自然死だろう」と述べている。一応、検死にかけられる。

バズビーは1949年(昭和24年)5月5日ロスアンジェルス生まれ。サウスセントラル地区に育った。ロング・ビーチ・ステート・カレッジに入学、2年で中退後、「バービー人形」を生み出したことで有名なマテル・トイズという玩具会社に就職。1970年代に入り、メンフィスのスタックス・レコードのウェスト・コースト宣伝部入り。スタックスが1976年までに倒産すると、カサブランカ、アトランティック、CBS、A&Mなどのレーベルで宣伝などを担当。多くのヒットをてがけた。カサブランカ時代にはドナ・サマーや多くのディスコヒットを生み出した音楽業界人として頭角を現した。

1984年、MCAレコードのブラック・ミュージック部門のヘッド(社長)に就任、ここでブラック・ミュージックに力を入れ始めたMCAを「ブラック王国」にする。生まれたヒットは、パティー・ラベール、グラディス・ナイト、ジョディー・ワトリー、ニュー・エディション、そこから派生するボビー・ブラウン、ラルフ・トレスヴァント、ベル・ビヴ・デヴォー、ジェッツ、さらに新しい波「ニュー・ジャック・スウィング」のテディー・ライリー&ガイなど多数にのぼる。

1988年、モータウン・レコードの創始者、ベリー・ゴーディーがモータウンをMCAとボストン・ヴェンチャー社グループに6100万ドルで売却。このとき、MCAからモータウン・レーベルの社長に就任した。この時、バズビーは「アメリカのブラック・ミュージック史上において、これ以上(モータウン社長になること)の喜びはない」と興奮をコメントしていた。

ここでバズビーは、ライオネル・リッチー、スティーヴィー・ワンダーらに再度脚光をあびさせたり、ダイアナ・ロスを呼び戻したり、新人アーティストのボーイズ・トゥ・メン、ジョニー・ギルなどでヒットを生み出した。1990年にはR&Bチャートのベスト5をモータウン勢が独占したこともある。

1993年、MCAグループはモータウンを3億100万ドルでユニヴァーサル・グループへ売却するが、バズビーはモータウン社長の座にとどまった。

1995年、バズビーはモータウンと契約でもめ、退社。1998年、ドリームワークス入り、2001年退社。2004年にはデフ・ソウル・クラシック社長、再結成のラベル、アイズレー・ブラザースなどと契約している。その後、プロデューサーのマイク・シティー氏とともにアンブレラ・レコードを設立、ここでリリースしたカール・トーマスのCDは2007年日本でも発売された。

バズビーは1998年にカリフォルニアにおける初の黒人所有の銀行、ファンダーズ・ナショナル・バンクの有力株主となり、死去まで別のワン・ユナイテッド・バンクの役員をしていた。

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バズビーというと、やはりMCAブラックの最大の立役者。本当に多くのヒットが出た。そして、その後モータウンへ。モータウンの社長は以後もいろいろ変わるが、それでも彼が在籍していた時期にボーイズ・トゥ・メンなどがブレイクしたのだから、レコードマンとしては超優秀といっていい。

ご冥福をお祈りする。

ENT>OBITUARY>Busby, Jheryl (5/5/1949 - 11/4/2008=59)


投稿者 吉岡正晴 : 01:12 AM | コメント (0)

October 21, 2008

Dee Dee Warwick Dies At 63

[ ENT>OBITUARY>]

【ディー・ディー・ワーウィック死去】

訃報。

ソウル・シンガーでディオンヌ・ワーウィックの妹であるディー・ディー・ワーウィックが2008年10月18日(土)、ニュージャージー州エセックス・カウンティの老人ホームで死去した。63歳だった。姉のディオンヌらが看取った。シシー・ヒューストンの姪にあたり、ホイットニー・ヒューストンの従姉妹にあたる。ディー・ディーはここ数ヶ月、体調を崩していた。

姉のディオンヌは、「今朝(10月18日)10時、私の愛する妹は旅立ちました。静かな平和なもので、その点はよかったと思っています。彼女に祈りを捧げてくれたすべての人に御礼を申し上げます」とコメントを寄せた。

ディー・ディー・ワーウィックは1945年(昭和20年)9月25日、ニュージャージー州ニューアーク生まれ。本名、デリア・メイ・ワーリック(Delia Mae Warrick)。姉のディオンヌが発音の問題で、ワーリックをワーウィックにしたのに伴い。ディー・ディーもワーウィックと芸名を変更。

幼少の頃から地元の教会でゴスペルを歌い、まもなく、一足先にポップ音楽を歌い始めていた姉のディオンヌ・ワーウィックのコーラスなどを担当するようになる。1960年代初めのこと。1963年、ジュビリー・レコードで録音した「ユー・アー・ノー・グッド」はヒットこそしなかったが、後にリンダ・ロンシュタットによってカヴァーされている。その後1965年、ブルー・ロックから出した「ウイ・アー・ドゥーイング・ファイン」が初ヒット。1966年にはフィラデルフィアのギャンブル&ハフが書いた「アイム・ゴナ・メイク・ユー・ラヴ・ミー」がソウル・チャートで13位を記録。これはのちにダイアナ・ロス&シュプリームス&テンプテーションズでヒット。翌年マーキュリーに移籍、ここで「アイ・ウォント・トゥ・ビー・ウィズ・ユー」がソウル・チャートで9位を記録するヒットになった。その後も小ヒットをいくつか放った。

ディー・ディーは昨年から今年にかけて、姉ディオンヌのワン・ウーマン・ライヴ、「マイ・ミュージック&ミー」で一緒に歌っていた。また、2008年にリリースされたディオンヌ・ワーウィックのゴスペル・アルバムの中で「ホワイ・ウィ・シング」を歌っている。

ENT>OBITUARY>Warwick, Dee Dee (9/25/1945 - 10/182008 =63 years old)


投稿者 吉岡正晴 : 01:35 AM | コメント (0)

October 19, 2008

Levi Stubbs Dies At 72 : Four Tops Left Final One On The Earth

[ ENT>OBITUARY>]

【フォー・トップス・リード・シンガー、リーヴァイ・スタッブス72歳で死去】

訃報。

モータウンを代表するソウル・ヴォーカル・グループ、フォー・トップスのリード・シンガーで独特の迫力あるヴォーカルを聴かせたリーヴァイ・スタッブスが2008年10月17日、アメリカ・ミシガン州デトロイトの自宅で死去した。72歳だった。癌、心臓疾患を抱え、2000年から自宅療養でセミ・リタイアしていた。48歳の妻クリニース、5人の子供によって送られる。葬儀の詳細は未定。

フォー・トップスはテンプテーションズと並んでモータウンを代表するヴォーカル・グループ。グループ名の通り、4人組。このうち、ローレンス・ペイトンが1997年、オービー・ベンソンが2005年に亡くなっているので、今回リードのリーヴァイが亡くなったことで、唯一アブドゥール・デューク・ファキールだけが生き残りメンバーとなった。

リーヴァイは2004年7月28日にデトロイトのミュージック・ホール・センター行われた「フォー・トップスの結成50周年記念トリビュート・コンサート」でアレサ・フランクリンに紹介され車椅子でステージに登場、そこに集まったアーティストたち、観客に感謝をし、涙をあふれさせながら、1曲「アイ・ビリーヴ・イン・ユー・アンド・ミー」を歌った。最後はほとんど曲にならなかったほどだ。

そのときの映像。

フォー・トップスは1953年(1954年説もある)、デトロイトでこの4人によって結成され、チェス・レコードなどで実績を積み、その後1963年にモータウン入り。結成から、メンバーの一人ローレンスが1997年に死去するまでの44年間、一度もメンバー・チェンジをすることなく強固な絆で続いてきた。1960年代には「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」「アイ・キャント・ヘルプ・マイ・セルフ」「バーナディット」など多数のヒットを放った。その張りのある迫力のリード・シンガーがリーヴァイだった。リーヴァイはフォー・トップスのリード・シンガーとして、大変目立ち人気もあったが、グループから脱退しソロに転じることは一切なかった。デルズのリード・シンガー、マーヴィン・ジュニアと似ている。

フォー・トップスは1970年にアルバム『スティル・ウォーターズ・ラン・ディープ』をリリースするが、これは、モータウン作品の中でもほとんど初期にできた「コンセプト・アルバム」になっていた。マーヴィン・ゲイは、このアルバムを聴いてインスパイアーを受けた部分もあり、その影響が翌年の『ホワッツ・ゴーイング・オン』へつながる。「ホワッツ・ゴーイング・オン」の曲自体が、フォー・トップスのメンバー、オービー・ベンソンが作品作りにかかわっていた。

フォー・トップスは、モータウンが1972年本拠をロス・アンジェルスに移すのを機に、ABCレコードに移籍、ここで「キーパー・オブ・ザ・キャッスル」「エイント・ノー・ウーマン」(今年の『ソウル・パワー』でゴスペラッツがカヴァー)、さらに、カサブランカで「ホエン・シー・ウォズ・マイ・ガール」などのヒットを出した。1997年以降、オリジナル・メンバーが3人になってからは、「ザ・トップス」となり活動を続けていた。リーヴァイは体調不良を理由に、2000年からステージにはあがっていなかった。

最近は、唯一の生き残りアブドゥール・デューク・ファキールが、オリジナルのローレンス・ペイトンの息子のロクゥエル・ペイトン、元テンプテーションズのメンバー、テオ・ピープルス、元モータウンのシンガー、ロニー・マクネアを加え、4人組ヴォーカル・グループ「ザ・トップス」として活動している。

リーヴァイは、1980年代以降、その声を生かし映画やテレビのナレーションの仕事などもしていた。有名なのは、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』の声など。

フォー・トップスは、1974年に初来日、その後1998年に、前年に死去したローレンス・ペイトンを除く3人で「ザ・トップス」として来日した。

ENT>OBITUARY> Stubbs, Levi (6/6/1936 - 10/17/2008, 72)


投稿者 吉岡正晴 : 05:07 AM | コメント (0)

September 19, 2008

Norman Whitfield (Part 2): The Legendary Producer Of Motown

[ ENT>OBITUARY>]

(昨日から続き)

【ノーマン・ホイットフィールド、伝説のモータウン・プロデューサー逝く】

弔辞。

モータウンの伝説のプロデューサー、ノーマン・ホイットフィールドが9月16日に死去し、その報道が世界を駆け巡って3日。ノーマンはしばらく前からシーダース・サイナイ病院に入院していたが、ここのところは危篤状態だったという。昨日のブログ以降、ノーマンへのコメントが続々とでてきている。いくつかをまとめてみよう。

多くのヒットをノーマン・プロデュースのもとで出したテンプテーションズのオーティス・ウィリアムス。「ノーマンはスタジオでの総監督みたいなものだった。彼は自分の思った通りに音作りをしたがった。彼を知ってる人物なら誰もが、彼が頑固で、自分が信じていることを絶対に譲らないことを知っている。だが、ノーマンほどファンキーなグルーヴを作り出せる人物はほかにいない。彼はスタジオのマスター(巨匠)だった」

ノーマンがプロデュースし、「アイ・ノウ・アイム・ルージング・ユー」などが大ヒットしたレア・アースのギル・ブリッジス。「最初のレコーディング・セッションのことを覚えている。彼は、スタジオに入ってくるなり、君主のように振舞った。そして、ミュージシャンたちに1時間ノンストップでジャムをやらせ、録音した。彼はいつも首にタオルを巻き、汗びっしょりでスタジオを動いていて、ミュージシャンにソロ・パートの入る場所を指示する。(我々が帰った後)彼はその長いマスターテープを、3分半くらいに短く編集し、そしてできあがったのが『アイ・ノウ・アイム・ルージング・ユー』だった」

ノーマンの長年の友人、クレイ・マクマレイ。「彼はとても複雑な人物だった。アーティストを泣かせるのもお手の物。それでも彼にとっては、(そのアーティストに対して)リスペクトの気持ちはあったんだ。彼はとても立派で優秀なプロデューサーだ。(僕などは)一緒にそこで話をし、笑ったりすることもできるんだが、そうできた人は少なかっただろうな。そういう部分を知っている人は少ないはずだ」

映画『カー・ウォッシュ』のプロデューサー、ゲイリー・ストロンバーグ。「ノーマンは当時、誰もやらなかったような方法で、トラックを作っていた。彼には(音楽の)すばらしいヴィジョンがあった。彼は彼だけの世界に住んでいた。彼のやり方でやるか、さもなければ、やらないか、そのどっちかだった。彼にやりたいようにやらせておけば、素晴らしいものができてきた」

スモーキー・ロビンソン。「ノーマンはもっとも優れたソングライターであり、レコード・プロデューサーの一人だった。彼は彼が作った音楽を通して、永遠に生き続ける」

ノーマンと一緒に曲を書いたこともあるジャニー・ブラッドフォードは、クレイ・マクマレイらとともに最期を看取ったひとり。「この日は本当に悲しい日です」とコメント。

マーヴィン・ゲイの自伝『ディヴァイデッド・ソウル』を書いたデイヴィッド・リッツ。「ノーマンは、かつて、自分はスライ(・ストーン)をなんとか越えることだ、と言っていた。彼のサウンドは新しく、そのグルーヴは素晴らしい。スライはサイケデリックをつかんだ。だが、リズム、ホーンセクションなど、ノーマンの仕事振りは、スライに匹敵すると思う」

■「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」エピソード

ノーマンとテンプスの確執は有名だが、そのひとつのエピソードが、テレビ映画『テンプテーションズ物語』の中で語られる。ノーマンが書いた「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」をテンプスが録音するときのことだ。リードを歌うデニスがその曲の歌詞にかみついた。「それは9月3日のことだった。俺の父親が死んだ日だ。パパは、流れ者だった…」 デニスがノーマンにかみつく。「こんな曲は歌えん。日にちを変えてくれ」 「変えない、これで行く」「9月3日は俺の父が死んだ日なんだ、冗談じゃない」 「何? そんなのは、偶然だよ。俺は一行たりとも変えないよ」とノーマン。結局、ここはデニスが折れてこの曲は録音され、そして、大ヒットになっていく。これだけの強烈な個性があっただけに、衝突も多かった。だが、ヒットも、傑作も出た。

「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」は、1972年度のグラミー賞R&B部門で3部門を獲得する。「ベストR&Bソング」「ベストR&Bヴォーカル・パフォーマンス・デュオ・オア・グループ」と、もうひとつが、「ベストR&Bインストゥルメンタル・パフォーマンス」だ。「ソング」では、バレット・ストロングとともに、ノーマンも受賞。しかし、おもしろいのが、「ベストR&Bインスト」部門だ。これを受賞したのが、テンプテーションズ全員と、なんとプロデューサーのノーマンではなく、アレンジャーのポール・ライザーだったのである。もちろん、テンプス本人たちはトラック(インストゥルメンタル)の制作には一切タッチしていない。あれだけ我を通して作り上げた楽曲のトラック部分までがグラミーを獲得しながらも、実質それを作ったノーマンはグラミーをその部門では取れなかったというのだから、皮肉といえば皮肉だ。

ノーマンはその4年後、1976年度グラミー賞で、『カー・ウォッシュ』が「アルバム・フォー・オリジナル・スコア」部門を獲得する。

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■ ノーマンの生年について

ノーマンの生年だが、死去の第一報がでたとき(9月17日午後3時すぎ=日本時間)は、1943年生まれ、というのがほとんどだった。その中で、唯一フリー・プレスのライター、ブライアン・マッカラムが67歳と書いていた。実は1943年生まれとする記事の中でも、「19歳でモータウンに入り…」という記述が多数あったが、これは、おそらくバレット・ストロングのヒット「マネー」を意味する。ここでバックコーラスをつけている。彼はそのモータウンの前に、セルマ(テルマ)・レコードというところで、すでにマイナー作品ながらレコード・プロデュースをしている。この「マネー」は、1960年のヒットだ。となると、1943年生まれでは計算があわない。逆に1941年生まれだと、19歳で1960年、モータウンの「マネー」とどんぴしゃになる。そこで、本ブログでは、1941年生まれを取り、一応多数を占めていた1943年生まれも、「説」としてある、とした。

ところが死去の第一報から一日あけると、前日まで1943年生まれとしていたウィッキペディアまでが、なぜかこんどは1940年生まれと書き直していたのだ。一方、LAタイムスが、ノーマンの生年を「選挙登録している生年」として1941年と書いた。おそらく、1941年が正しいのだろう。LAタイムス、USAトゥデイ、APは67歳(1941年生まれ)、ニューヨーク・タイムスはAP通信の記事を使って67歳、ただし、ロイターだけは65歳(1943年生まれ)をとっている。また生年月日は、なかなかでてこなかったが、インターナショナル・ムーヴィー・データベースに1941年5月12日と出ていた。ウィキの1940年説は、たぶん違うのではないかと思う。

ホイットフィールドは、4人の息子と1人の娘によって送られる。

■ 昨日の記事

September 18, 2008
Norman Whitfield Dies At 67
【モータウン・サウンドの立役者、ノーマン・ホイットフィールド死去】

http://blog.soulsearchin.com/archives/002675.html

■ 海外での記事

http://www.freep.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20080918/ENT04/809180433

http://www.azcentral.com/arizonarepublic/local/articles/2008/09/18/20080918death0918whitfield.html

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ENT>OBITUARY>Whitfield, Norman (May 12, 1941 - September 16, 2008, 67)


投稿者 吉岡正晴 : 03:55 AM | コメント (0)

September 18, 2008

Norman Whitfield Dies At 67

[ ENT>OBITUARY>]

【モータウン・サウンドの立役者、ノーマン・ホイットフィールド死去】

訃報。

モータウンで多くのヒットを放ち、プロデューサーとして一世を風靡したノーマン・ホイットフィールドが2008年9月16日午後3時半頃、ロス・アンジェルスのシーダース・サイナイ病院で糖尿病のため死去した。EURweb(電子版)などが報じた。67歳だった。(65歳説もある)

ノーマン・ジェシー・ホイットフィールドは、1941年5月12日ニューヨーク・ハーレム生まれ。(1943年説もある=この場合65歳)  家族で、カリフォルニアで行われた親類の葬式から陸路ニューヨークに戻るときに、車がデトロイトで壊れ、そのままデトロイトに住み着いたという。1960年代初期から、ノーマンはデトロイトのローカル・インディ・レーベル、セルマ・レコードに出入りするようになり、ここでリチャード・ストリートのシングルなどをプロデュース。さらに、同じ頃デトロイトのモータウン・レコードにも出入りするようになった。当初はモータウン・レコードのスタジオの雑用などから始まり、当時モータウンでバレット・ストロングの「マネー」(1960年)のバックコーラスなども録音したという。続いてA&Rマン、ミッキー・スティーヴンスのアシスタントへ。最初のきっかけは、ミッキーと共同で作った「プライド・アンド・ジョイ」(マーヴィン・ゲイの歌でヒット=1963年6月)だった。独特のサウンドで多くのアーティストをプロデュースし、社内で注目されるようになる。

その後、1966年、テンプテーションズの「エイント・トゥ・プラウド・トゥ・ベッグ」をプロデュース、これが大ヒットしたことによって、以後、テンプス作品を次々とプロデュースするようになった。「テンプス=ホイットフィールド・チーム」が生み出したヒットは、「ビューティー・イズ・オンリー・スキン・ディープ」「(アイ・ノウ)アイム・ルージング・ユー」「アイ・ウィッシュ・イット・ウド・レイン」「クラウド・ナイン」「ランナウェイ・チャイルド、ランニング・ワイルド」「サイケデリック・シャック」「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」など多数。彼が作り出したサウンドは、当時のロック・サウンドとも関連し、独特の「サイケデリック・ファンク」などとも呼ばれたファンキーなもの。特にテンプスのリード・シンガー、当初はデイヴィッド・ラッフィン、続いて、デニス・エドワーズの迫力ある声とあいまって、新時代のモータウン・サウンドの牽引車となった。だが、テンプスのメンバーは、ノーマンのサウンド優先の強引な録音の仕方に徐々に反発、1970年代中ごろまでに、両者は袂を分かつことになる。

1967年、彼はマーヴィン・ゲイで録音した自信作「アイ・ハード・イット・スルー・ザ・グレイプヴァイン(悲しい噂)」を録音し、モータウンの有名な「金曜日の会議」(翌週リリースするシングル盤をどれにするかを決める会議)に出すが、会議で却下され失望。しかし、同曲を改めてグラディス・ナイト&ピップスで再録音、これはなんとか会議を通過、全米リリースされると1967年10月からヒット、ソウル・チャートで6週間1位になった。だがこの曲のマーヴィン・ヴァージョンに固執したノーマンは、シングル・リリースが却下されたマーヴィンの「悲しい噂」をマーヴィンのアルバム中の1曲として入れてくれるよう懇願、1968年その望みを果たす。すると、全米のDJたちが、マーヴィンの「悲しい噂」をアルバムから「アルバム・カット」として頻繁にプレイ、ついに一般人気からモータウンはシングル・カットを余儀なくされリリース、1968年11月からヒット、ソウル・チャートではグラディス・ヴァージョンを超える7週間1位、ポップ・チャートでもマーヴィンにとって初のナンバー・ワン・ヒットとなった。

その後、レア・アース、アンディスピューテッド・トゥルース、エドウィン・スター(「ウォー」)などをてがけ、1975年、モータウンから独立、1976年、MCAで映画『カー・ウォッシュ』のサウンドトラックをてがけ、大ヒットを送り、さらに1977年、自身のレーベル、ホイットフィールド・レーベルをワーナー・ブラザース傘下で設立。もともとエドウィン・スターのバック・バンドだったローズ・ロイス、スターゲートなどのアーティストでヒットを送り出した。

しかし、モータウンを離れてからは、『カー・ウォッシュ』の大ヒット以外、主だったヒットは生まれなかった。1983年3月、カリフォルニア・パサディナでモータウン・レコード25周年記念イヴェントが行われ、テンプスやフォー・トップス、マーヴィン・ゲイらが元気なステージを見せ、さらにマイケル・ジャクソンがジャクソン5との再結成、ソロとして「ビリー・ジーン」を見せ、大きな話題を集めた。しかし、モータウン・サウンドの貢献者のひとりノーマンはここに招待されず、人知れずチケットを買い、ライヴを見ていたという。

マーヴィン・ゲイの「悲しい噂」は、2001年、グラミー賞ホール・オブ・フェイムを獲得した。また、2005年1月、ノーマンは脱税で起訴されたが、健康問題を理由に、服役せず25000ドルの罰金と半年の自宅拘束となった。近年は糖尿病を患っていた、という。

ノーマン・ホイットフィールドがてがけた主なヒット。(EURwebより)

1963: "Pride & Joy" - Marvin Gaye
1964: "Too Many Fish in the Sea" - The Marvelettes
1964: "Needle in a Haystack" - The Velvelettes
1964: "He Was Really Sayin' Somethin'" - The Velvelettes
1964: "Girl (Why You Wanna Make Me Blue)" - The Temptations
1966: "Ain't Too Proud to Beg" - The Temptations
1966: "Beauty Is Only Skin Deep" - The Temptations
1966: "(I Know) I'm Losing You" - The Temptations
1967: "I Heard It Through the Grapevine" - Gladys Knight & the Pips, also recorded by Marvin Gaye and Creedence Clearwater Revival
1967: "You're My Everything" - The Temptations
1967: "I Wish It Would Rain" - The Temptations
1968: "I Could Never Love Another (After Loving You) - The Temptations
1968: "The End Of Our Road" - Gladys Knight & The Pips
1968: "Cloud Nine" - The Temptations
1969: "Friendship Train" - Gladys Knight & the Pips
1969: "Runaway Child, Running Wild" - The Temptations
1969: "Too Busy Thinking About My Baby" - Marvin Gaye
1969: "I Can't Get Next to You" - The Temptations
1969: "Don't Let The Joneses Get You Down" - The Temptations
1970: "You Need Love Like I Do (Don't You)" - Gladys Knight & The Pips, also recorded by The Temptations
1970: "Psychedelic Shack" - The Temptations
1970: "Hum Along and Dance" - The Temptations (later covered by Rare Earth and The Jackson 5)
1970: "Ball of Confusion (That's What the World Is Today)" - The Temptations
1970: "War" - Edwin Starr
1971: "Smiling Faces Sometimes" - The Undisputed Truth, originally recorded by The Temptations
1971: "Just My Imagination (Running Away with Me)" - The Temptations
1972: "Papa Was a Rollin' Stone" - The Temptations
1973: "Masterpiece" - The Temptations
1973: "Let Your Hair Down" - The Temptations
1976: "Car Wash" - Rose Royce
1976: "I'm Going Down" - Rose Royce
1976: "I Wanna Get Next to You" - Rose Royce
1977: "Ooh Boy" - Rose Royce
1977: "Wishing on a Star" - Rose Royce
1978: "Love Don't Live Here Anymore" - Rose Royce

EURweb:
http://www.eurweb.com/story/eur47128.cfm

ご冥福をお祈りしたい。

■ 関連書籍 
『モータウン、わが愛と夢』(ベリー・ゴーディ著)

モータウン、わが愛と夢
ベリー ゴーディー
TOKYO FM出版
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『モータウン・ミュージック』(ネルソン・ジョージ著)

モータウン・ミュージック
ネルソン ジョージ
早川書房
売り上げランキング: 446828

ENT>OBITUARY>Whitfield, Norman (May 12,1941 - September 16, 2008, 67)



投稿者 吉岡正晴 : 01:22 AM | コメント (0)

August 17, 2008

Jerry Wexler (Part 2): “More Bass” Or What On Tombstone

[ ENT>OBITUARY>]

【ジェリー・ウェクスラーの業績】

墓石。

レコード・プロデューサーであり、レコード・エグゼクティヴでもあったジェリー・ウェクスラーが過去半世紀以上にわたって成し遂げてきたことをまとめてみたい。なお、ジェリーはR&B、ブラック・ミュージックの世界で多大な功績を残した人物だが、彼自身はユダヤ系の白人である。

1)「レイス・ミュージック」の呼び名を「リズム・アンド・ブルーズ」にした。

これだけで、彼の音楽業界での評価は十分だ。

2)アレサ・フランクリンをコロンビアから引き抜き、アメリカ1の女性R&Bシンガーに育てた。

これだけでも、プロデューサーとして十分だ。

3)レイ・チャールズ、ソロモン・バーク、コースターズ、多くの黒人アーティストのヒット曲を作った。

レイ・チャールズとジェリーとのやりとりは、レイの自伝映画『レイ』の中でも、少し出てくる。

4)ブラック・アーティストを南部の連れて行き、南部のスタジオで南部のミュージシャンで録音した。

南部のミュージシャンたちは扱いにくかったが、それでもジェリーは彼らのサウンドがベストだと信じて、多くのレコーディングを南部で行った。アラバマ州のマスル・ショールズ、メンフィスのスタックス・スタジオなどをじつにうまく使った。イギリスの白人シンガー、ダスティ・スプリングフィールドをメンフィスに連れてきて、ソウルフルなサウンドでアルバムを作ったりもした。

5)ミュージシャンに黒人、白人の差別をしなかった。

そのマスル・ショールズなどでのミュージシャンは、白人だったが、その泥臭いサウンドは実にソウルフルであり、音楽を作るうえで白人、黒人を分け隔てしなかった。また、彼自身当初は黒人ミュージシャン、シンガーを多くてがけてきたが、1970年代になってからは、多くの白人アーティストもてがけるようになった。ジェリーは南部のミュージシャンが作り出すファンキーなサウンドが好きだった。特にベースの音が前面にでている音が好みだった。彼が作った作品はいずれもベースがいきいきとしている。

6)優れた耳を持ったクリエイティヴなプロデューサーでもあったが、当時に音楽ビジネスの仕組みを熟知したビジネスマンでもあった。

何が流行るか、何が支持されるかを敏感に知っていたが、同時にレコードのプロモーション、マーケティングについても、熟知していた。1950年代には自社作品をプレイしてもらうために、DJに賄賂を贈ったこともあった。また、彼がアトランティック入り際、株式の一部をもらうことを条件にして、アーメット・アーティガンを驚かせたという。結局、アーメットが折れ、一部の株を持った。

7)アトランティック・レコードの傘下にいくつものサブ・レーベルを作ったこと。アトコ、コティリオン、ローリング・ストーンなどなど。

これは1960年代にラジオのDJにプロモーションに行くと、同じレーベルのシングルばかりを持っていくと、1曲はかけてもらえても、同レーベルの別のアーティストのものは「またか」といってかけてもらえなかったため、デザインと名前の違うレーベルを作って、一見別物のように見せた。同じくモータウンも、いくつものサブ・レーベル(傘下のレーベル)を作った。同様の理由による。

8)人生最大の過ち。ジェリーは、1967年、成功を収めていたアトランティック・レコードの株式をワーナー・セヴンシーズ社にわずか1750万ドルで売却してしまう。これは、オウナーであるアーメットとともに、後々大きな後悔として語り継がれる。ただし、2人とも株を売り、オウナーの座からは離れたが、運営には携わった。

9)アーティガンは、ポップで売れるものへ傾注していくが、ジェリーはより南部のピュアな音楽を求めるようになる。そうしたものは多くの場合、あまり売れずに、マニア向けになっていき、二人の間に微妙な溝が生まれる。その結果、1975年にはジェリーはアトランティックを去ることになる。

+++++

2000年、彼に焦点を当てたドキュメンタリーが制作された。そのタイトルは、「イマキュレート・ファンク(純粋なファンク)」。ウェクスラーがしばしば自らのアトランティック・サウンドを評するときに使う言葉だった。

1993年、彼は作家デイヴィッド・リッツとともに、自伝『リズム・アンド・ブルーズRhythm and the Blues : A Life In American Music』を書き、発表した。

ジェリーは3回結婚している。葬儀は3番目の妻と、最初の妻との間に生まれた子供たちによって行われる。最初の結婚で生まれた娘アニタは1989年、エイズで死去している。

ジェリーはドキュメンタリーを作ったトム・サーマン監督に「墓石になんと書いて欲しいか」と尋ねられ、こう答えたという。More Bass (もっとベースをだせ)

しかし、葬儀を取り仕切る息子のポール・ウェクスラーによると、葬儀後の墓石にはこう書かれる予定だという。He Changed The World。

(訂正)昨日(2008年8月16日)付け、本欄でご紹介したジェリー・ウェクスラー自身が選んだベスト20のリストの順位は、年代順でした。必ずしも、好きな順のベスト10ではありませんでした。訂正します。

ENT>OBITUARY>Wexler, Jerry, (January 10, 1907 – August 15, 2008, 91)

投稿者 吉岡正晴 : 04:38 AM | コメント (0)

August 16, 2008

Jerry Wexler Dies At 91: R&B Pioneer Who Invented Term “Rhythm & Blues” (Part 1)

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【「R&B」生みの親~ジェリー・ウェクスラー死去(パート1)】

訃報。

R&Bのレコード・プロデューサーとして1950年代から多くのアーティストとかかわり、多数のヒット曲を生み出したジェリー・ウェクスラーが2008年8月15日午前3時45分、フロリダ州サラソータの自宅で心臓疾患のため死去した。91歳だった。ここ数年、心臓を患っていた。

ジェリー・ウェクスラーは、本名ジェラルド・ウェクスラー。1907年1月10日ニューヨークに生まれた。父はポーランドからの移民、母親はジェリーに作家になって欲しいと思っていた。教育熱心な母親の勧めで彼は南部のカンサス州立大学へ。そこで彼はブルーズに接する。一時期戦争に従軍するが、戦後、大学に戻り、その後1949年までにニューヨークに戻った。ここで、音楽業界誌ビルボードに入社。ビルボードにはいくつものチャートがあったが、いわゆる黒人音楽のヒットチャートは当時は「ベスト・セリング・リテイル・レイス・レコーズ」と呼ばれていた。ブラック・ミュージックをレイス・ミュージック(人種のレコード)と言っていた。だがこの表現は若干差別的で問題があるということで、ビルボードは新しい名前に変更しようとする。そしてそのときのスタッフの一人だったジェリー・ウェクスラーが提案した「リズム・アンド・ブルーズ(R&B)」という言葉が採用され、1949年6月25日付けビルボードから「レイス・ミュージック」の名前が「リズム・アンド・ブルーズ」となった。ジェリーは、その意味で「R&B」という言葉の生みの親だ。ビルボードでジェリーは記事を書くレポーターとなるが、ある意味で、原稿を書く点では母親の希望だった作家(ライター)になったわけだ。

ビルボードでの仕事ぶりを認められたジェリーはアトランティック・レコード創始者アーメット・アーティガンに誘われ、1953年アトランティック入り。ここでレコード宣伝、レコード制作に携わるようになる。このころ、ジェリーが売り出したのが、ドリフターズ、コースターズ、レイ・チャールズといった黒人アーティストだった。当時のレコード・マンは、自分でアーティストを見つけ、レコーディングし、ラジオ局のDJに売り込み、宣伝をし、ときにはアーティストのツアーの手助けもして、ヒットを作るという作業をすべてやった。

ウェクスラーはより南部の泥臭いソウル、R&Bに傾注するようになる。オーティス・レディングが在籍していたメンフィスのソウルの名門レーベル、スタックスをアトランティック傘下に置き、積極的にソウル、R&Bを売り出した。中でも、ちょうどコロンビア・レコードとの契約が切れたシンガー、アレサ・フランクリンを自社に引き抜き、アレサを南部のスタジオに連れて行きレコーディング。それまでのジャジーでブルージーなサウンドからパンチの効いたリズムの強いR&B曲を出したところ、瞬く間に大ヒットとなり、以来、アレサは次々と大ヒットを放つようになる。ジェリーはプロデューサーとしてアレサと14枚のアルバムで手を組み、アレサの黄金期を形成した。

アトランティックでは、1975年に同社を去るまで、アレサのほかに、レイ・チャールズ、ウィルソン・ピケット、パーシー・スレッジなど多数の作品をてがけた。また、アーメット、ネスヒ・アーティガンとともに、一インディ・レーベルだったアトランティック・レーベルを世界的な大レーベルに育て上げた立役者でもある。アトランティックで、彼は「R&B」「ソウル」を世に送り出し、レイ・チャールズ、アレサ・フランクリンやレッド・ゼッペリンやオールマン・ブラザースを世界的スターにした。20世紀を代表するレコード・プロデューサー/レコード・エグゼクティヴの一人と言っても過言ではない。

ジェリー・ウェクスラー本人は自らの肩書きで一番気に入っているものは、レコード・プロデューサーや、宣伝マンなどではなく、「レコード・コレクター」(レコード収集家)だと言うそうだ。

ローリング・ストーン誌が数年前に、ジェリー本人によるお気に入り自作曲ベスト20のリストを掲載した。その20曲は次の通り。まさにアメリカ・ブラック・ミュージックの歴史を作り上げたアーティスト群だ。

Jerry Wexler’s Own Favorite Tracks

1. Professor Longhair -- "Tipitina" (1953)
2. Ray Charles -- "I Got a Woman" (1954)
3. Big Joe Turner -- "Shake, Rattle and Roll" (1954)
4. LaVern Baker -- "Tweedlee Dee" (1954)
5. Champion Jack Dupree -- "Junker's Blues" (1958)
6. The Drifters -- "There Goes My Baby" (1959)
7. Ray Charles -- "What I'd Say" (1959)
8. Solomon Burke -- "If You Need Me" (1963)
9. Booker T. & the MG's -- "Green Onions" (1962)
10. Wilson Pickett -- "In the Midnight Hour" (1965)
11. Aretha Franklin -- "Respect" (1967)
12. Dusty Springfield -- "Son of a Preacher Man" (1969)
13. Dr. John -- "Iko Iko" (1972)
14. Doug Sahm -- "(Is Anybody Going to) San Antone" (1973)
15. Willie Nelson -- "Bloody Mary Morning" (1974)
16. The Sanford/Townsend Band -- "Smoke From a Distant Fire" (1977)
17. James Booker -- "Winin' Boy Blues" (1978)
18. Etta James -- "Take It to the Limit" (1978)
19. Dire Straits -- "Lady Writer" (1979)
20. Bob Dylan -- "Gotta Serve Somebody" (1979)

(ジェリー・ウェクスラーについては続きます)

■ 訃報記事

http://www.nytimes.com/2008/08/16/arts/music/16wexler.html?_r=1&pagewanted=2&partner=rssnyt&emc=rss&oref=slogin

http://voices.washingtonpost.com/postrock/2008/08/rip_jerry_wexler.html?hpid=topnews

http://www.rollingstone.com/news/story/22595667/the_record_collector_jerry_wexler_dies_at_age_91

ENT>OBITUARY>Wexler, Jerry, (January 10, 1907 – August 15, 2008, 91)


投稿者 吉岡正晴 : 06:59 AM | コメント (0)

August 14, 2008

Isaac Hayes (Part 3) : Ike's Music; To Be Continued

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【ソウル・ジャイアンツ、ブラック・モーゼ、アイザック・ヘイズ(パート3)】

ジャイアンツ。

まさに彼は「ソウル・ジャイアンツ」だ。自らもヒットを出したが、ソングライターとして「ソウル・マン」「ホールド・オン・アイム・カミン」などの大ヒットも生み出した。アイザック・ヘイズを初めて知ったのは、僕も「シャフト」だと思う。1971年の暮れからの大ヒットだからその頃だろう。そのかっこよさは初めて聴いたときから印象に残っていた。それは映画『黒いジャガーのテーマ(Theme From Shaft)』のテーマだったが、その映画自体を見るのは、ずっと後だったと思う。当時ブラック・ムーヴィーなど今ほど日本ではすぐには公開されなかった。

「シャフト」はアップテンポで、いかにも刑事物映画のテーマにふさわしい楽曲だったが、彼のアルバムは一風変わっていた。なによりも驚かされたのが、リリースは「シャフト」以前だったが、後から買った『ホット・バタード・ソウル』だ。なにしろ、アルバムに4曲しかはいってないのだ。「ウォーク・オン・バイ」は12分、「恋はフェニックス」は18分を超える。しかも、「シャフト」のかっこよさとは違って、静かにムード音楽が漂っていた。当時の僕は全然気に入らなかった。かったるいのだ。同じスタックスのオーティスやサム&デイヴ、ジョニー・テイラーのほうが断然いいと思った。

さて、『シャフト』のアルバムは、けっこう気に入った。この中に入っている「ドゥ・ユア・シング」という曲があるのだが、ゆったりしたダウン・トゥ・アースなソウルフルな曲で、実に渋かった。ちょうど僕が出入りし始めた六本木のディスコ「エンバシー」の店長をしていたドン勝本氏がこの曲をものすごく気に入っていて、彼がDJブースに入ると、必ずこれをかけていた。僕の中では「ドゥ・ユア・シング」イコール勝本氏なのだ。たしか、一時期FENの何かの番組の後テーマになっていたような記憶がおぼろげにしている。なんだったか。

そして、一番度肝を抜かれたのが、映画『ワッツタックス』でのアイザックの登場である。この『ワッツタックス』自体がすごいのだが、ここに出てくるアイザック・ヘイズにはやられた。その存在感たるや。恐れ入った。

それからしばらくして、バリー・ホワイトというシンガーが登場した。アイザック・ヘイズ同様低音の魅力で売り出し始めたシンガーである。バリーが登場したとき、まさに第二のアイザック・ヘイズと思ったものだ。バリーは、よりポップな路線に進み、一世を風靡する大スターとなる。アイザックのほうは、所属していたスタックス・レコードが倒産したり、若干不遇の時代をすごすが、自身のレーベルを経て、ポリドールへ移籍、これまた方向性をディスコにしたアルバムなどを出し、ヒットを生む。ポリドール時代の作品のアルバム・ライナーを何枚か書いたが、日本ではぜんぜん売れなかった。

アイザック・ヘイズを次に見るのは映画『エスケープ・フロム・ニューヨーク』だ。これで、俳優アイザック・ヘイズにまたまた驚かされた。実にいい雰囲気、味をだしていた。

アイザックの死去に伴い、音楽業界からすでに多くのお悔やみのコメントが寄せられている。ディオンヌ・ワーウィック、アレサ・フランクリン、リオン・ウエア、オージェイズ、ブルー・マジック、サイーダ・ギャレットなどなど。

ところで30年前にそれほど気に入らなかったアイザック・ヘイズのアルバムだが、20年くらい前だったか、いわゆる「クワイエット・ストーム」のフォーマットが出て、それにともないアイザック・ヘイズのレコードがかかるようになり、けっこういいではないかと思い始めるようになった。聴く側、僕の好みも変わったということだろう。今、ちょうどこの原稿を書きながら聴いているのはアルバム『トゥ・ビー・コンティニュード』(1971年)だ。ここにも、「ルック・オブ・ラヴ」11分12秒、「アイクス・ムード~ユーヴ・ロスト・ザット・ラヴィン・フィーリン」15分30秒などの長尺ムード・ソウルが入っている。しかし、なんでここまで長い曲をレコーディングしたのだろう。しかもリッチなオーケストラがついている。

今回の死去に伴いいろいろと記事を読んだが、彼がガーナに学校を建設するために尽力したとか、昔からそうした慈善事業的なことに興味を持っていたということがわかった。

アイザック・ヘイズの音楽は、『To Be Continued』。ご冥福をお祈りしたい。

■ トゥ・ビー・コンティニュード

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■デイヴィッド・ネイサンのソウルミュージック・ホームページ
アイザック・ヘイズ・トリビュート・ページ

http://www.soulmusic.com/isaachayes.html

ENT>OBITUARY>Hayes, Isaac (August 20, 1942 - August 10, 2008, 65)


投稿者 吉岡正晴 : 05:46 AM | コメント (0)

August 13, 2008

Isaac Hayes (Part 2) : His Movie Will Be Released November

[ ENT>OBITUARY>]

【映画『ソウル・メン』に出演~アイザック・ヘイズとバーニー・マック】

偶然。

スタックス・レコード、いや、メンフィス・サウンドの重鎮でもあったソングライター、プロデューサー、シンガー、アイザック・ヘイズ。8月10日にメンフィスで65歳で亡くなった。その前日、8月9日スタンダップ・コメディ出身の黒人俳優、バーニー・マックがシカゴで50歳という若さで亡くなった。そして、この2人が11月14日に公開される映画、その名も『ソウル・メン』で共演している。

『ソウル・メン』は、マルコム・D・リー監督の作品で、20数年前に一緒にバンド活動をしていた2人がひさびさに再会。そのバンド・リーダーが亡くなり、トリビュート・ライヴをニューヨークのアポロ・シアターでやるために、再結成しようという物語。この2人が、バーニー・マックとサミュエル・ジャクソン。彼らが「ソウル・メン」だ。もちろん、イメージとしてはスタックスの最強力デュエット、サム・アンド・デイヴだが、彼らのヒット曲「ソウル・マン」を書いたのが、アイザック・ヘイズというわけである。アイザック・ヘイズは、本人自身で映画に登場するという。ソングライターかもしくはシンガー、あるいはプロデューサーか。またどのような役かはわからないが、ジョン・レジェンドも出演している。

1986年に『ソウル・マン』という映画があったが、それとはまったく関係ない。

このマルコム・リーは、あのスパイク・リーのいとこだという。撮影自体は4月に終了、またほとんど編集も終わっていた、という。ただし、出演者が2人、急遽死去したことで、リー監督は、この映画を彼ら2人に捧げるために、若干の手直しをする。

バーニーは撮影終了後、リー監督に、「いい映画を作ってくれよ、man」と言ったと伝えられている。バーニーはスタンダップ・コメディ出身で、1992年の映画『モー・マネー』以来、『ハウス・パーティー』、『ゲット・オン・ザ・バス』、『オーシャンズ・イレヴン』『同12』『同13』などにも出演している人気俳優。また、今回サミュエルとバーニーが歌手役となるが、バーニーはファルセットを使った歌声を披露しているという。

3人(バーニー、アイザック、サミュエル)が映った写真があるが、内2人が2日続けて亡くなるというのは、一体どういうことなのだろうか。偶然というか。この映画がヒットすることを祈りたい。

アイザック・へイズの葬儀は次の通り。一般向け葬儀は2008年8月18日、月曜朝11時からテネシー州コルドーヴァの次の教会にて行われる。

Hope Presbyterian Church, located at 8500 Walnut Grove Road in Cordova, TN.

(アイザック・ヘイズについては、もう少し続きそうです)

ENT>OBITUARY

投稿者 吉岡正晴 : 08:20 AM | コメント (0)

August 12, 2008

“Black Moses” Isaac Hayes Dies At 65

[ ENT>OBITUARY>]

【ソウル・レジェンド、アイザック・へイズ死去】

訃報。

メンフィス・スタックス・レコードの重鎮のひとりでもあったアイザック・ヘイズが2008年8月10日(日曜)午後1時過ぎ(現地時間)、メンフィスの自宅地下のトレーニング・マシンのところで倒れているところを発見され、まもなく近くの病院に運ばれたが死去していた。65歳だった。ヘイズは2007年の初め、脳梗塞で倒れていた。

ヘイズは1942年8月20日、テネシー州コーヴィントン生まれ。来週66歳の誕生日を迎えるところだった。母親がアイザックが18ヶ月の時に死去、父が失踪したために姉とともに祖父母に育てられた。生活は貧しく、高校を中退。幼少のころから教会でゴスペルを歌い音楽に親しんできたが、ピアノなどを独学でマスター。その頃のアイドルは、ナット・キング・コールだった。1960年代初期からメンフィス近辺で音楽活動を始め、1963年までにはメンフィスの名門ソウル・レーベル、スタックス・レコードのスタッフ・ソングライターとなる。ここで、パートナーとなるデイヴィッド・ポーターと出会い、彼とのコンビで多くの作品を生み出す。大ヒットとなった作品には、サム&デイヴの「ソウル・マン」「ホールド・オン・アイム・カミング」「ホエン・サムシングス・ロング・ウィズ・マイ・ベイビー(僕のベイビーに何か)」など多くあり、スタックスの重要なソングライターとなり、2人の作品は200曲近くになる。

1967年、ジャジーでアダルトなムードあふれるアルバム『プレゼンティング・アイザック・ヘイズ』でアーティスト・デビュー。これは売れなかったが、1969年リリースの『ホット・バタード・ソウル』が爆発的に売れ、いっきに注目のシンガー・ソングライターとなった。これは、リッチなオーケストラ・サウンドとヘイズの低音の魅力が出た作品でそのセクシーな歌声ともナレーションともとれるパフォーマンスが、唯一無比で一世を風靡した。ここには当時のアナログで4曲しか入っていなかったが、いずれもが長尺の作品で、そうした作りも当時としては斬新だった。

その後、2枚のアルバムを出した1971年、いわゆるブラック・ムーヴィーとして注目を集める映画『シャフト』の音楽を担当。ここから「シャフトのテーマ」が全米ナンバーワンになる大ヒットを記録。アイザック・ヘイズは押しも押されぬ大スターになった。しかも、この曲はグラミー賞だけでなく、オスカーも獲得。

1972年、スタックスが社運をかけて行った大イヴェント『ワッツタックス』に登場。その派手さから、彼は「ブラック・モーゼ」の異名を取るようになる。

さらに、スタックスが1975年に倒産後は自身のレーベル、ホット・バタード・ソウルを設立、コンスタントにアルバムを出すが、同レーベルも行き詰まる。

アイザック・ヘイズ自身はアーティストとして、また映画俳優として、少しずつ活動の幅を広げていく。テレビ映画『ロックフォード・ファイル(ロックフォードの事件メモ)』『マイアミ・ヴァイス』などにゲスト出演。映画俳優としては、1981年の『エスケープ・フロム・ニューヨーク』での演技が高く評価された。シンガーとしては、1977年、ポリドールに移籍、ディスコ調のヒットをいくつか出した。

ヘイズはその後、1990年代に入ってニューヨークのラジオ(KISS=FM)でDJを担当したり、1997年からは人気テレビシリーズ『サウス・パーク』でシェフ役の声を担当するなど活躍していた。しかし、彼がサイエントロジーの宗教を信仰し、そのことを扱ったエピソードがあり、それに不満を表明し、2006年になって『サウス・パーク』を降板した。

音楽的には、多くのヒップホップ・アーティストや若いシンガーからサンプリングされるようになり、改めて注目を集めるようになった。中でも、アリシア・キーズはアイザック・ヘイズの影響を語っている。彼女によれば、自分の「ユー・ドント・ノウ・マイ・ネーム」が6分以上になるのも、アイザックの作品が平気で10分を超える長尺のものが多々あったからだ、と述べる。つまりシングル用に3分程度の曲が一般的だった頃、アイザック・ヘイズはそうした常識に囚われず長い曲を録音していた。

しばらく前にリリースされたドキュメンタリー映画『オンリー・ザ・ストロンゴ・サヴァイヴ(ソウル・サヴァイヴァー)』でも、元気な姿が映っていた。

最近は、2008年11月公開予定の映画『ソウル・メン』の撮影に入っていた、という。この映画ではサミュエル・ジャクソン、また、同週(2008年8月9日)に死去した黒人コメディアン、ベニー・マンらと共演していた。彼の撮影は終了していたという情報もある。その場合、映画は無事公開され、ベニーとともに遺作となる。ヘイズは約60本近くの映画に出演した。また彼は、昨年再開したスタックス・レコードと契約を結び、1995年の『ロウ・アンド・リファインド』以来の新作アルバムの制作にも入っていたという。

2007年1月、ヘイズは脳梗塞で倒れ、その後自宅で療養。2008年8月10日、自宅で倒れ、バプティスト・メモリアル病院に運ばれたが、午後2時過ぎ死亡が確認された。

アイザックには現在の妻、3人の元妻、12人の子供、14人の孫、1人のひ孫が残った。現在との妻には2歳になる子供が1人いる。

(アイザック・ヘイズについては、もう少し続きます)

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■関連記事

AP通信の記事
http://ap.google.com/article/ALeqM5gsCUwiqAHCNIbxD6oePjCg1RToZQD92FOTRO0

ロイター通信の記事
http://www.reuters.com/article/newsOne/idUSN1029123920080810?pageNumber=1&virtualBrandChannel=0

ビルボード誌の記事
http://www.billboard.com/bbcom/news/article_display.jsp?vnu_content_id=1003837514

ENT>OBITUARY>Hayes, Isaac (August 20, 1942 – August 10, 2008, 65)


投稿者 吉岡正晴 : 05:37 AM | コメント (0)

August 11, 2008

(Bulletin) Isaac Hayes Dies At 65

[ ENT>OBITUARY>]

(Bulletin) Isaac Hayes Dies At 65

【(速報)ソウル・レジェンド、アイザック・へイズ死去】

訃報。

メンフィス・スタックス・レコードの重鎮のひとりでもあったアイザック・ヘイズが2008年8月10日(日曜)メンフィスの自宅で倒れているところを発見され、まもなく近くの病院に運ばれたが死去していた。65歳だった。ヘイズは2007年の初め、心臓発作で倒れていた。

ヘイズは1942年8月20日、テネシー州コーヴィントン生まれ。来週66歳の誕生日を迎えるところだった。1971年の「シャフトのテーマ」が自身の最大のヒットだが、スタックス・レコードで多くのヒット曲を書き、プロデュースしている。

ロイター通信のニュース

http://www.reuters.com/article/newsOne/idUSN1029123920080810?pageNumber=1&virtualBrandChannel=0

(詳細は後ほど)

ENT>OBITUARY>Hayes, Isaac (August 20, 1942 – August 10, 2008, 65)

投稿者 吉岡正晴 : 01:31 PM | コメント (0)

August 08, 2008

Tamori’s Funeral Address For Akatsuka Fujio

[ ENT>OBITUARY>]

【タモリの弔辞】

弔辞。

すでに報じられている通り、漫画家の赤塚不二夫さんが2008年8月2日、肺炎のため72歳で死去した。その葬儀が7日午前東京都中野区の宝仙寺で行われ、タモリさんが弔辞を読んだ。その弔辞全文(約1800字、約8分)に感銘を受けた。特に最後の「私もあなたの数多くの作品の一つです」には、感動した。タモリさんがゆっくりと遺影に語りかけていた姿がひじょうに印象的だった。

この中で語られる「これでいいのだ」は赤塚さんの人生訓とも言えるだろうが、今の時代、納得いかないことにも、「これでいいのだ」で済ませられれば、どれだけ楽になるか、と思う。もちろん済ませられない理不尽なことも多々あるだろうが。このニュアンスを英語で言うとなるとどうなるのだろうか。「This is right, This is good, This is how it should be」 何かいいアイデアがあれば、お知らせください。

タモリさんは次のように語った。

 「弔辞。8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。

 十代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライヴみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。『赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている』 この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。

 終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こう言いました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。

 しばらくは毎日、新宿の『ひとみ寿司』というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと、ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私にとって金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。

 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。

その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『この野郎、逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。

 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。

 私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさしていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義」

ENT>OBITUARY>Akatsuka, Fujio (September 14, 1935 - Aug 2, 2008, 72)


投稿者 吉岡正晴 : 02:54 AM | コメント (0)

August 04, 2008

NY Times Reports Hiram Bullock’s Death

[ ENT>OBITUARY>]

【ニューヨーク・タイムス紙ハイラムの死去を報道】

報道。

ニューヨーク・タイムス紙が7月31日付けでハイラム・ブロックの死去を報じた。約700ワード弱の同記事では死因はまだ特定できないが、16年間同居していたパートナーのジェニファー・アームストロングの言葉として、ハイラムが舌癌だったことを明かしている。

Hiram Bullock, 52, Soulful Guitarist, Dies
http://www.nytimes.com/2008/07/31/arts/music/31bullock.html

また、ハイラムがビリー・ジョエルの『ストレンジャー』のアルバム、スティーリー・ダンの『ガウチョ』、スティングの『ナッシング・ライク・ザ・サン』などの大ヒットアルバムでもプレイしている、と書き、さらに、ハイラムには2人の義理の息子、4人の兄弟が残されているとしている。

音楽業界誌ビルボードは依然ハイラム死去のニュースを報じていない。

なお、本人のウェッブサイトも、やっと本人死去の情報をアップした。また同サイト内にある掲示板にも多くのお悔やみの言葉が寄せられている。

http://www.hirambullock.com/

http://www.hirambullock.com/lounge.html

■関連記事

July 30, 2008
Hiram Bullock Dies At 52 
http://blog.soulsearchin.com/archives/002624.html

July 27, 2008
(Bulletin) Hiram Bullock Dies At 52 ??
http://blog.soulsearchin.com/archives/002620.html

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ENT>OBITUARY>Bullock, Hiram (September 11, 1955 – July 25, 2008 = 52)

投稿者 吉岡正晴 : 05:29 AM | コメント (0)

July 30, 2008

Hiram Bullock Dies At 52 

[ ENT>OBITUARY>]

【ハイラム・ブロック死去】

訃報。

ジャズ、フュージョン、ソウルなどでおなじみのニューヨークのギタリスト、ハイラム・ブロックが去る2008年7月25日、ニューヨークで死去した。52歳だった。正確な死因、死亡時刻、場所などは、依然発表されていないが、死去自体は7月28日月曜日のテレビ番組『レイト・ナイト・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』の番組内で発表された。ハイラムは、同番組のハウス・バンドの一員としても活動していた。また親友でもあるミュージシャンのウィル・リーが彼のウェッブページで死去したことを7月26日に書き込んでいた。

死因に関しては、2008年3月の自身のブログの中で咽喉癌(いんこう がん)または食道癌にかかり、治療中であることを明かしている。また複数の情報源は、ハイラムにはドラッグに関するトラブルがあり、そのドラッグ関係のものではないかと推測しているものもある。

葬儀は来る8月5日(火曜日)午後6時からニューヨーク・マンハッタン15丁目のブディスト・センターで行われる。

Tuesday, August 5th, 2008 at 6:00 PM at:
The Buddhist Center
7 East 15th St, New York

ハイラム自身のブログ

http://www.hirambullock.com/blog.html

3月29日付のブログでは、こう書き綴っている。「1月に口内に腫瘍があると診断されたが、心配はいらない。対処できるものだ。だがその処置はけっこうやっかいだ。癌を殺すために、僕に毒を盛り、そして(癌細胞を殺してから)僕を健康状態に戻すというわけだ。(もっとも最後に健康になるかならないかは僕自身にかかっているのだが) なにはともあれ、少し体重を落とさなくてはならない。病院で一番つらいことは、なによりも、本当に重い病気にかかり落ち込んでいる人々を見ることだ。(中略) 今後も状況を報告するが、現在最悪なことは、味覚がなくなっていること。(大好物の)ビーン・ブリトーさえ食べたいと思わないんだ。医者はすぐに(味覚は)戻ると言ってるが、それが待ちきれないよ」

ウィル・リーの書き込み

http://www.willlee.com/home.php

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大阪。

ハイラムは1955年9月11日、日本の大阪生まれ。両親が米軍に所属、日本に駐在していたため、日本生まれとなった。2歳でニューヨークに移り、後にバルティモアで育つ。最初はピアノを学び、6歳で初めて人前でリサイタルを開いた。その後、11歳でサックスを練習し始め、中学時代にベースをプレイするようになったが、その後「女の子にもてるために」16歳でギターに転向した。マイアミ・ミュージック・スクールで音楽を学び、同地を本拠に活動を開始。この時期に、後にセッションなどで共演するようになるパット・メセニー、ジャコ・パストリアスらと知り合う。

一時期マイアミを本拠としていたソウル・シンガー、フィリス・ハイマンのバックバンドになったことで、後にフィリスとともにニューヨークへ移り、その後、ニューヨークでライヴ・ミュージシャンとして頭角を現し、多くのセッション、ライヴ、レコーディングに参加した。

特に1980年代に入ってからの活躍は目覚しく、デイヴィッド・サンボーンと知り合い、さらにプロデューサーのフィル・ラモーンなどにも気に入られ、多くのアーティストのサポートを勤めた。また、マーカス・ミラー、デイヴィッド・サンボーンらもいたテレビ番組『デイヴィッド・レターマン・ショウ』のハウス・バンドの一員に、さらに同じくテレビ番組『サタデイ・ナイト・ライヴ』のハウス・バンドにもなり、サンボーンが中心となった音楽番組『ナイト・ミュージック』の音楽監督にも抜擢されている。1983年からソロ活動に重点を置き始め1986年、アトランティックから初の自己名義アルバム『フロム・オール・サイズ』をさらに、『ギヴ・イット・ホワット・ユー・ガット』をリリース、シーンに大きなインパクトを与えた。

また、盟友ウィル・リーらと組んだ24丁目バンドは、特に日本で人気が高くライヴも好評だった。さらに、日本独自のスマップのヒット曲をニューヨークのスタジオ・ミュージシャンがレコーディングしたスマッピーズのアルバムにも参加している。

日本にも何度も自身のバンド、他のアーティストのサポートメンバーとして来日している。最近では、2007年5月のブルーノートでのライヴ、さらに同年9月の東京ジャズで元気なところを見せていた。

■ 2000年の作品『ギターマン』

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巨漢。

僕が最後にハイラムを見たのは、昨年(2007年)9月の東京ジャズ、さらにその少し前、同年5月のブルーノートのライヴ。ライヴ評にも書かれているが、いつものことながら、彼はパフォーマンスの途中で、ワイアレスのギターゆえにどんどん会場内を歩き回り、あの巨漢で小さなブルーノートのテーブルの上に乗ってプレイする。当然、小さなテーブルだから、スタッフが3人がかりで、テーブルをがっちり抑える。あれ、よく足とか折れないもんだ、と思って見ていた。とにかくサーヴィス精神旺盛なギターマンだ。彼の音楽性はロック、ファンク、ジャズなどなんでも貪欲に取り入れるところに特徴があった。体が大きいから、本当にギターが小さく見えた。日本では渡辺貞夫さん、ジーノなどとも共演している。

■過去記事 ハイラム・ブロック

May 26, 2007
Hiram Bullock : Plays Stevie Songs
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200705/2007_05_26.html
昨年ブルーノートでのライヴ。

September 22, 2007
Tokyo Jazz 2007: Joe Sample & Randy Crawford, Candy, Etc.
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200709/2007_09_22.html
東京ジャズに出演。ただしこの記事ではあまりふれていません。

とにかく観客を楽しませることを徹底してやったギタリストだった。そして、もちろん自分も楽しんでいた。去年見たときは、元気いっぱいだったので、まさかこんなに早く死去するなんて、夢にも思わなかった。

しかし、ハイラム死去のニュースはまったく一般メディアにでてこない。個人のブログにはけっこうでてきているのに、ニューヨークの新聞、ビルボード誌などでさえも、でてこない。なぜなのだろう。僕もマネージメントに確認の問い合わせをしているのだが、まったく返事がない。不思議だ。

ご冥福をお祈りする。

ENT>OBITUARY>Bullock, Hiram (September 11, 1955 – July 25, 2008 = 52)


投稿者 吉岡正晴 : 04:53 AM | コメント (0)

July 27, 2008

(Bulletin) Hiram Bullock Dies At 52 ??

[ ENT>OBITUARY>]

【(速報)ハイラム・ブロック死去か?】

訃報。

ジャズ、フュージョン、ソウルなどでおなじみのニューヨークのギタリスト、ハイラム・ブロックが去る2008年7月25日頃、死去した模様。まだ、オフィシャルな確認が取れていないが、親友でもあるウィル・リーのサイトにもその旨が書き込まれているので、信憑性は高いと思われる。死去が事実であれば、1955年9月11日生まれだったので、52歳だった。3月に自身のブログで食道がんになり、治療中であることを告白していた。(詳細は確認取れ次第再度お送りします)

http://www.hirambullock.com/blog.html

http://www.willlee.com/home.php

昨日(26日)午後から、ハイラム死去のニュースがかけめぐっているのだが、まだ確認が取れない。なお、ウィキペディアの英語版には、2008年7月25日死去と書かれている。詳細情報が確認でき次第、改めてご紹介します。

ENT>OBITUARY

投稿者 吉岡正晴 : 01:56 AM | コメント (0)

June 13, 2008

Soul Singer Bill Coday Dies At 66

[ ENT>OBITUARY>]

【ビル・コデイ死去】

死去。

いわゆるサザン・ソウル・シンガーとして知られるビル・コデイが去る2008年6月7日(土)、テネシー州メンフィスのメソディスト大学病院で死去した。66歳。

ビル・コデイは、ミシシッピ州テイト・カウンティーのコールド・ウォーターという街に1942年5月10日生まれた。その後1961年シカゴに移り住み、ここですでに地元で活躍していた女性ソウル・シンガー、デニース・ラサールと知り合い、彼女に認められデニースのバック・シンガーとして活動。その後、自身のレコードも出すようになった。ビルはデニースがオウナーであるケイジョン・レコードから「シックスティー・ミニット・ティーザー」(1970年)、「ユーアー・ゴナ・ウォント・ミー」、「ゲット・ユア・ライ・ストレート」(1971年ソウル・チャート入り)などのローカル・ヒットを放つ。この時代の作品は、メンフィスのハイ・サウンド(ロイヤル・レコーディング・スタジオ)で、後にアル・グリーンで大当たりをとるプロデューサー、ウィリー・ミッチェルのプロデュースで録音されており、日本のその筋でも人気が高い。

その後1973年メジャーのエピック・レコードと契約、1973年「アイム・バック・トゥ・コレクト」、1976年シングル「アイ・ドント・ウォナ・プレイ・ディス・ゲーム」と2枚をリリース。また後者は、後にリリースされるコンピレーション・アルバム『ロスト・ソウル』に収録され注目を集めた。1980年代からはメンフィスのエコー・レコードからレコードをリリース、1990年代にかけては、ツアーを多数行い、自身のレーベル、B&Jレコードをメンフィスに設立していた。デニースは妻。

彼のシンガーとしての魅力は、サザン・ソウル・シンガーとして深みのあるディープな唱法。メンフィスのスタジオで録音されたものは、日本ではヴィヴィッド・サウンドからリリースされた。また、2008年3月に日本発売されたソウル・コンピ『ザ・ロスト・ソウル・ジェム』に、エピック時代の2曲「アイ・ドント・ウォナ・プレイ・ディス・ゲーム」と「ア・マン・キャント・ビー・ア・マン」が収録されている。これは、1976年にシングル発売された両面。

基本的にはシングル主体のシンガーだったので、一般的知名度は獲得できなかったが、シングルを集めたアルバムなどもリリースされ、サザン・ソウル好きの人たちから熱い支持を集めた。

ご冥福をお祈りする。

■ 『スニーキン・バック』(1995年)

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ENT>OBITUARY>Coday, Bill (May 10, 1942 – June 7, 2008 (66)

投稿者 吉岡正晴 : 01:29 AM | コメント (0)

June 06, 2008

Bo Diddley Dies At 79

[ ENT>OBITUARY>]

【ロックン・ロール・オリジネイター、ボ・ディドリー死去】

ビート。

いわゆる「ロックン・ロール」のオリジネイターのひとりであるミュージシャン、ボ・ディドリーが2008年6月2日、フロリダ州アーチャーの自宅で心臓疾患で死去した。79歳だった。

ボ・ディドリーは1928年12月30日アメリカ南部ミシシッピー州マッコム生まれ。本名はエラ・オサ・ベイツ・マクダニエル。実の親ではなく、親類に育てられ、その親類家族と7歳で北部シカゴへ。ブルーズ・ギタリスト、ジョン・リー・フッカーを見て影響され、ブルーズ・ギタリスト、シンガーとしてシカゴのサウスサイドのライヴハウスなどで活動するようになる。その後リズムを強調したサウンドを作り出し、ロックン・ロールの原型となるサウンドを作り出し、多くの黒人、白人ミュージシャン、ロッカーに多大な影響を与えた。

1954年、ハーモニカ奏者、ドラマーらとともに、2曲のデモテープを制作。それが「アイム・ア・マン」と「ボ・ディドリー」という楽曲。シカゴの名門スタジオ、チェスでこれを再録音。1955年になって、R&Bチャートで1位を記録する大ヒットとなった。

「ボ・ディドリー」のサウンドは、当時「ボ・ディドリー・ビート」と呼ばれ、その特徴は、「ボンバ・・ボンバ・・」といったパーカッシヴなリズム・サウンド。そして、ほとんどワンコードで楽曲が作られ、そののりのよさはそうしたパーカッション的な音ゆえだった。また彼はカスタムメイドの独特の形をしたギターを持って演奏したことからも有名になった。

1955年11月、彼は『エド・サリヴァン・ショウ』(生放送)に出演するが、このとき、事前の打ち合わせではテネシー・アーニー・フォードの「16トンズ」を歌うように言われていたが、それを無視し、自身のヒット「ボ・ディドリー」を歌い、司会者エド・サリヴァンを激怒させた。以来、番組には出られなくなった。しかし、彼は次々とヒットを生み出し、珍しく白人からも支持を集める黒人アーティストとなった。

ロックン・ローラー、バディー・ホリーは「ノット・フェイド・アウェイ」で、ボ・ディドリーのリズムを借用するが、これは後にローリング・ストーンズが1964年にカヴァーし、彼らにとっての初ヒットとなる。

1980年代には映画に端役で出演したり、ナイキのCMに出演したりしていた。

1997年、楽曲「ボ・ディドリー」は、「グラミー・ホール・オブ・フェイム」入りし、また1998年グラミー賞ライフタイム・アチーヴメント賞を獲得。そのほかにも多数のアワードを獲得している。近年は、教会に通い、ゴスペル的な作品を録音するつもりだったらしい。

2007年5月12日のライヴ後、心臓発作に見舞われ翌13日入院。8月に再発。その後11月までに一時退院し、自宅療養していた。

6月2日午前1時45分頃、自宅には約35名の家族親類が集まり、ゴスペル曲「ウォーク・アラウンド・ザ・ヘヴン」が歌われたという。これを聴きながら、本人は「私はこれから天国へ行く」と言って旅立ったという。

彼には15人の孫、15人のひ孫、さらに3人の玄孫(やしゃご=ひ孫の子供)がいる。

ENT>OBITUARY>Bo Diddley / December 30, 1928 - June 2, 2008 (79)


投稿者 吉岡正晴 : 04:35 AM | コメント (0)

April 28, 2008

Al Wilson Dies At 68

[ ENT>OBITUARY>]

【訃報・アル・ウィルソン68歳で死去】

訃報。

「ショウ&テル」の大ヒットを持つソウル・シンガー、アル・ウィルソンが2008年4月21日(月)、カリフォルニア州フォンタナのカイザー・パーマネント病院で腎不全のため死去した。68歳だった。

アル・ウィルソンは1939年6月19日ミシシッピー州メリディアン生まれ。幼少の頃から教会でゴスペルを歌ってきた。1958年サン・バーナディーノに引越し、事務仕事などで生計を立てていた。軍隊に入るまでにジョニー・レッグス・ハリス&ザ・ステーツメンというグループに参加、軍隊を出た後ロス・アンジェルスに移住。いくつかのグループに参加。

1966年、マーク・ゴードンというマネージャーに認められ、ゴードンの仲介でジョニー・リヴァースの持つソウル・シティー・レーベルと契約。1968年に「ザ・スネイク」のヒットが誕生した。これは、同レーベルの売れっ子だったジョニー・リヴァースがプロデュースを担当。アル・ウィルソンはジョニーのヒット「プア・サイド・オブ・タウン」をカヴァーしている。

その後1973年、ポップな「ショウ&テル」が大ヒットし、全米ナンバーワンに。「ラ・ラ・・ピース・ソング」、「カウント・ザ・デイズ」などのヒットを出した。

2007年、火事のために自宅にあった多くのマスターテープが焼失してしまった、という。

アル・ウィルソンの代表曲「ショウ&テル」は、最近ではピーボ・ブライソンがカヴァーし、ヒットさせ持ち歌として歌っている。アルのヴァージョンも実は、先にジョニー・マティスにレコーディングされており、そのカヴァーだった。

ご冥福をお祈りする。

ENT>OBITUARY>Wilson, Al (June 19, 1939 - April 21, 2008, 68)

投稿者 吉岡正晴 : 04:24 AM | コメント (0)

April 18, 2008

Mama Luther Dies At 82

[ ENT>OBITUARY>]

【(訃報)ルーサーの母死去】

死去。

2005年7月1日に54歳で死去したシンガー、ルーサー・ヴァンドロスの母、メリー・アイダ・ヴァンドロスさんが、2008年4月9日(水曜)ニューヨークで老衰のため死去した。82歳と伝えられている。しばらく前から意識はなくなっていた。メリーさんには、夫、4人の子供がいたが、いずれも、メリーさんより先に亡くなっていた。

ルーサーは、4人兄弟のうち、最後に亡くなった。4人のうち3人が、また11人いる孫の1人が糖尿病が原因で死去しており、ヴァンドロス家にとっては、この病気は家系のようなものだった。

メリー・アイダさんは、1926年ごろ、サウス・キャロライナ州シャロウという街の生まれ。(彼女の死亡記事はいずれも82歳となっているが、2006年の記事で82歳という記載がある) 17歳のとき(1943年ごろ)、幼馴なじみのルーサー・ヴァンドロスさんと結婚。1946年にニューヨークに移り住んだ。その後、誕生した息子のひとりに「ルーサー・ロンゾーニ・ヴァンドロス」と名付けた。このルーサー・ジュニアが後にシンガー、ルーサー・ヴァンドロスとなる。母メリーさんは、大変信心深い女性で、教会活動なども積極的に行ってきた、という。

シンガー、ルーサー・ヴァンドロスの葬儀(2005年7月)には、ルーサーの親友フォンジー・ソーントンに車椅子を押されて出席。またこの席では、パティー・ラベル、アリシア・キーズ、アレサ・フランクリンらが「パワー・オブ・ラヴ/ラヴ・パワー」を歌ってルーサー送り出した。この葬儀では、母メリー・アイダさんが書いた詩をパティー・ラベルが朗読した。

■過去関連記事

September 15, 2006
Luther's Mother Promoting Her Son's Album
【ルーサー母親が息子の新作をプロモート】
http://blog.soulsearchin.com/archives/001268.html

July 07, 2006
Takayama Hiroshi Talks About Luther Vandross
【高山広・ルーサーを語る】
http://blog.soulsearchin.com/archives/001124.html

2005/07/03 (Sun)
Luther Vandross Died At 54: Reunited After 46 Years With His Father
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_03.html
ルーサー死去のニュース。2005年最大の衝撃でした。天国で出会う父と息子という描写がよかった。

July 06, 2005
Luther Vandross Talks In Brooklyn Accent
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_06.html
ルーサーへの個人的な思い出。ルーサーと僕の唯一の遭遇。

September 15, 2005
Luther Tribute Will Be Out On October 26 In Japan
【ルーサー・トリビュート10月26日発売】 
http://blog.soulsearchin.com/archives/000517.html
(ここにルーサーに関する過去記事一覧=「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」物語など)

ENT>OBITUARY>Vandross, Mary Ida, April 9, 2008, 82?

投稿者 吉岡正晴 : 01:21 AM | コメント (0)

April 02, 2008

Sean Levert Dies At 39

[ ENT>OBITUARY>]

【訃報・ショーン・リヴァート39歳で死去】

刑務所。

R&Bヴォーカル・グループ、リヴァートのメンバーのひとりで、リード・シンガー、ジェラルド・リヴァート(故人=2006年11月10日に40歳で他界)の弟でもあるショーン・リヴァートが去る2008年3月30日(日曜日)夜、オハイオ州クリーヴランドの収監先のクヤホガ・カウンティー刑務所内で意識不明になり、すぐに近くのルーサーラン病院に運ばれたが、死去した。39歳だった。

ショーンは、子供の養育費の未払いが8万ドル以上あり、そのために1年10ヶ月の実刑を受けて収監されていた。これが先週月曜(3月24日)のこと。ショーンには、11歳、15歳、17歳の3人の子供がいた。ショーン自身、元々14歳ごろからマリファナを使用していたが、死因に特に不審な点はない模様。裁判で判決が言い渡されたときには特に健康面での問題は語っていなかった、という。毒物・薬物検査なども行われるが、その結果は4-6週間かかる。

刑務所によると、ショーンは高血圧と若干の幻覚に悩まされ、24時間体制で監視されていた。

リヴァートは、1980年代に「カサノヴァ」などの大ヒットを放ち、グラミー賞にもノミネートされた。

+++++

ショーン・リヴァートまで亡くなった。一体なんたること。ショーン・リヴァートは1968年9月28日オハイオ州クリーヴランド生まれ。まだ40歳の誕生日を迎えていない。ショーンもジェラルドの後を追うようにソロ活動をした。だが、ジェラルドほど大きな成功は得られなかった。彼の唯一のソロ・アルバムは1995年の『ジ・アザー・サイド』。

リヴァートとして成功を収めた息子たち2人をすでに失った父エディー・リヴァート(オージェイズのメンバー)の気持ちは計り知れない。父エディーがこれに気を落としてがっくりしないように祈りたい。

オハイオ州カントンには、彼らのファミリー・ネーム、リヴァートを冠したストリートがあるという。

音楽プロデューサー・松尾潔さんの話。「ジェラルドに続いてですか。リヴァートはアメリカで何度か見てるんですよ。本当に好きなグループだったなあ。2人の息子を失った父の気持ちは、言葉にできませんね…。今夜は『ステアウェイ・トゥ・ヘヴン』(オージェイズの1976年のヒット)でも聴いて喪に服します」

「ステアウェイ・トゥ・ヘヴン」(歌詞・一部)

Here we go
Still in a moment of pleasure
You and I
We are gonna find the pirates treasure
Here we go
Oh baby here we go
Climbing the stairway to heaven
Climbing the stairway to heaven
And we are going step by step
Together

■ 過去関連記事~ジェラルド・リヴァート訃報

November 12, 2006
Gerald Levert Dies Of Heart Attack At 40
http://blog.soulsearchin.com/archives/001386.html

November 13, 2006
Gerald Levert, Forever:
http://blog.soulsearchin.com/archives/001387.html

ENT>OBITUARY>Levert, Sean / September 28, 1968 – March 30, 2008 (39)


投稿者 吉岡正晴 : 01:21 AM | コメント (0)

February 24, 2008

(速報・訃報)Orito Dies At 43

[ ENT>OBITUARY>]

【(速報・訃報)ソウル・シンガー、オリト急死】  

メンフィスのソウル・プロデューサー、ウィリー・ミッチェルのところに出向き、彼のプロデュースで日本デビューしたソウル・シンガー、オリト(アーティスト表記=ORITO=本名・折戸都志郎)が去る2008年2月22日か23日、大阪のホテルで急死した。43歳だった。詳細は確認されたら、またお知らせします。

(死亡日は22日か23日で情報が錯綜しています)

http://www.oritosoul.com/

投稿者 吉岡正晴 : 07:04 PM | コメント (0)

December 28, 2007

Uehara Hiromi Wrote A Piece Tribute To Oscar Peterson

[ ENT>OBITUARY>]

【上原ひろみさん、オスカー・ピーターソンへの追悼文を書く】

追悼文。

ピアニスト上原ひろみさんが、オスカー・ピーターソンの死去にともない追悼文を書いていると、のりえもんさんのブログに書いてあって、さっそく読みに行った。すばらしい文章だった。以下にリンクをはります。

上原ひろみ・記「ありがとうオスカー」
http://www.yamaha-ma.co.jp/cgi-bin/art/official/hiromiuehara/view.cgi?mode=message

やはり、これだけ親しいというか、近く、思い入れがあると、文章も重く読む者の胸を打つ。

彼女はオスカーのピアノについてこう書いた。「すごい人だった。ピアノがこんなに喜ぶものか、と思った。なんて、明るく楽しいピアノだろう。なんて、聞いてる人の心を躍らせるのだろう。」

この言葉は、そのまま上原ひろみのピアノについても言える。彼女のピアノも、「明るく楽しく、心を躍らせる」。それはとりもなおさず、彼女自身、見事にオスカー・ピーターソンのピアノのソウルを受け継いでいることの証だ。

僕が上原ひろみさんを知ったのが2003年だからもう4年も経つ。直近のブルーノートは見られなかった。最後に見たのは昨年の東京ジャズ。もうひとりのあこがれの人、チック・コーリアとのデュエットだ。全曲、即興のような作品群でその緊張感と楽しさは十分に観客に伝わった。

彼女が同じところに書いた文章がアーカイブとして、残されていたので、思わず他の過去記事も読んでしまった。文章がとても上手なので、これまた驚かされた。これをさくっとまとめるだけでいつでもエッセー集なんか出せそうだ。

【関連リンク】

ソウルサーチン日記・上原ひろみ 2003年11月6日付け
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200311/diary20031106.html

ソウルサーチン日記・アーマッド・ジャマル (上原ひろみのデビューのきっかけを作った伝説のピアニスト)
2003/10/29 (Wed)
Magician Of Minimalism: Ahmad Jamal Speaks Language In The Name Of Music
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200310/diary20031029.html

ソウルサーチン日記・続 アーマッド・ジャマル
2003/10/30 (Thu)
Jewels Are Hard To Find: Name Of Jewel Is Ahmad Jamal
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200310/diary20031030.html

2003/12/01 (Mon)
Master Of 88: Sky's The Limit For Hiromi Uehara (Part 1)
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/diary20031201.html

2003/12/02 (Tue)
Master Of 88: Genius Or Mediator? Hiromi Uehara Connect (Part 2)
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/diary20031202.html

September 04, 2006
Tokyo Jazz Live: Young Meets Old, East Meets West, Fresh Meets Mature...All Happening Here
http://blog.soulsearchin.com/archives/001248.html

上原ひろみオフィシャル・ホームページ
http://www.yamaha-ma.co.jp/art/official/hiromiuehara/
http://www.hiromimusic.com/index.htm
http://www.universal-music.co.jp/jazz/j_jazz/hiromi/

ENT>MUSIC>Peterson, Oscar / Uehara, Hiromi

投稿者 吉岡正晴 : 04:35 AM | コメント (0)

December 26, 2007

Oscar Peterson Dies At 82

[ ENT>OBITUARY>]

【ジャズの巨匠、オスカー・ピーターソン82歳で死去】


超絶。

ジャズ・ピアニストとして世界的人気を誇ったオスカー・ピーターソンが2007年12月23日、カナダ・モントリオール郊外のミシサウーガの自宅で死去した。82歳だった。

オスカー・ピーターソンは1925年8月15日カナダ・モントリオール生まれ。父親が仕事は列車のポーターだったが音楽好きで、早くからオスカーの才能を認めた。1949年マネージャーのノーマン・グランツの尽力で、アメリカ・ニューヨークのカーネギー・ホールでコンサートを行い、注目され、その後世界的ピアニストになっていく。生涯で200枚以上のアルバムを制作、人気を集めた。エラ・フィッツジェラルド、ルイ・アームストロングなど多くのジャズ・ジャイアンツたちともプレイしてきた。アート・テイタムなどに影響を受け、アートと同様の評価を獲得してきた。

1993年、ニューヨークのブルーノートでのライヴ中に脳溢血で倒れ、以後、右手に障害が残り、晩年はほとんど左手だけで演奏していた。

グラミー賞7回、受賞。その他多くの名誉ある賞を受賞している。

筆者が見た最近のライヴ評。↓

2004/10/05 (Tue)
The Magic Of One Hand: Oscar Peterson Live
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200410/diary20041005.html

アルバムは、ベストを

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酒とバラの日々~ベスト・オブ・オスカー・ピーターソン
オスカー・ピーターソン
ポリドール (1997/06/18)
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ENT>OBITUARY>Peterson, Oscar (August 15, 1925 – December 23, 2007, 82 years old)

投稿者 吉岡正晴 : 02:47 AM | コメント (0)

December 14, 2007

Ike Turner Dies At 76

[ ENT>OBITUARY>]

【アイク・ターナー死去】

暴君。

1950年代からR&Bシーンで活躍、「アイク・アンド・ティナ・ターナー」として世界的人気を集めたアイク・ターナーが2007年12月12日、カリフォルニア州サンディエゴ郊外の自宅で死去した。76歳だった。死因は明らかにされていない。アイク・ターナーのマネージメントをてがけているスリル・エンターテインメントのスコット・ハノーヴァーが語った。

アイク・ターナーは、1931年11月5日ミシシッピー州クラークスデール生まれ。子供の頃から音楽に親しみ、1940年代後期にはキングス・オブ・リズムというグループを結成。その後1950年代後期にアンナ・メイ・バロックというシンガーと知り合い、彼女はバンドの一員に。アンナと結婚し、彼女は芸名ティナ・ターナーに。2人でアイク・アンド・ティナ・ターナーとなる。1960年「ア・フール・イン・ラヴ」の初ヒットを皮切りに、「イッツ・ゴナ・ウォーク・アウト・ファイン」(1961年)、「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」(1966年)など1960年代から1970年代にかけて多数のヒットを放つ。1971年、「プラウド・メアリー」は、グラミー賞R&Bグループを獲得。また1970年12月には赤坂ムゲンに初来日。音楽的には、激しいR&Bとゴスペル、ロックの要素も加えたサウンド、さらに、ティナとバックを固める女性コーラス・グループ、アイケッツのダンスが大きなインパクトを与え、大人気となった。

だが、アイクは妻ティナに対し、暴力をふるったりしたことで次第に夫婦仲は険悪に。ティナは1976年遂に夫の元から逃げるようにして別れる。

その後ティナ・ターナーはソロ・シンガーとして「ホワッツ・ラヴ・ガット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット」(1984年)などの大ヒットを放ち、グラミー賞も獲得。

アイクとティナの暴力沙汰については、ティナ・ターナーが発表した自伝『アイ・ティナ』(1986年)に詳しい。この自伝は1993年『ホワッツ・ラヴ・ガット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット』のタイトルで映画化された。映画ではティナ役をアンジェラ・バセットが、アイク役をローレンス・フィッシュバーンが演じた。

1991年、アイク・アンド・ティナ・ターナーとして「ロックンロール殿堂」入り。晩年はドラッグ中毒などが問題となっていた。アイク・ターナーは1994年再度来日、また、2003年には彼のグループ、キングス・オブ・リズムが来日公演を行った。このときは、アイクは入国できなかった。2001年には、アイク・ターナーが書いた自伝『テイキン・バック・マイ・ネーム』がリリースされた。

2007年のグラミー賞でアイク・ターナーは、ブルーズ・アルバム『ライジング・ウィズ・ザ・ブルーズ』で「ベスト・トラディショナル・ブルーズ・アルバム」賞を獲得している。

+++++

遭遇。

アイク&ティナの1970年の伝説のムゲン・ライヴは残念ながら僕は体験していない。一度1990年代にロスのBBキングの「ハウス・オブ・ブルース」でライヴを見た帰りに駐車場で彼に遭遇した。そのときは友人で自伝作家のデイヴィッド・リッツとライヴを見た帰りで、彼がアイクに気が付き声をかけ、紹介してくれた。アイクは後ろに黒人の女性を従えていたように記憶する。いかにも昔ながらのミュージックマンという印象だった。

映画『ティナ、ホワッツ・ラヴ・ガット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット』では、ローレンス・フィッシュバーンが見事な演技で、暴君を演じているが、どうしてもあの印象が強くなってしまい、ティナ・ターナーに同情しがちである。しかし、彼のアルバムが. 今年のグラミーを獲得していたことで、最後に花道を飾った感じがする。

ご冥福をお祈りしたい。

ENT>OBITUARY>Turner, Ike (November 5, 1931 – December 12, 2007 – 76)

投稿者 吉岡正晴 : 02:21 AM | コメント (0)

November 20, 2007

Nick Okai’s Funeral Day Two: Someone Should Record These Culture

[ ENT>OBITUARY>]

【ニック岡井氏告別式~華麗なソウル・ステップよ、永遠に】

早朝。

前日の喧騒の通夜から12時間余。臨海斎場、朝10時45分。昨日とは少し違い人の出足が遅い。さすがソウル・バー業界、ソウル音楽業界、みな朝に弱いか。しかし予定の11時より15分早く、お経が始まった。その間、徐々に勢いを増して人が集まり、30分もしないうちに、席が埋まった。川畑さんも10時半過ぎに登場。2時間しか寝ていないそうだ。

お経が始まる。焼香が始まる。歯を食いしばっての江守さんの弔辞、泣けた。そして、ニックへ最後のお別れ。祭壇に飾られた花がはずされ、参列者の手に行き、参列者から棺の中に入れられる。みるみるうちに、ニックの周りは白い花でいっぱいになった。そして、多くの人に見守られ、出棺。そして焼き場へ。多くの人がその後を追った。

+++

待合室。

前日、ニックへ捧げたCDが置いてあった。江守さんがニックのために、そして、ニックの奥さんのために作ったものだ。そのCDに曲名がプリントされていた。さっそく書き写した。全部で19曲も入っていた。昨日かかったのは、12曲目くらいまでだった。こんな曲を、江守さんが「ニックの好きな曲」として選んだ。

Songs For Brother Nick: Selected By Brother Emo, November 2007

01. My Girl (A Cappella) / Temptations
02. Sexual Healing / Marvin Gaye
03. Thank You For Your Love / Dramatics
04. Baby, Baby, Baby / Aretha Franklin
05. Abraham, Martin & John / Marvin Gaye
06. People Get Ready / Impressions
07. Going In Circles / Friends Of Distinction
08. Ooh Child / Five Stairsteps
09. Wonderful World / Sam Cooke
10. “T” Plays It Cool / Marvin Gaye
11. Mercy Mercy Me / Marvin Gaye
12. Ball Of Confusion / Temptations
13. Shoo-Be-Doo-De-Doo-Da-Day / Stevie Wonder
14. Hang On In There Baby / Johnny Bristol
15. Your Precious Love / Marvin Gaye & Tammi Terrell
16. Have You Seen Her / Chi-Lites
17. Stay In My Corner / Dells
18. Walk Away From Love / David Ruffin
19. Slippin’ Into Darkness / War

シャイ・ライツ、デルズなんかも入っていたんだ。ニック好きだったもんなあ。しかし、曲面(きょくづら)を見てるだけでニックの顔が浮かぶなんて、なんと素晴らしいDJだろうか。10曲目がちょっとわからなかったので江守さんに聞くと、マーヴィンの『トラブル・マン』に入っている曲だという。あ~~、なるほど。ドラマティックスはニックが「ホワッチャ・シー・イズ・ホワッチャ・ゲット」をよくかけていたのを思い出す。江守さんによれば、「それもそうだけど、ニックが本当に好きだったのはこの曲だったんだよ」という。

しかし、このCDいいなあ。「吉岡、別に曲は全部持ってるでしょ」と江守さんは言う。ま、確かにそうなんだが、江守さんがニックのために選んだ曲で作ったCDというところが、ものすごくヴァリューがある。オムニバスの選曲というのは、そういうことなのだ。

+++++

バカ話。

待ち時間に赤坂ミラクル川畑さん、恵比寿ブラウン・シュガー白河さんとしばし談笑。いろんなソウル・バーの話になって、川畑さん「うちってよく『敷居が高い』なんて言われるんだよねえ、ぜんぜんそんなことないのに」とこぼす。「へえ、そんなこと言われるんですか。客に怒るからですか」と僕。「違うよ、客に怒るのは、こっちだよ!」と白河さんを指す。すると白河さん「いや、別に怒りませんよ。10人くらいで来た客に『うちは、騒げない店ですよ』とびしっと言うだけですよ」。十分だ。川畑さん「いっそのこと、入口にど~んと高い敷居でも作ってやろうかと思っちゃうよ(笑)」 どこからともなく現れたマイケル鶴岡(三宿ソウルナッツ)「うちは鴨居が低いんだけどね」。

今にもニックが割り込んできそうなバカ話をしているうちに、約1時間。ニックの集骨の時間となった。ニックの葬儀に集まった弔問客の年齢は、それこそ10代から50代、60代まで本当に幅広かった。ニックにじかにダンスを教わった子供たちから、一緒にステップを踏んだ50代、60代まで、彼はその人柄からみんなに愛された。

+++

記録。

勝本氏や、ニックさん、そして江守さんたちが残してきたものというのは、決してメジャーなものではなかったかもしれない。江守さんが言った。「僕らがやってきたものって、結局、アングラみたいなものじゃない。だけど、みんなそれに一途だった。やはり、そういうのは誰かが記録しないとだめなんだよね。カツが死んで、ニックがこうなって、もうおちおちしてられないよ。吉岡にも書いて欲しいけど、僕も小説、エッセー、一生懸命書いてるよ」 やりましょう、やりましょう。遅くなる前に。

ニックが残したソウル・ステップの集大成作品『ソウル・ステップ・アンド・ソウル・ダンス』(DVDで3枚になって発売)は、そんなアンダーグラウンド・カルチャーとしてのソウル・ステップの素晴らしい記録である。だが、僕はニックが動く姿を今日はまだ見ることができない。

華麗なソウル・ステップよ、ニック岡井さん、永遠に・・・。

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ENT>OBITUARY>Okai, Nick (9.29.1947 – 11.11.2007, 60)

投稿者 吉岡正晴 : 04:29 AM | コメント (0)

November 19, 2007

Nick Okai’s Funeral Day One: His Memorial Song “My Girl” Was Played…

[ ENT>OBITUARY>]

【ニック岡井氏通夜~「マイ・ガール」が流れて・・・】

塊魂。

2007年11月11日60歳で逝去した日本のダンスクリエイターの第一人者、ニック岡井さんの通夜が18日、午後6時から品川の臨海斎場で行われ、700人近くの人が訪れ、故人を偲んだ。

祭壇には3枚の写真が大きく飾られている。向かって左にかっこよくダンスポーズを決めたニック、中央にDJをやっているニック、そして、アーティスト岡伸昭さんが作ったニックの足跡をキャンバスに記した作品『ニックのソウル・ステップ』制作時の記念写真だ。左隅にニックがDJをするときに使っていたレコードを入れるバッグが。そこからジャケットの端がぼろぼろになっているサム・クックの「ベスト・アルバム」が顔を出している。

室内の一般弔問席はすぐに埋まり、入れ切れない人たちが外で中の様子をうかがう。6時ちょうどに始まり、まず、「ニック岡井さんのルーツとなった曲を献歌します」とアナウンスされた。指を鳴らす音が聞こえたかと思ったら、なんと「マイ・ガール」のア・カペラ・ヴァージョンだった。ニックが17歳のときに聴いて、彼の生涯を決定付けた1曲だ。このア・カペラを聴きながら、ずっと僕は、たった1曲の歌が人に与える影響の大きさというものをつくづく感じていた。ニックはこれを聴いて、テンプスにあこがれ、彼らのような「テンプテーションズ・ウォーク」をしたいと思い、ソウル・ダンスに、ソウル・ミュージックにのめりこんだ。のめりこんで以来43年、ずっと一筋に走ってきた。すごいことだ。

そして、マーヴィン・ゲイの「セクシュアル・ヒーリング」がかかった。弔辞を述べたマイケル鶴岡さんは棺に横たわるニックに「『マイ・ガール』にマーヴィン・ゲイと言えば、もうニックさんが踊りだしそうじゃないですか」と声をかけた。

お坊さんのお経が読まれる中、延々と焼香の列が続いた。一度に9人焼香ができたが、結局最後の人が終えるまで1時間を越えた。後で聞けば親族関係者を除いて700人近い数に上った、という。その後、ニックへのお別れの機会が作られた。弔問客の中の一人の方が「ビール券、買ってきたからね。足りなくなったら、電話して」と言いながら、そのビール券を棺にいれた。ニックが好きだったタバコ「クール」を横の台にそっと置く人、缶ビールをそっと置く人、思い出の写真を置く人・・・。おそらく、700通りのニックへの思い出が渦巻いたことだろう。

弔問中流れていたソウルの曲の数々がみんなニックが好きな曲ばかりだったことに気付き、泣きそうになった。江守さんがニックの好きな曲ばかりを選んで作ったCDだった。隣にいた川畑さんにそれを言うと、「みんなニックの好きな曲ばかりだね」とぽつりと言う。マーヴィン・ゲイの「アブラハム・マーティン・アンド・ジョン」(泣ける)、アレサ・フランクリン「ベイビー・ベイビー・ベイビー」、インプレッションズの「ピープル・ゲット・レディー」(これも旅立ちには泣ける)、「ウー・チャイルド」・・・。どれをとっても、ニックがターンテーブルでDJをやっている姿が浮かび上がってしまう。「マイ・ガール」のア・カペラ・ヴァージョンも江守さんのアイデアだろう。これ以上ない最高の演出だ。

ちなみにこのア・カペラの「マイ・ガール」は普通に探してもどこにもない。1995年2月にリリースされた5枚組のボックスセット『エンペラーズ・オブ・ソウル』に「シークレット・トラック」として収録されているもの。アルバム・ジャケットやレーベルにも、「マイ・ガール」(ア・カペラ)のクレジットはないのだ。このボックスを持っていても、この存在を知らない人は意外と多い。

通夜に先立ち、『ソウル・ブレンズ』ではニック岡井トリビュートとして、ニックゆかりの曲をDJオッシーが渾身の選曲で2時間にわたってお送りした。ここに記しておきたい。(コーナー、ゲストコーナーでの楽曲は除く)

(トップ)My Girl / Temptations
Reach Out, I’ll Be There
Just My Imagination / Temptations
Get Ready / Temptations
Super Bad / James Brown
What’s Going On / Marvin Gaye
Stop! In The Name Of Love / Supremes
I Was Made To Love Her / Stevie Wonder
Midnight Train To Georgia / Gladys Knight & Pips
(ラスト)可愛い人よ / クック・ニック&チャッキー

オンエアー中、DJオッシーも「きっと、ニックさん、聴いててくれてますよ。ほら、ニックさんが降りてきた・・・」と言っていたが、このラインアップを短い時間の中でかけている間、ニックの顔とダンスが脳裏を駆け巡った。

僕は今後、「マイ・ガール」がどこからか流れてくるたびに、ニックのこと、ニックのこの葬儀のことを必ず思い出すだろう。「マイ・ガール」とニック岡井さんは、僕の中で強烈に「ひとつのもの」になった。「ひとつのもの」は目には見えないが「塊(かたまり)」であり、「魂(ソウル)」なのだと思う。

今日(11月19日=月)は同じ臨海斎場で告別式、朝11時から。盟友ミラクルの川畑さんは、18日にニックがDJをする予定だったイヴェントで、ニックの代わりにピンチヒッターDJとして登場する。告別式までの間、寝られなければ、起きたまま行く、と言って斎場をあわただしく後にした。

ENT>OBITUARY>Okai, Nick (9.29.1947 – 11.11.2007, 60)


投稿者 吉岡正晴 : 02:37 AM | コメント (0)

November 18, 2007

Today’s “Soul Blends” Will Tribute To Nick Okai

[ ENT>OBITUARY>]

【今日『ソウル・ブレンズ』でニック岡井トリビュート、次週テンプス生ゲスト】

緊急。

11月11日(日)に逝去した日本R&Bダンス界の巨匠、ニック岡井さんをしのんで、今日の『ソウル・ブレンズ』(関東地区・インターFM76.1mhz=午後3時~5時)では、「ニック岡井トリビュート」としてお送りすることになった。ニックさんが好きだったテンプテーションズの作品などを選曲する。ニックさんは、これまでに3回ほど『ソウル・ブレンズ』にゲストで出演。踊りの魅力や、自らのソウル歴などを語っていった。

奇しくも盟友ドン勝本さんが亡くなった週(2007年4月19日の週)にはフレッド・ウェスリーらジェームス・ブラウン関係のアーティストが来日。ニックさんが亡くなった今週、テンプテーションズが丸の内コットン・クラブにやってくる。勝本さんのときは、ソウルメイト・ハセヤンとともに、勝本・ブラウンの2ショットの写真を額縁にいれて、フレッド・ウェスリーらのライヴに赴き、勝本さんに彼らのライヴを見せた。来週のテンプスには、ニックを連れて行こう。

また、来週の『ソウル・ブレンズ』(11月25日放送)では、そのテンプテーションズの中から、デニス・エドワーズとアリ・オリ・ウッドソンが生ゲストで登場することになった。デニスは、テンプス第二期の立役者、アリ・オリは続く第三期の立役者。また、今回は一時期そのテンプスのリード・シンガーの誘いを蹴った男の異名を持つデイヴィッド・シーもステージに上がり、いわばテンプス黄金のリード・シンガーの揃い踏みとなる。すでに今年のソウル界の最大級の話題を集めているデニス・エドワーズのテンプテーションズ・レビュー。そこからデニスとアリ・オリのゲストもお聞き逃しなく。

■ニック岡井氏 葬儀詳細

11月11日に逝去されたニック岡井(本名・岡井邦彦)さんの葬儀詳細はは次の通り。

喪主 岡井佐和子
連絡先 ダンステリア 電話 03-3444-0097

日時 通夜  2007年11月18日(日)午後6時~7時
   告別式 2007年11月19日(月)午前11時~12時
場所 臨海斎場
大田区東海1-3-1 電話03-5755-2833

供花申し込み取り扱い
池牧 電話 03-3751-0166 ファクス03-3752-8244
供花は、上記「池牧」店へご連絡ください。

■ 逝去関連記事

November 12, 2007
Nick Okai Dies At 60
http://blog.soulsearchin.com/archives/002142.html

November 13, 2007
Nick Okai Tribute: “My Girl” Is A Song Made His Life Change
http://blog.soulsearchin.com/archives/002144.html

ENT>OBITUARY>Okai, Nick (9.29.1947 – 11.11.2007, 60)
ENT>ANNOUNCEMENT


投稿者 吉岡正晴 : 03:50 AM | コメント (0)

November 13, 2007

Nick Okai Tribute: “My Girl” Is A Song Made His Life Change

[ ENT>OBITUARY>]

【ニック岡井トリビュート~ニックの人生を変えた1曲】

思い出。

ニックは、生涯一ソウルDJだった。ニックの選曲は誰も真似できなかった。ニックが選ぶ曲を他の人がかけても、ニックがかけるようにはならなかった。

ニックは、生涯一ソウル・ダンサーだった。ニックのダンスは誰も真似できなかった。ニックが踊るように真似しようにも、誰もニックのようには踊れなかった。

逝去する一日前の土曜日も白金ダンステリアでのレギュラーDJをやるつもりでいた。ただし、その日は「ちょっと体調悪いから休むわ」と一本電話をいれていた。そして、11月11日も新宿のソウルバー「ジューク・ジョイント」の周年パーティーにちょっと顔を出すつもりでいた。

確かに勝本氏死去のときには、かなりニック自身が憔悴しきった感じはあった。痩せたなあとも思った。だが、まさか・・・。昨夜マイケル鶴岡氏から電話連絡をもらったときも、「嘘だろっ」と思った。すぐにみんなが集まっている三宿のソウルナッツに行った。

ニックが2003年5月、『ソウル・ブレンズ』に遊びに来たとき、何曲か選んだがその1曲にテンプテーションズの「マイ・ガール」があった。ニックはそのときこう答えていた。「この曲、リアルタイムで聴いてたんですよ。向こう(アメリカ)ではやっていた頃。やっぱりね、僕は、これ聴いて何十年とここまでやってきたような感じなんでね。この曲だけは、お墓に入るときもこの曲を流して欲しいな、って思って。(笑) それくらい好きです!」

流しましょう! 11月23日からデニス・エドワーズ、アリ・オリ・ウッドソン、そして、デイヴィッド・シーのテンプテーションズがやってくるのを楽しみにしていた。ニックは川畑さん(赤坂ミラクル・オウナー)らと一緒に行く予定だった。川畑さんが言う。「ニックから電話あってさ、テンプス行きたいから、予約しといてって言われて、日曜、予約しといたんだよ。それも先行予約だよ」

僕がニックに初めて会ったのは、1973年の5月か6月頃だと思う。当時僕はアメリカからソウルのシングル盤を輸入していて、それをあちこちのディスコに売り始めていた。最初六本木のエンバシーに行って、そこの勝本さんから新宿ゲットのニックを紹介された。レコードを持っていくと、最初はちょっと怖かったが、すぐにお互いソウルが好きだということがわかると、すぐに打ち解けた。最初のうちは店で話をしていたが、何回か通ううちに、僕が行くとニックはDJを若手に任せ、近くの喫茶店に行き、レコードを選んだり、ソウルの情報交換をするようになった。その後、彼が六本木の「インフィニティー」に移ると、そこにも行った。なにより、ジェームス・ブラウン関係のレコードには目がなかった。普段はけっこう曲についてあれこれ聴いてからシングルを吟味していたが、ピープル・レーベル(ジェームス・ブラウンのレーベル)の作品群だけは、見ただけで選んでいた。

「マイ・ガール」をきっかけにソウルの世界、ソウル・ダンスの世界に足を踏み入れて42年。ニックが踏み鳴らしたディスコ・フロアの足跡(あしあと)は、日本のソウル・ステップ史の足跡(そくせき)だ。

聞けばニックは医者から酒を止めるように言われていたが、隠れて飲んでいたらしい。それで肝臓はやられた。ソウルをこよなく愛し、酒を愛し、ソウル・ダンスを愛したニック岡井さん。安らかに・・・。

いや、天国で勝本さんとまた「キング・オブ・ソウル」か? 

■以下、さっとニック関連の過去記事を。

2003/05/26 (Mon)
Dance, It's His Life: Legendary Dancer Organized His First Event
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200305/diary20030526.html

2003/05/27 (Tue)
The Song That Changed His Life
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030527.html
(ニックの人生を変えた1曲~「マイ・ガール」)(お勧め)

2003/05/30 (Fri)
Promotional Talk
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200305/diary20030530.html

2003/09/30 (Tue)
Nick's Birthday Party: Where Did He Get Nickname "Nick"?
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/event/diary20030930.html

2003/11/10 (Mon)
Party To Party: Street Cafe To Brown Sugar
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/diary20031110.html

2004/06/18 (Fri)
Footsteps Of The Master Of Dance, Nick Okai Explode
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200406/diary20040618.html
(アーティスト岡さんがニックのダンスステップをキャンパスに記した作品について)(お勧め)

December 22, 2005
Disco, Disco, Disco...Hotel Ballroom Turned To Disco
http://blog.soulsearchin.com/archives/000721.html(ニックの写真つき)

March 11, 2006
"Soul Step & Soul Dance" DVD Edition
http://blog.soulsearchin.com/archives/000881.html

April 20, 2006
Soul Nuts: DJ Keiko And Michael's Wedding Party
http://blog.soulsearchin.com/archives/000974.html

August 5, 2006
Club Chic 2006 @ Grand Hyatt
http://blog.soulsearchin.com/archives/001186.html

September 11, 2006
Tokyo Disco Festival At Velfare
http://blog.soulsearchin.com/archives/001264.html

April 26, 2007
A Funeral Service Of Mr. Don Katsumoto
http://blog.soulsearchin.com/archives/001734.html

April 28, 2007
"King Of Soul" Of Japan Follows "King Of Soul" Of USA
http://blog.soulsearchin.com/archives/001736.html

June 24, 2007
Soul Searcher Painter Oka Nobuaki's Exhibition Will Be Held At Yufuin
http://blog.soulsearchin.com/archives/001842.html

ENT>OBITUARY>Okai, Nick (9.29.1947 – 11.11.2007, 60)


投稿者 吉岡正晴 : 12:49 AM | コメント (0)

November 12, 2007

Nick Okai’s Funeral

[ ENT>OBITUARY>]

【ニック岡井氏・葬儀の予定】

葬儀。

11月11日に逝去されたニック岡井(本名・岡井邦彦)さんの葬儀詳細はは次の通り。


喪主 岡井佐和子
連絡先 ダンステリア 電話 03-3444-0097

日時 通夜  2007年11月18日(日)午後6時~7時
   告別式 2007年11月19日(月)午前11時~12時
場所 臨海斎場
  大田区東海1-3-1 電話03-5755-2833

供花申し込み取り扱い
池牧 電話 03-3751-0166 ファクス03-3752-8244

供花は、上記「池牧」店へご連絡ください。

ENT>OBITUARY>Okai, Nick (9.29.1947 – 11.11.2007, 60)

投稿者 吉岡正晴 : 10:26 PM | コメント (0)

Nick Okai Dies At 60

[ ENT>OBITUARY>]

【ダンス・クリエイター、ニック岡井氏60歳で死去】 

死去。

日本のソウル系ダンス・クリエイターであり、多くのソウル・ステップのダンスを考案し、また現役ソウルDJとして活躍、ソウル・ミュージック業界に大きな足跡を残したニック岡井氏(本名・岡井邦彦)が2007年11月11日(日曜)午後、東京都港区の自宅で死去した。60歳だった。長く肝臓の病気を患っていた。通夜は11月18日(日曜)(18時)、葬儀は11月19日(月曜)(午前11時)、臨海斎場(東京都大田区東海1丁目3ー1)で行われる。喪主は妻・佐和子さん。

11日は朝、妻佐和子さんがでかけたときは元気で、午後2時頃には友人と電話したことが確認されているが、7時過ぎに佐和子さんが帰宅したときには冷たくなっていた、という。現在、遺体は警察に移され、死亡原因、推定時刻などが調べられている。肝硬変で何度か入退院を繰り返していた。この8月にも一時的に入院していた。しかし、9月29日の恒例誕生日イヴェント、また10月の「ニック岡井の還暦を祝うハワイツアー」(10月12日から4泊6日)には若干元気はなかったが、しっかりと参加していた。

ニック岡井氏は、1947年(昭和22年)9月29日神奈川県生まれ。ニックネームの「ニック」は9月29日生まれと、本名「邦彦」の音の響きから。1960年代後期から新宿の「音楽をかけて踊る」いわゆる「踊り場」などに出入りするようになり、ソウル・ミュージックと出会い、その魅力に惹かれる。新宿の喫茶店「ジ・アザー」(1966年頃から)や「PGS」(1968年頃から)などに出入りし始める。1966年頃、友人で踊り好きだったクック豊本氏、チャッキー新倉氏とともに歌って踊るグループ「クック・ニック&チャッキー」を結成。ライヴ活動を開始。1970年シングル「ライダー・ブルース」でデビュー、その後「僕の彼女は三つ年上」、さらに1971年に「可愛い人よ」をリリース。「可愛い人よ」はリリース当初はヒットしなかったが、新宿ゲットで頻繁にプレイしたところ、徐々にヒット、全国のディスコで人気を集めた。しかし、グループは1972年に解散。その後、ニックは新宿ゲットでディスコDJとして活動したり、また数々のダンス・ステップを考案したりして、日本のソウル界、ダンス業界に大きな足跡を残した。ニックが考案したステップで有名なものには、レア・アースの「ゲット・レディー」、「可愛い人よ」、「セクシー・バスストップ」など。日本のソウル系ダンス・ステップの第一人者。ディスコ創世記からかかわり、ディスコ全盛期をリアルタイムで生き、多くのステップを残した人物である。

所属していたディスコは、1971年からの新宿「ゲット」、1979年から六本木「インフィニティ」、1984年から白金「ダンステリア」など。

1990年、フジテレビで『ダンス・ダンス・ダンス』というテレビ番組が生まれるにあたってダンスチーム、「キング・オブ・ソウル」を故ドン勝本氏、マイケル鶴岡氏と結成。同番組のレギュラー化に伴い、毎週番組内で華麗なダンスを繰り広げた。このキング・オブ・ソウルは1991年バブルガム・ブラザースの武道館の公演で踊ったり、その後歌にも進出、1993年には「可愛い人よ」をリメイクして発表、話題を集めた。

最近は「ダンステリア」でのレギュラーのほか、高井戸クラブでのイヴェント、浅草AIクラブでのイヴェント、あるいは地方でのディスコ・イヴェントなどに多数出演していた。

日本のディスコ界でのステップの歴史を映像で捉えた教則ビデオ「ソウル・ステップ・アンド・ソウル・ダンス」が2000年に制作され、ここでニック氏が曲にあわせて踊り方を指導している。これは当初ビデオで発売されたが、2006年、装いも新たにDVD化されリリースされた。

盟友ドン勝本氏が4月19日に逝ってから7ヶ月もしないうちの旅立ちということになる。ご冥福をお祈りする。

+++++

今、ブラザー・コーン、江守さん、マイケルたちと三宿のソウルナッツで会っていましたが、ニックさんについてはまた、あらためて書きます。もう力が一気に抜けました。ニックさんとは1973年に会って以来なので、34年ということになります。最後に会ったのは、勝本さんの葬儀だったかなあ。

なお、ダズ・バンドのライヴ評は今日掲載予定でしたが、明日以降に掲載いたします。

+++++

ENT>OBITUARY>Okai, Nick (9.29.1947 – 11.11.2007, 60)


投稿者 吉岡正晴 : 05:49 AM | コメント (0)

September 14, 2007

Bobby Byrd Dies At 73: I Know You Got Soul

[ ENT>OBITUARY>]

【ジェームス・ブラウンの相棒ボビー・バード死去】

パートナー。

長年のジェームス・ブラウンのコラボレーターであり、多くの作品の共同作者でもあったボビー・バードが2007年9月12日(水曜)、 ホームタウンのローガンヴィルの自宅で家族などに見守られながら死去した。73歳だった。死因はガン。

ボビー・バードは、ジェームス・ブラウンの大ヒット曲「セックス・マシーン」でブラウンが「ゲッタップ」と歌うと、「ゲットンアップ」と合いの手を打つシンガーとしても有名。これ以外にも初期のジェームス・ブラウン作品でコーラス、合いの手などで参加している。

ボビー・バードは1934年8月15日ジョージア州トコア生まれ。彼は、1950年代初期にジェームス・ブラウンが刑務所に入っているときに知り合い、バードが持っていたゴスペル・グループにブラウンを誘った。バード一家は、ブラウンの後見人として早期出所に力を貸しブラウンの面倒をみた。

以後、ブラウンとバードはゴスペルを中心とした音楽活動を続け、次第にブラウンが頭角を出すようになる。ブラウンが1956年に「プリーズ・プリーズ・プリーズ」で大ヒットを飛ばすと、その後バードはブラウンのバンドで活動。1970年代初期までファミリーの一員として活動した。ちょうど同時期にジェームス・ブラウン・ファミリーにいた女性シンガー、ヴィッキー・アンダーソンと1970年に結婚。後にイギリスを本拠に活躍するR&Bシンガー、カーリーン・アンダーソンは娘。

バードはブラウン・ファミリーを脱退後1971年、ソロ・シングル「アイ・ノウ・ユー・ガット・ソウル」をリリース、これが大ヒット。またこの曲は後にパブリック・エナミー、エリック・B・ラキーム、アイス・キューブら多くのヒップ・ホップ・アーティストにサンプリングという手法で使われることになる。

バードとブラウンの関係は、グループに戻ったり、出たりといった具合だった。

ボビー・バードはヴィッキー・アンダーソンとともに1988年4月、ライヴ・コンサートのため来日している。

バード夫妻は、昨年12月のジェームス・ブラウンの葬儀でも歌っている。

+++++

Another One Followed Boss

再び、ソウル・ファンに衝撃のニュースが走った。

ボスの後を追い、またひとり相棒(パートナー)が逝ってしまった。

僕がボビー・バードに会ったのは1988年4月、愛妻ヴィッキー・アンダーソンとともに来日したときのこと。ヴィッキーとともにインタヴューした。あのときは、渋谷のクアトロでライヴがあったと記憶するが、そのライヴ自体はちょっとしたトラックで歌うような少々期待はずれのものではあった。だが、長年のブラウン・ファミリー好きにとっては、ボビー・バードは格別の存在だった。

なにしろ、1970年代初期にブラウンストーン・レーベルやクワンザ・レーベルの7インチを死に物狂いで集めたシンガーだ。ジェームス・ブラウンとは一味違って、しかし、まさにファミリーの一員というひじょうにユニークなポジションのシンガーだった。

その後1996年1月、ミスター・ブラウンのワイフ、エイドリアンさんの葬儀に出席したときに、やはり、バード・アンダーソン夫妻と再会した。そのときに「以前日本で会った」というようなことを言ったら、「おお、そうかそうか」と覚えてはいなかっただろうが、ひじょうに上機嫌で応対してくれた。彼はいつも笑顔という印象がある。だからとても人なつっこく見える。

ヴィッキー・アンダーソンは、ボビーの作品の中で「ベイビー・アイ・ラヴ・ユー」が好きだという。これは、ボビーが初めて彼女のために書いた曲だそうだ。

ミスター・ブラウンと一歳違い。どちらも73歳で旅立った。天国でのミスター・ブラウンとの再会を祝して・・・。

■ボビー・バード ベストアルバム

アイ・ノウ・ユー・ガット・ソウル~ベスト・オブ・ボビー・バード\
ボビー・バード
ユニバーサルミュージック (1995/12/01)
売り上げランキング: 332495

ENT>OBITUARY>Byrd, Bobby / August 15, 1934 - September 12, 2007 (73)

投稿者 吉岡正晴 : 02:41 AM | コメント (0)

September 13, 2007

(速報) Bobby Byrd Dies At 73

[ ENT>OBITUARY>]

【ジェームス・ブラウン・ファミリーのボビー・バード死去】

死去。

ジェームス・ブラウン・ファミリーの一員であり、ジェームス・ブラウンと多くの作品で共演してきたボビー・バードが2007年9月12日(水曜)、 ホームタウンのローガンヴィルの自宅で家族などに見守られながら死去した。73歳だった。死因はガン。

(詳細はのちほど)

投稿者 吉岡正晴 : 09:50 AM | コメント (0)

September 12, 2007

Joe Zawinul Dies At 75: Another Great One Down On 911

[ ENT>OBITUARY>]

【ジャズ・キーボード奏者ジョー・サビヌル死去】

革新的。

ジャズ・キーボード奏者、ジョー・ザビヌルが2007年9月11日、生まれ故郷オーストリアのウイーンで亡くなった。75歳だった。ジョー・ザビヌルは1932年7月7日ウイーン生まれ。チック・コーリア、ハービー・ハンコックらと並んで、ジャズ、フュージョンの発展に大きく寄与した。

奨学金を得てボストンのバークリー音楽院に入学するが、すぐにプロの道へ。1961年キャノンボール・アダレーのバンドのキーボード奏者になる。ここで彼の書いた「マーシー・マーシー・マーシー」が大ヒット。

1969年にマイルス・デイヴィス・グループのレコーディングに参加。アルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ』、『ビッチズ・ブリュー』などの傑作に寄与した。『ビッチズ・ブリュー』では当時のアナログ片面全面を費やした「ファラオズ・ダンス」に参加して話題を集めた。

その後1970年、ウェイン・ショーター、ミロスラフ・ビトウスらとともにウェザー・リポートを結成、大センセーションを巻き起こす。 ここには、天才ベース奏者ジャコ・パストリアスも抜擢。

ザビヌルの作品の中では1977年のアルバム『ヘヴィー・ウェザー』に収録された「バードランド」も有名。特に、マンハッタン・トランスファーが録音しヒットさせ、彼らの重要な持ち歌になった。1986年にウェザー・リポート解散、1995年ザビヌル・シンジケートを結成、ここでリチャード・ボナを起用。2006年には、日本の男性向けファッション誌「Z(ジー)」の表紙を飾っていた。

彼はエレクトリック・ピアノの初期から使用、さらにシンセサイザーも早くから導入。常に革新的に新しいサウンドに挑戦してきた。

ザビヌルは、ヨーロッパツアーを終えて1週間もしない9月7日に入院、その後9月11日に帰らぬ人となった。ガンだった、という。最近では1997年(渋谷クアトロ)、2003年10月、2005年5月、2006年8月(ブルーノート)などに来日していた。

■マイルス・デイヴィス 『ビッチズ・ブリュー』

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■ウェザー・リポート 『ヘヴィー・ウェザー』

ヘヴィー・ウェザー
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ウェザー・リポート
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ENT>OBITUARY>Zawinul, Joe / July 7, 1932 - September 11, 2007 (75)

投稿者 吉岡正晴 : 04:30 AM | コメント (0)

August 04, 2007

Another Great Poet Aku Yu Dies At 70

[ ENT>OBITUARY>]

【阿久悠氏死去】

悪友。

1960年代後期から1970年代にかけて多数の歌謡曲の作詞を担当、3000曲近くの作品を残した作詞家、阿久悠(あく・ゆう=本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)氏が2007年8月1日午前5時29分、慈恵会医大病院で尿管癌のため死去した。70歳。音楽業界誌オリジナル・コンフィデンスによると、作詞家として6000万枚以上のセールスを記録、これは記録が残るオリコン史上歴代堂々の1位だという。(2位は松本隆氏) 阿久悠氏は1937年(昭和12年)2月7日兵庫県生まれ。大学卒業後、広告代理店に入社、その後1967年から作詞家、文筆家として活動を開始、多数のヒットを生み出した。(なお、阿久悠氏の作品数については、今回の訃報記事で5000曲以上と報道されているが、JASRAC(日本音楽著作権協会)に登録されている楽曲数は2800曲余なので、とりあえず、ここでは3000曲近くということにしておく)

++++

僕個人としては、阿久悠さんは面識はないが、昔『スター誕生』での怖そうな審査員、さらにピンク・レディー他の多数の歌謡曲の作詞家として名前だけは存知あげていた。

たまたま、アメリカの作詞家ロン・ミラーの訃報と彼の作品について書いていて、そこに「Great Poet(偉大なる作詞家)」と名づけたが、もちろん、阿久悠氏はもうひとりのグレイト・ポエットである。

阿久悠氏が、単なる作詞家というだけでなく、偉大なプロデューサーであることも音楽業界では知られている。そのアーティストの方向性、キャラクターなどを考え、どうやって売リ出したら売れていくのか、そういうトータル的なプロデュース・ワークをされていた極初期の方だと思う。ピンク・レディーの成功などはまさにその金字塔だろう。そうした流れは後年の秋元康氏などに受け継がれる。

そして、もちろん「言葉のプロ」であった。数多くの作品を丹念に調べれば、その言葉のプロとしての表現がいくつも出てくるにちがいない。

僕はかつて「売れっ子作詞家になるためにはどうしたらいいか」という設問に、こう答えた。「売れっ子作曲家を捕まえることだよ」 この逆はまずありえない。つまり、「売れっ子作曲家になるために、売れっ子作詞家を捕まえればいい」ということには、基本的にはならないのだ。だが、阿久悠氏に限って言えば、そのセオリーも例外かもしれない。

UFOに乗って、また逢う日まで、

ご冥福をお祈りしたい。

ENT>OBITUARY>Aku, Yu/ 1937.2.7-2007.08.01 (70)

投稿者 吉岡正晴 : 03:25 AM | コメント (0)

July 25, 2007

Ron Miller Dies At 74

[ ENT>OBITUARY>]

【モータウン初の白人ソングライター、ロン・ミラー死去】

名作。

モータウンのスタッフ・ソングライターとして数々のヒット曲を書いてきたソングライター(主に作詞)、ロン・ミラーが去る2007年7月23日(月曜)、サンタモニカのUCLAメディカル・センターで亡くなった。74歳。ミラーは長く肺がん、肺気腫を患っていた。

ロン・ミラーは、1932年シカゴにロナルド・ノーマン・グールドとしてスーとハリー・グールド夫妻の3人兄弟の長男として生まれた。母スーが最初の父と離婚し、再婚したのがジョー・ミラーという人物で、そのため、ロン・ミラーとなった。初めて自作の曲を書いたのは5歳のときで、そのときは、戦争に行っている父への思いを記した、という。

1960年代の初期、シカゴのピアノ・バーで弾き語りをしていたある日、彼が歌う曲ごとに5ドルものチップをくれる人物がいた。その人物は、ロンの歌や彼が書いた自作曲に感銘し、自分が始めた新しいレコード会社のスタッフ・ライターにならないかと誘ってきた。その人物こそ、モータウンを始めたばかりのベリー・ゴーディー・ジュニアだった。

それまで、ロン・ミラーは、音楽では食べることはできず、洗濯機のセールスマンや、さまざなアルバイトをしていた。アメリカ海軍に入隊し、海軍時代には世界各国に行ったという。そんなミラーにとって大好きな音楽を書くだけで生活ができるなどということは夢のような話だったので、すぐにミラーは一家でシカゴからデトロイトに引っ越した。ミラーは、そのときモータウンにやってきた初の白人のソングライターだった。彼の作品は、スティーヴィー・ワンダー、ダイアナ・ロスなどモータウンのアーティストにレコーディングされヒットするが、そうした作品が他のアーティストによっても多数カヴァーされた。

有名な作品にはスティーヴィーの「フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ」、「ア・プレイス・イン・ザ・サン(太陽のあたる場所)」「イエスタ・ミー・イエスター・ユー・イエスターデイ」「ヘヴン・ヘルプ・アス・オール」、また、ダイアナ・ロスの「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」(マイケル・マッサーと共作)、シャーリーンの「アイヴ・ネヴァー・ビーン・トゥ・ミー(愛はかげろうのように)」、カール・アンダーソンなど多くのヴァージョンが録音されている「イフ・アイ・クド」などがある。

「フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ」は、スティーヴィー・ワンダーとトニー・ベネットのデュエットで、2006年度グラミー賞「ベスト・ポップ・コラボレーション」、「ベスト・インストゥルメンタル・ヴォーカル付き」を受賞した。

1970年代には、多くのミュージカル作品『ダディー・ゴッドネス』『チーリー』などをてがけた。

メジャーの野球チーム、シカゴ・カブスの熱狂的なファン。

メモリアル・サーヴィスは8月4日に行われる。

ところで、彼の娘のリサ・ドーン・ミラーはシンガーとして活動しており、デビュー・アルバム『フライ・アウェイ』がこの6月にリリースされた。このアルバムには父ロン・ミラーの作品などが収録されている。

■リサ・ドーン・ミラーのサイト(英語)

http://www.lisadawnmiller.com/

■関連記事

ロン・ミラーの傑作曲のひとつ「イフ・アイ・クド」をめぐるひじょうにいいストーリー

カール・アンダーソン『人生で一番高い買い物』
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/story/anderson199501.html

2004/02/27 (Sat)
Carl Anderson Dies At 58: The Most Memorable Interview I've Ever Done
http://www.soulsearchin.com/entertainment/obituary/diary20040227.html

2002/10/08 (Tue)
If I Could
「イフ・アイ・クド」についての日記

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200210/diary20021008.html

■関連CD

◎スティーヴィー・ワンダー 『フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ』

フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ\
スティーヴィー・ワンダー
ユニバーサルインターナショナル (2005/04/29)
売り上げランキング: 103641

◎シャーリーン 『愛はかげろうのように』

愛はかげろうのように
シャーリーン
ユニバーサルインターナショナル (1992/12/02)
売り上げランキング: 23146

◎レイ・チャールズ 『ジーニアス・ラヴズ・カンパニー』 (グラディス・ナイトとのデュエット「ヘヴン・ヘルプ・アス・オール」を収録)

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ジーニアス・ラヴ ~永遠の愛\
レイ・チャールズ ノラ・ジョーンズ ジェームス・テイラー ダイアナ・クラール エルトン・ジョン ナタリー・コール ボニー・レイット
ビクターエンタテインメント (2004/08/25)
売り上げランキング: 37460

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ENT>OBITUARY>Miller, Ron / July 23, 2007 (74)

投稿者 吉岡正晴 : 12:01 AM | コメント (0)

July 08, 2007

Bill Pinkney, Original Drifters Dies At 81

[ ENT>OBITUARY>]

【オリジナル・ドリフターズ、ビル・ピンクニー死去】

オリジナル。

1950年代後半から1960年代初期にかけていくつものR&Bヒットを放ったR&Bヴォーカル・グループ、ドリフターズのオリジナル・メンバーのひとり、ビル・ピンクニーが2007年7月4日、フロリダ州のホテル「ヒルトン・デイトナ・ビーチ・オーシャンフロント・リゾート」で死去した。81歳だった。ピンクニーはこの夜、ここでライヴを行う予定だった。死因は発表されていないが、事件性はない模様。独立記念日のライヴは彼なしで行われ、ライヴ終了後にピンクニーの死が発表された。彼の死により、ドリフターズのオリジナル・メンバーは全員死去したことになる。

ビルは、1925年8月15日サウス・キャロライナ州ダルゼルという街に生まれた。ゴスペルを歌っていたが、幼少の頃の夢は野球選手になることで、ニグロ・リーグの「ニューヨーク・ブルー・ソックス」のピッチャーでもあった。その後第二次世界大戦に従軍、除隊後、再びゴスペルを歌いだした。

1953年、クライド・マックファーターに誘われ、彼の新しいヴォーカル・グループ、ドリフターズの創世期に参加。当初はベース・バリトンを担当していたが、まもなくベース専任になる。1954年に録音された「ホワイト・クリスマス」は、後の1990年、映画『ホーム・アローン』で使われた。

しかし、1958年金銭面でグループ・マネージャーと衝突、ドリフターズを脱退。この時点までに、グループの創設者クライド・マクファーターは、グループの名前の権利をマネージャーに売却。クライドはその後、ソロ・シンガーに転じた。マネージャーは新たにメンバーを募り、オリジナルとはまったく別個の新生ドリフターズを結成。ここにベンEキングらがいた。ドリフターズはその後「アンダー・ザ・ボードウォーク」、「セイヴ・ザ・ラスト・ダンス・フォー・ミー」などの大ヒットを放つ。このとき、ほぼオリジナル・メンバーが脱退したため、ビルは彼らを誘い、新たに「オリジナル・ドリフターズ」を結成。本家と争いながらも、精力的にライヴ活動を続け、人気を集めた。

ビルのドリフターズはある意味で、オリジナルとして認知され、「リズム&ブルーズ基金」、「ロックンロール・ホール・オブ・フェーム」など多くの賞を獲得した。

□関連記事

ドリフターズ・ライヴ

February 24, 2007
Drifters Live: Nice Oldies Show, Impressed By Bass Vocal
http://blog.soulsearchin.com/archives/001606.html

ENT>OBITUARY> Pinkney, Bill(August 25, 1925 - July 4th, 2007, 81 years old)

投稿者 吉岡正晴 : 01:58 AM | コメント (0)

July 02, 2007

Hank Medress Dies At 68: A Member Of The Tokens

[ ENT>OBITUARY>]

【「ライオンは寝ている」のメンバー、ハンク・メドレス死去】

ライオン。

1960年代に活躍した白人ヴォーカル・グループ、トーケンズのメンバーで後にプロデューサーとなったハンク・メドレスが2007年6月18日(月曜)ニューヨーク・マンハッタンの自宅で肺がんのため死去した。68歳だった。

ハンク・メドレスは1938年11月19日ニューヨーク・ブルックリン生まれ。彼は地元ブルックリンのリンカーン・ハイスクール生だった十代の1955年、友人で同級生のニール・セダカらとともに「リンク・トーンズ」という5人組ヴォーカル・グループを結成。当時ニューヨークでは多くの若者が、街角で歌うストリート・コーナー・シンフォニーを作り、明日への成功を夢みていた。ニール・セダカはソロになるために1958年グループを脱退するが、4人でグループを継続、若干のメンバーチェンジを経て「トーケンズ」となった。

1961年トーケンズは、1952年にウィーヴァーズというグループがヒットさせた「ウイモエー」という曲を「ライオン・スリープス・トゥナイト」と改題し世に送り出し、1962年初頭から大ヒット。ただしここでハイヴォイスを聞かせるのはリード・シンガー、ジェイ・シーゲル。「ライオン・・・」は、アカペラ、ドゥー・ワップなどの愛好者からもっとも愛されている作品のひとつで、最初にヴォーカル・グループをやろうとするときに基本として練習するようなクラシックになった。

トーケンズはその後小ヒットを出すが、メドレスらは若手育成に力を注ぎ、ガール・グループ、シフォンズをてがけ、彼女たちの「ヒーズ・ソー・ファイン」(1963年2月からヒット、全米ナンバーワン)、「ワン・ファイン・デイ」(1963年6月からヒット、全米5位)などが大ヒットした。これを機にメドレスの興味は自分が表だって歌うのではなく、裏方でヒットを作るほうへ移っていったといわれる。

メドレスは、パートナーのデイヴ・アッペルとともに1970年代に入ってトニー・オーランドー&ザ・ドーンをプロデュース。ドーンは「キャンディダ」(1970年7月、全米3位)、「ノック・スリー・タイムス」(1970年11月からヒット、全米1位)、「タイ・ア・イエロー・リボン・ラウンド・ジ・オール・オーク・トゥリー(邦題、幸せの黄色いリボン)」(1973年2月からヒット、全米1位)などポップな大ヒットを放つ。この「幸せの黄色いリボン」は、実話を元にした歌詞で、そのストーリーに感銘を受けた山田洋次監督が日本で『幸せの黄色いハンカチ』と改題し映画化、ヒットした。「キャンディダ」でバックコーラスをつけていたひとりは、「ライオン」のリード・シンガー、ジェイ・シーゲルだそうだ。

1980年代には、ニューヨーク・ドールズのシンガー、デイヴィッド・ヨハンセンをプロデュースしたりしていた。

1990年から1992年までカナダのEMI音楽出版の社長に就任、ニューヨークに戻ってからはライヴハウス「ボトム・ライン」が始めた「ボトム・ライン・レコード」をてがけていた。

メドレスは、4人の子供、2人の孫によって送られた。

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ニュース。

このハンク・メドレス死去のニュースは昨日日曜(1日)の山下達郎さんの『サンデイ・ソング・ブック』を聞いていて知った。あわてて調べると、もう2週間前に亡くなっているではないか。気が付かなかった。そこで、さっそく調べて訃報記事を書いたのが上記のもの。

で、いろいろ調べていたら、けっこうおもしろいことがわかった。メドレスについては、僕は最初はドーンのプロデューサーとして知った。1970年頃だ。いわゆる「バブルガム・ポップ」のプロデューサーという認識だった。その後、トーケンズのメンバーだったことを知る。だが、それ以降はすっかり意識もしていなかった。

今回調べて、トーケンズの前身にニール・セダカがいたとか、ドーンの「キャンディダ」のバックにトーケンズのリードシンガー、ジェイがはいっていたとか、また、例の「幸せの黄色いリボン」の誕生秘話の詳しいヴァージョンなどを知った。「黄色いリボン」は、コラムニスト、ピート・ハミルのコラム原稿から始まったのかと思っていたが、どうもそれ以前にストーリーがあったらしい。

そのあたりについては明日、書いてみたい。

ENT>OBITUARY>Medress, Hank (November 19, 1938 - June 18, 2007, 68 years old)

投稿者 吉岡正晴 : 03:52 AM | コメント (0)

June 20, 2007

Tony Thompson Dies At 31

[ ENT>OBITUARY>]

【ハイ・ファイヴのトニー・トンプソン死去】

若死。

1990年代に多くのヒットを放ったティーン・グループ、ハイ・ファイヴのリード・シンガーで、その後ソロ・シンガーとしても活躍したトニー・トンプソンがテキサス州ワコで去る2007年6月1日、死去した。31歳だった。ドラッグのオーヴァードーズ(過剰摂取)という説があるが、検死結果で変わる可能性もある。

トニー・トンプソンは1975年9月2日生まれ。1990年、ティーン・グループ、ハイ・ファイヴのメンバーの一員としてジャイヴ・レコードと契約。同年にリリースされたデビュー・アルバムは、プラチナム・アルバムになる大ヒットへ。「アイ・ライク・ザ・ウェイ」「アイ・キャント・ウェイト・アナザー・ミニット」「ジャスト・アナザー・ガールフレンド」などがヒット。

1995年、ソロへ独立。『セクセーショナル』をリリース。2006年、新メンバーでハイ・ファイヴを再結成していた。

葬儀は2007年6月9日(土曜)に地元の教会とシアターで行われた。

ハイ・ファイヴのメンバーの中では、1992年、ロデリック・クラークが交通事故で半身不随の重症をおっている。また、ラッセル・ニールもグループを脱退していた。

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ハイ・ファイヴは、いわゆるキッズ・グループとして1990年代に人気になったグループだった。しかも、そのリードシンガーのトニーがわずか31歳で亡くなるというのは、思いもよらなかった。

トニー・トンプソンと言うと、もうひとり、シックのドラマーに同名のトニー・トンプソンがいるが、彼もすでに亡くなっている。

ENT>OBITUARY>Thompson, Tony (September 2, 1975 - June 1, 2007, 31 years old)

投稿者 吉岡正晴 : 12:32 AM | コメント (0)

April 28, 2007

"King Of Soul" Of Japan Follows "King Of Soul" Of USA

[ ENT>OBITUARY>]

【日米の「キング・オブ・ソウル」】

認知。

勝本さんが、「キング・オブ・ソウル」という踊りメインのグループを、盟友ニック岡井さんとマイケル鶴岡さんとともに結成したのは1990年のこと。最初は、ちょっとしたイヴェントなどで、ジェームス・ブラウンのステップや音楽をやろうということから始まったらしいが、だんだんと本格的になり、イヴェントやアーティストのライヴの前座などをやるうちに、メジャーのレコード会社と契約。CDを出すまでにいたった。

そして、あちこちのイヴェントなどで踊っている姿をビデオなどに収録するようになり、「キング・オブ・ソウル」というグループは、日本のクラブ、ソウル・シーンでちょっとした話題になっていく。ライヴ自体も60分から90分くらいまでできるようになり、ツアーも可能になった。

そんなキング・オブ・ソウルのライヴ映像を、勝本さんは、ジェームス・ブラウンに見せようと決意する。そして、それが実現化するのが1995年4月のことだ。ミスター・ブラウンがこの時は横浜文化体育館でショーを行った。この時は、ぼくもけっこうべったりついていて、文体でのリハーサルの模様もみることができた。そして、ライヴ後、彼の滞在していたホテルに一緒に行くことになった。

ミスター・ブラウンはホテルのスイートルームに滞在していて、我々を招き入れてくれた。そこで、しばし、談笑しつつ、勝本さんが持ってきたビデオを部屋で見ることになったのだ。

ソファに座ってキング・オブ・ソウルのライヴを見るミスター・ブラウン。そして、その様子をこわごわ、そして、照れくさそうに見つめるドン勝本。さすがの勝本さんも、いったいどんな反応を見せるのか、緊張していたようだ。

しかし、心配はいらなかった。勝本さんがジェームス・ブラウンのような横につつつっ~~と動くステップをすると、ミスター・ブラウンは大いにはしゃぎ、手を叩き、笑い声をあげた。大喜びしたのだ。そして、勝本氏の一挙手一投足にいちいち喝采を浴びせた。

そして、二人でテレビの前で、同じステップを一緒にやってみせたのだ。完全に勝本さんが、ミスター・ブラウンに認められた瞬間だった。

(ただ、記憶がちょっとあいまいなのだが、これより前に勝本さんはビデオをアメリカのミスター・ブラウンに送っていて、一足先に一度見ていた可能性もある。だが、いずれにせよ、勝本氏がそこにいて、ミスター・ブラウンの前でビデオを一緒に見て、大いに盛り上がったのは、このときのことだ)

後に、ジェームス・ブラウンは、自らのショーの中で、その時に勝本さんが来ていれば、1曲彼に躍らせるようになる。そして、ミスター・ブラウン自らが「キング・オブ・ソウル、ドン勝本~~」と紹介するのだ。

初めて彼がステージに上がったのが、いつだったのか、記憶が定かではない。2002年10月の来日時には上っていた。それより前はどうだったか。いずれにせよ、その後、2006年3月のミスター・ブラウン最後のライヴでも彼は東京2回、ステージに上った。

ドン勝本がステージでジェームス・ブラウン・ステップを踊ると、ブラウンは「どうだ、すごいだろ、こいつは」といったような嬉しそうな表情で勝本さんをオーディエンスに紹介する。

2006年3月のジェームス・ブラウンのステージは、ミスター・ブラウンと勝本さんが共に上った最後のステージになってしまった。ほぼ1年後に二人ともいなくなるなどとは、夢にも思わなかった。アメリカのキング・オブ・ソウルと日本のキング・オブ・ソウル。二人とも現世でのお仕事、おつかれさま。それにしても、ミスター・ブラウンより16年も後に生まれた勝本さんが、ブラウン旅立ち後わずか4ヵ月で後を追うとは・・・。

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)
ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25(73)

投稿者 吉岡正晴 : 04:32 AM | コメント (0)

April 27, 2007

AI Sung For Don Katsumoto: Katsumoto & Brown Became Soul Brother Forever

[ ENT>OBITUARY>]

【ドン勝本、ミスター・ブラウンと永遠のブラザーに】

別れ。

4月26日午前11時、さわやかな春の日差しが、徐々に強くなってきた快晴の大田区臨海斎場。ドン勝本氏の告別式には、前日の通夜同様多くの人が訪れた。

最初に江守さんが弔辞を述べた。彼はあまりに早すぎる死を残念がり、こうも語った。「3年前、僕は、後追いでカツと同じ病気になった。そこでカツからいろいろ聞いて適切な処置をしたおかげで今日、こうして生きていられる。今、僕がこうして生きていられるのは、カツがいてくれたからだ。本当にありがとう。そして、本当にさようなら」 参列者からのすすり泣きが絶え間なく続く。

棺には、赤のスーツを着た勝本さん。帽子。昨年発売された『オール・アバウト・ソウル・ディスコ・ダンス』の本、そして、ジェームス・ブラウンの1971年のアポロ劇場でのライヴを収録したアルバム『レヴォリューション・オブ・ザ・マインド』のヴァイナル盤もいれられていた。そして、参列者が次々と花を中にいれていく。

その花をいれ終わったところで、勝本さんが発掘し、メジャーからデビューしたシンガー、AI(アイ)が、お別れの歌を歌った。僕もAIとは、デビュー前から勝本さんを通じて何度も会っていたから、まさにファミリーだ。勝本さんがいたから日本でシンガーとして歩み始めることができたのだから、ある意味大恩人である。そんなAIだから、歌う前からもう顔がくしゃくしゃになっている。先週の病院でも何度も会っていた。夜中、いや朝方まで、彼女やそのスタッフもつめていた。

前日、AIの事務所社長から明日AIが歌うんだけど、何がいいと思う、と聞かれ、軽く「アメイジング・グレイスとか、いいんじゃない」と言ったら、果たして、AIはその「アメイジング・グレイス」を棺のまん前でアカペラで歌い始めた。AIは、途中泣くのをこらえて必死だ。それでも、途中から転調し、声を張り上げ、見事に「アメイジング・グレイス」を歌いきった。

こういうとき、拍手ってどうなんだろう。やはり、拍手するところではなかったようで、拍手は巻き起こらなかった。日本の葬儀だからかな。ジェームス・ブラウンの葬儀でのライヴは、まるでコンサートのように、拍手や掛け声が起こっていたのだが。お国が違えば、風習も違う。僕は、心の中で精一杯の拍手喝采をAIに送った。「よく歌った! よくやった!」 

そして、ふたが閉められ、出棺し、火葬場へと移動。最後のお別れをして、棺は火葬台の中にはいっていった。1時間弱が過ぎて、遺骨を骨壷にいれた。

再会。

思えば、14日(土)に連絡があり、15日(日)の『ソウル・ブレンズ』の前にお見舞いに行った時にはまだ話ができた。その時点で医者から「あと一ヶ月以内」と言われていたので、勝本さんの誕生日の5月20日まではどうだろう、なんとかもたないかなあ、と心の中で祈った。しかし、水曜には個室に移り、水曜深夜にお見舞いにかけつけても、話はできなかった。木曜午後人工呼吸器がつけられたと言われ、かけつけると、息苦しそうだった。だが、脈は安定していたので、そんなにすぐに何かあるとは思えなかった。しかし、医者は「いつ何が起こってもおかしくありません」と言っていた。みんなが集まっていた待合室に行ってしばらくすると、DJアトムが「今、息を引き取られたそうです」と言った。すぐに病室に戻ったが、すでに看護婦さんが呼吸器をはずし始めていた。

ここ2週間くらいのことが、一気にフラッシュバックした。それだけでなく、過去30年以上の勝本さんとのさまざまなことが思い出された。

葬儀場を出た頃にはすでに2時半をまわっていた。車に戻ると、太陽の光に熱せられた車の中は灼熱地獄さながらの暑さだった。扉を全開にして、しばらく放置し、やっと車に乗った。春の暖かさは、初夏の香りを漂わせていた。

勝本さん、天国でミスター・ブラウンに言ってください。「また、あなたの後を追って、すぐにきてしまいました(笑)」 きっとブラウンは言うだろう。「おお、そうか、ちょっとはやすぎないか。でも、まあいいだろう。はははは。で、俺たちの付き合いは何年だ? 30年以上だよな。おまえ、初めて会ったときは、大きなアフロヘアだったな。ははは」 

勝本さんとミスター・ブラウンは再会し、永遠の親友、ブラザーになった。

■お知らせ

来る2007年5月20日(日)(ドン勝本の誕生日)、白金ダンステリアでドン勝本さんを偲ぶ会が行われることになりました。ふるってご参加ください。詳細については、また後日お知らせします。

http://www1.ocn.ne.jp/~danteri/main.htm
DANCETERIA
〒108-0072
東京都港区白金1-29-13 白金ビレッヂB1
TEL:ダンステリア専用) 03-3444-0097

■過去関連記事

(下記は勝本氏が「ミスター・ブラウンの後を追っている」と言って、ブラウンに大受けした時の話です)

2003/10/06 (Mon)
I Ate Chicken With James Brown (Part 1)
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200310/diary20031006.html

2003/10/07 (Tue)
I Ate Chicken With James Brown (Part 2)
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200310/diary20031007.html

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)
ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25(73)

投稿者 吉岡正晴 : 12:42 AM | コメント (0)

April 26, 2007

A Funeral Service Of Mr. Don Katsumoto

[ ENT>OBITUARY>]

【ドン勝本氏、お通夜】

献花。

2007年4月19日(木)に逝去したドン勝本さんのお通夜が、25日18時から都内の臨海斎場でしめやかに盛大に行われた。勝本さんを知る人が多数つめかけ、最後のお別れをした。

式は18時過ぎから斎場内に入れないほどの人の前で、まず黙祷を捧げてから、ジェームス・ブラウンの「トライ・ミー」(インストゥルメンタル)を聞いて始まった。無宗教とのことで、祭壇には多くの花が飾られ、その中央に在りし日の勝本さんの写真が飾られた。斎場中央に棺が置かれ、勝本さんはその中に自らのグループ「キング・オブ・ソウル」の一員として着ていた赤のスーツをまとい横たわっていた。その前に献花台が置かれ、まず一本だけ花が置かれていた。

そして、「キング・オブ・ソウル」のメンバー、ニック岡井さんとマイケル鶴岡さんがそれぞれマイクに向かった。先にマイクを握ったニックの言葉は「長い間、ソウル、ディスコの業界でお疲れ様。ジェームス・ブラウンとゆっくりしてください」といった内容の短い言葉だったが、ほとんど震えていた。マイケルも、「長い間、お疲れ様。今日は、勝本さん、おなじみの赤いスーツで3人揃ってますよ。キング・オブ・ソウル、ドン勝本、最後のステージ、みんなにお別れしてください」と振り絞って言葉を送った。

棺を中央に、向かって左にマイケル、ニック、江守さん、矢作さんら。そして、向かって右に息子さん、お兄様、お母様ら親族。この後、弔問客が次々と献花をした。

後追い。

奇しくも、僕が座った席が献花の一番最初の席ということで、最初の献花をさせていただくことになった。ゆっくり献花したかったが、さすがにそれはかなわず、両サイドに挨拶をし、出口に進んだ。ひじょうにシンプルな式だった。出口に出ると、まだ受付を済ませていない人たちが大変な数いらした。さすがにソウル界のドンだ。その人たちの熱気で、暑かった。なんでも、お通夜には400人以上の人が集まったらしい。

献花後、二階の部屋に移ると、そこもものすごい人になっていた。その部屋の一番奥に、昔の勝本さんの写真がたくさん飾られていた。その前に、色紙があり、すでに何人かの人がメッセージを寄せていた。江守さんから、「明日、棺にいれるから、なにか書いてよ」と言われ、何か書こうと思って、他の人のメッセージを読んだ。みな、勝本さんへのお礼が書かれていた。

そんな中、僕の目をぱっと引いたのが江守さんの一言だった。もちろん、いつもの江守さんのおなじみのファンキーなイラストの横にシンプルにこう書かれていたのだ。「カツ、bye bye」。江守さんは、いつも彼のことを「カツ」と呼んでいた。江守さんらしい、いい言葉だ。胸が熱くなった。僕もなんて書こうか、ずいぶんと迷ったが、結局こう書いた。「勝本さん、ミスター・ブラウンとファンキー・ダンス!」 

ミスター・ブラウンの逝去から4ヶ月もしないうちの旅立ち。あるゆる点で、いつもミスター・ブラウンの後を追っていた勝本さんらしい後追いだ。

■今日、大田区・臨海斎場で午前11時から告別式。

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)
ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25(73)

投稿者 吉岡正晴 : 12:05 AM | コメント (0)

April 24, 2007

Memories Of Mr. Brown And Mr. Katsumoto: Visiting Brown's House (Part 2) 

[ ENT>OBITUARY>]

【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出~パート2】

(勝本氏と僕は、ミスター・ブラウンの奥さんの葬儀に出席するためにオーガスタに旅立った。そこでわれわれを迎えてくれたのはダニー・レイ、そして、ミスター・ブラウンだった)(2007年4月22日付日記の続き)

豪邸。

門は特別閉まっていたわけでもなく、すんなり、中に入った。するとすぐに道の横に立て看板が見えた。よく道路などにある標識だ。そこには、こう書かれていた。James Brown Boulevard(ジェームス・ブラウン大通り)。 それを見た瞬間は度肝を抜かれたが、後になってオーガスタにジェームス・ブラウン・ブルヴァードができたと聞いて納得した。

ゆるやかなカーヴになり若干坂を下がる感じで車が進むと右手に小さな池が見えた。そしてさらに進むと大きな母屋(おもや)があり、その左側に車庫が見えた。そこには、たくさんの高級車が止まっていた。正確には覚えていないが、ロールス・ロイス、何台かのメルセデス、ジャグワーもあったような気がする。楽に10台以上あっただろう。

僕はダニー・レイに尋ねた。「あれ、今日はパーティーでもやってるの?」 勝本さんや僕が呼ばれたのは、パーティーでもやってて、それで呼ばれたのかと思ったのだ。ダニーは答えた。「ノー、ノー、あれはみんなミスター・ブラウンの車だ」 「ひえ~~、まじで」 ダニーが続けた。「ミスター・ブラウンはとても気前がいいんだ。たくさん車を持っているので、スタッフなどにも時々、車をあげてしまうんだよ」

ダニーは勝手知ってる家と言う感じで、母屋の前に車を止めると、われわれを家のほうに案内した。玄関のようなところでしばらく待っていると、お手伝いさんのような人がでてきて、居間に通された。

そこにはミスター・ブラウンが大きな椅子に座ってヘアメイクの人に、髪の毛をいろいろやってもらっていた。「おお、ようこそ、座ってくれ。何を飲む? 何でも言ってくれ」と聞かれた。勝本さんと目を合わせ、何にしようか迷っているとミスター・ブラウンに言われた。「コーヒー、オア、コーク?(コーヒーかコーラか?)」 なんで、コーヒーかコーラなんだろう、と思いつつも、コーラと答えた。ひょっとすると、「氷もいるか」と聞かれたかもしれないが、記憶は定かではない。

しばらくして、お手伝いさんがコーラを二人分持ってきた。乾杯したか、ありがとうと言ったのか、いずれにせよ、僕も勝本さんもそのコーラに口をつけた。僕はかなり興奮していて、どんな話をしたかよく覚えていない。たぶん、時候の挨拶でもして、昨日の葬儀はお疲れ様といったような話を少ししたのだと思う。ミスター・ブラウンは、奥さんの死について、医学的な説明を少ししてくれたような記憶があるが、さすがに医学用語の単語はわからなかった。

それからちょっとビジネスっぽい話になった。確か、その頃、ミスター・ブラウンは娘のヤマ・ブラウンを売り出そうとしていた。ミスター・ブラウンは僕と勝本さんの両方の目を交互に見て話す。目線があっているときは、やはり緊張する。これはいつものことだ。

はっきりは覚えていないのだが、ヤマ・ブラウンは自分の娘で今売り出そうとしている、CDシングルかなにかがあって、アルバムを作る(あるいはすでにアルバムはできていたかも)、それをアメリカでは自分のレーベルから出すが、日本でリリースしてくれるところを探してくれ、といった話だったと思う。とりあえず、CDを受け取って、聞いて日本のレコード会社に聞いてみるといった感じだった。

そのとき、ミスター・ブラウンは、勝本さんに向かって「君のためなら、なんでもするから、何でも言ってくれ」と言った。これは、ヤマのリリースのためなら何でも協力する、という意味と、文字通り、勝本さんが必要なことがあればなんでも力になる、ということを意味していた。「俺たちは知り合って何年だ? 20年以上だな。初めて日本に行った時にとった写真を飾ってるんだ」 以後、この話は彼が日本に来て会った時など幾度となく繰り返された。(笑) まさに話題のループ状態だ。そして、ミスター・ブラウンは「お前は俺の日本の息子のようなものだ」とも言う。

ミスター・ブラウンは、ファミリー、親しい者、仲間をひじょうに大切にする。仲間のために最大級の気遣いと施しをする。もっともヤマ・ブラウンのレコードに関しては、日本に帰って聞いたところ、日本のレコード会社でのリリースはむずかしく、立ち消えになった。その後、ヤマはドクター(医師)になったのは、ファンの方ならご存知かもしれない。

僕はミスター・ブラウンに行きがけに見た敷地内の池について尋ねた。「ミスター・ブラウン、あなたは釣りがお好きなのですか」 「いやあ、釣りをする暇はほとんどないんだ。今は、池にどんどん鱒(マス=だったと思う)を放ってるところだな」 釣るんじゃなくて、池にどんどん放し飼いにするんだ、と思って、またまた度肝を抜かれた。

ブラウン邸には小一時間いたのだろうか。外までミスター・ブラウンは見送ってくれた。そして再び、ダニー・レイの車に乗って僕たちはホテルに戻った。そのとき、僕はブラウン邸の全貌を見たわけではないが、ダニー・レイがその敷地がものすごく広く、かなり大きな豪邸だと教えてくれた。

ブラウンが昨年(2006年)亡くなり、その遺体が敷地内に埋葬されるかもしれない、というニュースを見たとき、なるほど、あれだけ広い敷地だったら、どこにでもお墓は作れると思ったものだ。

(この項続く)

なお、訃報のお知らせです。

++++

              訃 報


ドン勝本こと勝本謙次(57才)は病気治療中のところ薬石の効もなく、平成19年4月 19日永眠致しました。
謹んでお知らせいたします。
生前、音楽プロデューサー、全国ディスコ協会、グループKING OF SOULなど幅広い精力的な活動は多くの皆様より熱いご支持を賜りました。また、あのジェームス・ブラウンが「心のブラザー」と慕う唯一の日本人としても有名でした。
なお、通夜及び告別式は下記の通り執り行なわれます。

                         ドン勝本・葬儀委員会

               記

日時  通 夜 2007年4月25日(水曜) 午後6時~7時
    告別式 2007年4月26日(木曜) 午前11時~12時

場所  臨海斎場
     〒143-0001 大田区東海1-3-1(駐車場完備)
    TEL 03-5755-2833
http://www.rinkaisaijo.or.jp/


喪主  勝本有輝(長男)
     港区白金1-29-13 BF ダンステリア 03-3444-0097


献花受付:TEL 03-3751-0166 FAX 03-3752-8244

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ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)
ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25(73)

投稿者 吉岡正晴 : 01:38 AM | コメント (0)

April 22, 2007

Memories Of Mr. Brown And Mr. Katsumoto: Visiting Brown's House (Part 1)

[ ENT>OBITUARY>]

【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出~パート1】

自宅訪問。

勝本さんとは、ジェームス・ブラウンが来ると必ずブラウンを追っかけて、あちこちに行った。だが、「勝本・ブラウン話」で僕にとって一番思い出深いのは、日本ではない。1996年1月、ジェームス・ブラウンの当時の奥さんだったエイドリアンさんが亡くなった時に、勝本さんと二人で葬儀に出席するためにはるばるオーガスタまで行った時のことだ。ミスター・ブラウン死去の時に書こうと思っていたが、この機会に記憶を整理して書いてみることにする。

奥さんが亡くなってすぐに勝本さんが「吉岡くん、一緒に行こう」と言って、有無を言わさずあっという間に航空券やホテルなどを手配した。たぶん、死去を知って翌日か2日後くらいにオーガスタ行きを決めていた、と思う。あの時、葬儀の日程などどうやって調べたんだろう。僕がダニー・レイかなんかに国際電話でもしたのかな。よく覚えていない。

成田→ロスアンジェルス→アトランタ→オーガスタ。けっこう時間がかかる。オーガスタと言えば、ゴルフのマスターズが有名だが、東京からは遠いのだ。

アトランタからオーガスタは、20人も乗れないようなすごく小さな飛行機だったと記憶する。オーガスタの飛行場はとても小さく、着陸した地点からメインビルまで普通に歩いた。LAには朝に着いたが、オーガスタに着いたのは時差がLAとは3時間あるが、夜遅くなっていた。

そこからシェラトン・ホテルにチェックインするが、ここはミスター・ブラウンのオフィースのすぐ隣で、ブラウン関係者もよく打ちあわせなどで訪れる。そして、メインのレストランの一角には、ジェームス・ブラウン専用の席があった。いつも彼はここに来ると、必ずここに座るという。他の人は座れないらしい。で、メニューにはジェームス・ブラウンの大好物のサラダ(たぶん、シーザー・サラダみたいなものだったと思う)があった。メニューに「ジェームス・ブラウン・サラダ」と書いてあったかどうかは、ちょっとはっきりしない。メニューには「シーザー・サラダ」と書いてあり、通称が「ジェームス・ブラウン・サラダ」だったか、はっきりしない。その日は、ぐったり疲れたので、即就寝した。

葬儀は到着した翌日に、市の公会堂のようなところで行われたが、ずっとダニー・レイが僕たちふたりの面倒を見てくれた。葬儀会場に行くのも、ダニーがホテルまで迎えに来てくれ、つれていってくれた。この会場には一般の人も入れた。ゴスペルのシンガーたちが何曲も歌ったり、スピーチがされたりしていた。ミスター・ブラウンはずっと棺のそばに立っていた。僕たちも順に従って献花した。この会場で、ハリー・ワインガー(ジェームス・ブラウンのボックスセットを作ったポリグラム・レコードのディレクター)とばったり会い、このためにわざわざ日本から来たというと彼はあきれたように驚いていた。

約1時間半だろうか、その儀式が終わると遺体の入ったカスケット(棺)が外の車に乗せられ、墓地に向かった。その車列は何十台も連なっていた。その連なり方が映画のようで壮観だった。墓地につくと、また儀式があって、お祈りや歌があった。そして、牧師の声とともにその棺が地中に下ろされた。アメリカでは荼毘(だび)にふすということをしないらしい。このあたりで、ボビー・バードや、マーヴァ・ホイットニー、マーサ・ハイ、フレッド・トーマスらJBズの面々に会った。みな、カラフルなスーツを着ていてドレスアップしている。

僕はアメリカでの葬儀というのに初めて出席したが、日本のように黒一色ではないのが自然らしい。お別れというより、神の元への旅立ち、セレブレーションだという認識のほうが強いからという説明を受けた。

その後、シェラトンに戻り、ミスター・ブラウンが関係者に食事を振舞った。70-100人くらいはいたのではないだろうか。広いレストランがブラウン関係者で埋め尽くされた。このレストランに戻ってきた頃にはブラウンもかなり元気になっていた。おそらく古い仲間と再会できたことがうれしかったのだろう。

ミスター・ブラウンは、まめにあちこちのテーブルに出向き、挨拶をしていた。そして、勝本さんのところに来て、ブラウンが「今日はごたごたしてゆっくり話せない。明日、時間はあるのか。私のうちに来なさい」というようなことを言った。勝本さんは、その前年、一度ブラウンの自宅に招かれていたので、今度が二度目になるが、僕はまったくの初めて。恐れ多かった。

そして、その翌日、勝本さんと僕がミスター・ブラウンの自宅に招かれたのだ。ホテルに迎えに来てくれたのは、もちろんダニー・レイだった。

ホテルからミスター・ブラウンのうちまでは、約20分。シェラトンから広い国道か州道を走っていく。まもなく、大きな川があり、そこの大きな橋を渡ると、ジョージア州がサウス・キャロライナ州になった。川が州境だったのだ。サウス・キャロライナはこんなに近かったんだ、と思った。

「そうか、たったこれだけの距離でも、州境を越えたカーチェースをすれば、管轄は地元警察ではなく、FBI(連邦警察)になるんだ。きっとミスター・ブラウンは、この橋でも渡ったんじゃないだろうか」などと考えてしまった。

ほとんど対向車もなく、しばらく行くと、ダニーが横道に入っていった。横道といっても、狭くない。そして、ちょっとした一角に車を進めた。ちょうど、扉のない大きな門柱のようなものの横を通って中に入ったのだ。そこからジェームス・ブラウン邸の敷地内にはいったのだ。

(この項続く)

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)
ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25

投稿者 吉岡正晴 : 04:07 AM | コメント (0)

April 20, 2007

Don Katsumoto, King Of Soul, Dies At 57

[ ENT>OBITUARY>]

【ドン勝本氏、57歳で死去~キング・オブ・ソウル、ダンステリア・オウナー、プロデューサー】

キング。

アメリカのR&Bシンガー、「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」ことジェームス・ブラウンと30年以上にわたる親交を結び、日本のソウル・ミュージックの発展に大きく寄与し、ソウル・ミュージック、ソウル・ダンスステップの情報発信地でもある白金「ダンステリア」のオウナーであり、自らダンサー、振付師、音楽プロデューサーとして活躍したドン勝本氏(本名・勝本謙次)が2007年4月19日(木曜)、午後7時08分ごろ、広尾の日赤病院で大腸がんのため死去した。57歳だった。葬儀は、4月26日(木曜)午前11時から臨海斎場(東京都大田区東海1丁目3ー1)で行われる。喪主は長男・勝本有輝氏。

勝本氏は、1949年(昭和24年)5月20日岐阜生まれ。国士舘大学在学中から新宿のディスコなどに出入りするようになり、そこでかかっているジェームス・ブラウンを始めとするR&B、ソウル・ミュージックに魅せられた。1970年頃、六本木のディスコ「大使館」に参加、さらに、これが店名を「エンバシー」と変更した72年頃から店長に。

1973年2月、初来日したジェームス・ブラウンのライヴを見た後、本人に会いに行き、意気投合。この時、勝本氏が当時日本でソウル・ミュージックが広まっていないと嘆いたところ、ジェームス・ブラウンから「俺はアメリカでがんばるから、おまえは日本で(ソウル・ミュージックの普及に)がんばれ」と言われ、感動。以来、ブラウンを師、神と仰ぎ、日本でのソウル・ミュージックの普及に尽力した。

1973年に初めて渡米。アメリカでのソウル・ミュージック、ディスコ・シーンを視察、それを受け、1974年、当時横のネットワークがまったくなかった日本の全国のディスコティックを組織化。「全国ディスコ協会」を設立、会長に就任した。ディスコ協会では全国にDJを派遣したり、全国規模の「ダンスコンテスト」などを多数行い、ディスコ・ヒット、ソウル・ミュージックの浸透に力を添えた。1978年、赤坂にディスコ「マンハッタン」をオープン。このオウナーは細木数子氏だった。同年、日本で初めてのディスコ情報誌「エクスプロージョン」を発刊、ディスコからの情報を発信した。

さらにこの頃までに何度か渡米。アメリカにおけるソウル・シーン、ディスコ・シーンを見聞し、日本でのディスコ会議を企画。1979年8月、帝国ホテルで『全国ディスコ・フォーラム(Japan Disco Forum)』を開催、アメリカから著名ディスコDJ(リッチー・リヴェラなど)を招聘し、日本におけるディスコ発展の一翼を担った。

自らダンサーとしても活躍、また、オリジナルのソウルステップなども考案、コレオグラファー(振付師)としても森高千里、つんく、モーニング娘など多くの日本人シンガーの振り付けを担当した。自らが育てた歌って踊れるグループ、リフ・ラフ(1984年デビュー)には、SAM(のちのTRF)や、現在勝本氏の右腕として現在も多方面で活躍している矢作幸裕氏も在籍していた。

1984年、白金にディスコ「ダンステリア」をオープン。現在も営業を続ける「ダンステリア」は、ソウル・ステップの総本山的存在になっており、「チャ・チャ・」「ソウルCC」などのソウル・ステップを学びたければ、まず、「ダンステリア」へ行け、というほどにまでなっている。「ダンステリア」では後身の指導にあたる一方、古くから伝わるソウルダンス、ソウルステップの歴史の生き証人として、ニック岡井氏とともに、そうしたダンスを教えている。

1990年、ドン勝本氏は、マイケル鶴岡氏、ニック岡井氏とともにダンス・ユニット「キング・オブ・ソウル」を結成。歌って、踊れるグループとしてメジャー・デビュー。そのライヴの模様を映した映像を、ジェームス・ブラウン本人の前で見せると、ブラウンも大喜びした。

1995年、それまでに何度も会っているジェームス・ブラウンをオーガスタに訪ねた時には、ブラウン自らにブラウンゆかりの地を案内され、自宅に招かれた。その後、1996年1月のブラウンの当時の妻エイドリアンの葬儀に出席、この時もジョージア州オーガスタ郊外の自宅に招かれた。

テレビ出演も「ソウル・トンネルズ」「ダンス・ダンス・ダンス」など多数。また映画『ゲロッパ』(2003年)では、ダンス指導、またキング・オブ・ソウルとしても出演している。

最近では、大人気となったシンガーAI(アイ)を発掘、メジャーデビューさせた。

2006年、それまでのソウル、ディスコ、ダンスの歴史を一冊の本にまとめ「オール・アバウト・ソウル・ディスコ・ダンス」(メディアミル、星雲社・発売)として発表している。

2006年3月、ジェームス・ブラウンが来日した際、東京でのライヴ・ステージでブラウンに呼び出され1曲踊ったのが、奇しくも、ブラウンのそして、勝本氏の最後のステージとなってしまった。ジェームス・ブラウンは、彼のことを「キング・オブ・ソウル、ドン勝本、35年来の友人」と人々に紹介する。

2006年12月31日、勝本氏はインターFM『ソウル・ブレンズ』でジェームス・ブラウン(2006年12月25日死去)の追悼特集をしたときにゲストで登場。ブラウンについて多くを語った。これも最後のラジオ出演となった。

2週間ほど前から体調が悪くなり広尾の病院に入院。火曜日(17日)個室に移り、木曜(19日)に容態が急変し、19日午後7時過ぎ、家族、多くの仲間に看取られながら息を引き取った。


ご冥福をお祈りする。

(あまりに近い仲間である勝本さんについての個人的な思い出は後日、ゆっくり書きます。しばらく時間をください=吉岡正晴)

■訃報記事(毎日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070420-00000003-mai-peo

■ドン勝本氏関連サイト。ダンステリアのウェッブ
http://www1.ocn.ne.jp/~danteri/main.htm

July 16, 2006
"All About Soul Disco Dance": Book Is Released
【ソウル・ステップ・ダンスの踊り方教則本・発売】
http://blog.soulsearchin.com/archives/001144.html

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)

投稿者 吉岡正晴 : 04:12 AM | コメント (0)

March 23, 2007

Luther Ingram Dies at 69

[ ENT>OBITUARY>]

【R&Bシンガー、ルーサー・イングラム69歳で死去】

不倫。

1970年代初期に南部を中心に活動を続けていたソウル・シンガー、ルーサー・イングラムが去る2007年3月19日、イリノイ州ベルヴィルの病院で死去した。69歳だった。ずっと糖尿病、腎臓病、それらから来る視覚障害を患っていた。最後は人工透析を拒否していたらしい。

ルーサー・イングラムは、1937年11月30日南部テネシー州ジャクソンに生まれた。1947年に北部イリノイ州アルトンという街に移住。1971年、メンフィスのスタックス・レコード傘下ココ・レコードと契約。当初はソングライターとして活躍、同レーベルのサー・マック・ライスとともに「リスペクト・ユアセルフ」を書き、これはステイプル・シンガーズの大ヒットになった。

彼は無名時代にアイク・ターナーと共演したり、ニューヨーク時代にはジミ・ヘンドリックスとルームメートだったりしたこともある。ルーサーの最大のヒットは1972年の「イフ・ラヴィン・ユー・イズ・ロング、アイ・ドント・ウォント・トゥ・ビー・ライト」という不倫ソング。「君を愛すことが間違っているなら、僕は正義なんかいらない」というもの。その後、ミリー・ジャクソン、またロッド・スチュワートらがカヴァーしヒットさせた。

1972年にその「イフ・ラヴィング・ユー・・・」を録音、ヒットさせ、一躍表舞台にでた。これ以降、「エイント・ザット・ラヴィング・ユー」、「アイル・ビー・ユア・シェルター」、「ユー・ネヴァー・ミス・ユー・ウォーター」などのヒットが生まれた。

「彼はソフトスポークンで、静かな人物だった。しかし、ひとたび歌となると完璧を求めて徹底的にやっていた」とスタックスで働いていた人物が振り返る。

ルーサー・イングラムは1972年8月ロスアンジェルスのワッツ地区で行われた大イヴェント『ワッツタックス』にも出演している。

彼は1980年頃までは、「ルーサーと言えば、このルーサー・イングラム」だったが、以後、ルーサー・ヴァンドロスが有名になり、影が薄くなってしまった。また彼の作品はスタックス傘下ココ・レコードから出ていたが、同レーベルの発売権が日本にはなく、輸入盤でしか入手できなかったために日本における知名度は残念ながら低かった。

実にいいシンガーだったけに、残念。ご冥福をお祈りする。

ENT>OBITUARY>Ingram, Luther, Nov 30, 1937 - March 19, 2007 (69)

投稿者 吉岡正晴 : 12:25 AM | コメント (0)

February 04, 2007

Funk Brother Joe Hunter Dies Quietly At 79

[ ENT>OBITUARY>]

【ファンク・ブラザー、ジョー・ハンター死去】

重鎮。

またひとり、モータウンの歴史の灯火が消えた。

1960年代のモータウン・サウンドを支えたファンク・ブラザースのひとり、キーボード奏者のジョー・ハンターが死去した。2007年2月2日までに自宅のアパートで亡くなっているのを同僚のジャック・アシュフォードらが確認した。79歳だった。日曜日(1月28日)にヨーロッパツアーから帰国していたところだった。死因は判明していないが、糖尿病を患っていた。

ジョー・ハンターは、1927年テネシー州ジャクソンの生まれ。1939年デトロイトに移住し、以来同地を本拠にピアニストとして活動していた。1959年から1964年までモータウンのイン・ハウス・バンド、ファンク・ブラザースのバンド・ディレクター、キーボードを担当。その後、ハンターは独立し、バンド・ディレクターの役はアール・ヴァン・ダイクになった。

ハンターが在籍した期間は短かったが、その独特のピアノスタイルは後のモータウンのミュージシャンたちに大きな影響を与えた。ハンター自身はジャズ・ピアニスト、アート・テイタム、セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943。ロシアのピアニスト)、ナット・キング・コールなどに影響を受けていた。

ハンターのピアノは、ミラクルズの「ショップ・アラウンド」、コントゥアーズの「ドゥ・ユー・ラヴ・ミー」、「ヒート・ウェイヴ」(マーサ&ザ・ヴァンデラス)、マーヴィン・ゲイの「プライド・アンド・ジョイ」などで聴かれる。

昨年(2006年)4月、ファンク・ブラザースの一員として来日。コットンクラブで一週間、ライヴ・パフォーマンスを見せた。

+++++

Thank You For You Music:

エンド。

ファンク・ブラザースにスポットをあてた音楽ドキュメンタリー映画『永遠のモータウン(Standing In The Shadows Of Motown)』では、その冒頭でジョー・ハンターが振り返る。雪の残るデトロイトに映るジョー・ハンター。ホテルのロビーで一張羅を着ながらピアノを弾いている彼。だが、そんなホテルで黙々と弾き語りをしているジョー・ハンターを、ジョー・ハンターとして知っている人はほとんどいない。ナレーションがかぶさる。「(モータウンのヒット曲という)霧が晴れると、俺たちはそこに取り残されていた。何もなかった。『ジ・エンド』さ」 

昨年のファンク・ブラザースのライヴでは、しっかりとキーボードを弾き存在感を見せていた。彼とジャック・アシュフォードの2人がいるだけで、モータウンの影が漂ってきた。

ジョーは言う。「私たちは、『働くミュージシャン(working musician)』だよ。どこでも仕事があれば、そこに行く。何千人の客の前だろうが、30人しかいないクラブだろうが」 ハンターは、R&Bだけでなく、ジャズ、ポップ、カントリー、ゴスペルとなんでもプレイした。そしてプレイできた。

ジョーの息子、ジョー・ハンター・ジュニアが言った。「映画(『永遠のモータウン』)の冒頭で父が言った『ジ・エンド』さ、という言葉は結局まちがっていたと思う。あの映画以来、父は世界中の人々から注目され、人生の最後の部分で彼の夢は実現したんだから」

ファンク・ブラザースのメンバーとして、あるいは、一ピアノの弾き語りとしてプレイしていても、彼が演奏をし終えると、その日来ていた客は、彼の横を通る時に肩を叩きながら一言声をかけていく。彼らがもらす言葉は決まっている。「Thank you for your music(あなたがプレイしてくれた音楽にありがとう)」。それは膨大なモータウン・サウンドの歴史への感謝なこともあれば、その日ひとりのピアニストとしてプレイしたスタンダード曲への感謝かもしれない。しかし、その言葉は一介のワーキング・ミュージシャンにかけられる最高の賛辞だ。そして彼はその言葉を生きがいにこれまでずっとピアノをプレイし続けてきた。決してリッチになることはなく、ただ好きなことだけをして。

ミスター・ジョー・ハンター、サンキュー・フォー・ユア・ミュージック!
 

ご冥福をお祈りする。

(本日掲載予定だったグラミー賞予想パート2の記事は明日以降に掲載します)

■デトロイトの新聞記事。

Joe Hunter: 1927-2007
Motown's first Funk Brother dies at age 79
http://www.detnews.com/apps/pbcs.dll/article?AID=2007702020459

■ファンク・ブラザース関連記事。

ファンク・ブラザースの快進撃は2002年秋、アメリカで映画が公開されたニュースから始まった。

1)  2002年12月2日付け日記。全米で映画『スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン』が公開されたというニュース。ファンク・ブラザースに関する第一報。もう4年も前のことになる。

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200212/diary20021202.html 

2) 2003年4月29日付け日記。ファンク・ブラザース・ライヴ評。そのファンク・ブラザースがニューヨークで行ったライヴのライヴ評。

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200304/diary20030429.html


3) 2003年10月24日付け日記。日本でも映画の公開が決まり、『永遠のモータウン』の字幕付き試写を見ての映画評。

"Standing In The Shadows Of Motown": Motown's Sparkle & Shadow
「モータウンの光と影」

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200310/diary20031024.html

4) 2004年3月28日付け日記。ファンク・ブラザースの音源をCD化。

The Funk Brothers' Album Released 
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200403/diary20040328.html

5) 2004年3月29日付け日記。『ソウルブレンズ』でモータウン特集。

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200403/diary20040329.html

6) 2004年5月6日付け日記。モータウン・ニュースいろいろ。 

Motown, Motown, Motown: "To Be Loved" Would Be TV Mini-Series
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200405/diary20040506.html

7) 2004/05/08 (Sat)
"Standing In The Shadows Of Motown" : Story Of Unsung Heroes
映画『永遠のモータウン』関連記事・特集

http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200405/diary20040508.html

8)ベリー・ゴーディー自伝 『モータウン、わが愛と夢』 (原題 To Be Loved)(東京FM出版より発売中)

モータウンレコード創始者、ベリー・ゴーディーの唯一の自伝。ゴーディーがいかにしてモータウンを設立し、これを世界的な大レーベルにしたか。ダイアナ・ロス、スティーヴィー、マーヴィン、スモーキーらとの知られざるエピソード満載。映画に感動したら、この本でさらに感動を増幅させてお楽しみください。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/492488068X/soulsearchiho-22/ref=nosim

9) その書籍『モータウン、わが愛と夢~ベリー・ゴーディー・トリビュート 』のサウンドトラック

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005FMTW/soulsearchiho-22/ref%3Dnosim/249-2275356-8019517

10) 2004/11/28 (Sun)
DVD "Standing In The Shadows Of Motown" On "Soul Blends": The Brothers Are Family

国内盤DVD発売。特典映像の紹介。

http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200411/diary20041128.html


11) April 11, 2006
The Funk Brothers Live: Don't Forget To Bring Lyrics Of "My Girl" ファンク・ブラザース初来日。そして、そのライヴ評。

http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_04_11.html

12) April 16, 2006
The Funk Brothers Again: Standing In The Light Of Motown
ファンク・ブラザース:モータウンの栄光に立って

http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_04_16.html


13)April 17, 2006
The Funk Brothers: Larry Johnson Story
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200604/2006_04_17.html

ENT>MUSIC>OBITUARY>Hunter, Joe: 1927- 2007

投稿者 吉岡正晴 : 03:04 AM | コメント (0)

January 21, 2007

Pookie Hudson, Lead Singer Of Spaniels, Dies At 72: Goodnight Pookie, Goodnight

[ ENT>OBITUARY>]

【ドゥーワップ・グループ、スパニエルズのリード、プーキー・ハドソン死去】 

おやすみ。

50年代に活躍したドゥーワップ・グループ、スパニエルズのリード・シンガー、プーキー・ハドソンが去る2007年1月16日、メリーランド州キャピトル・ハイツの自宅で死去した。72歳だった。死因は胸腺のガン。昨年秋に一時期回復し、ステージにも戻ったが、再度体調を崩していた。最後のレコーディングが昨年10月に行われた『アンクラウディー・クリスマス』というCDで、これは今年の秋にリリースされる予定。スパニエルズの最大のヒットは、1954年の「グッドナイト・スイートハート、グッドナイト」。この曲に関してはスパニエルズのものをカヴァーした白人のマクガイアー・シスターのものがオリジナルより大ヒットした。その後、70年代に入って映画『アメリカン・グラフィティー』でも使用された。

この「グッドナイト・スイートハート、グッドナイト」は、ハドソンが当時つきあっていた女の子とデートし、彼女の家に行ったが夜中になってしまい、その両親に早く帰れと言われ、その道すがら思いついた作品だという。「帰るのはつらいが、おやすみ、恋人よ」というメッセージだ。

スパニエルズは他に、「ベイビー・イッツ・ユー」、「ピース・オブ・マインド」、「レッツ・メイク・アップ」などのヒットを放った。

彼の唱法は後の男性ヴォーカリスト、例えばスモーキー・ロビンソン、アーロン・ネヴィルなどに大きな影響を与えた。ネヴィルは、かつてこのハドソンとクライド・マックファーター、ナット・キング・コールをもっとも影響を受けたシンガーと語ったこともある。

ハドソンは1934年6月11日、アイオワ州デモイン生まれ。本名ソーントン・ジェームス・ハドソン。インディアナ州ゲイリーで育ち、同地の教会でゴスペルなどを歌っていたが、そこのルーズヴェルト・ハイスクールで結成されたのがスパニエルズだった。

50年代にヒットを放ったものの、60年代に入るとヒットも途絶え、仕事もなくなり、一時期ホームレスになったこともあった、という。その後1980年代になるとオールディーズ・ブームも盛り上がり、仕事が増えてきた。80年代のインタヴューで、その時点でずっと新曲を書いてきているが、ファンはみな古い曲を聞きたがるという。

「グッドナイト・スイートハート、グッドナイト」は1954年に彼が書いた作品で、自らも歌っていたが、この曲の印税をもらい始めたのは、なんと1990年代に入ってからだという。1991年、リズム&ブルーズ基金から表彰され、2万ドルの賞金をもらった。スパニエルズはこの資金を元に、『40周年』というアルバムを作り、後にコレクタブルズ・レコードから再リリースされている。

おやすみ、プーキーさん。ご冥福をお祈りしたい。

ENT>OBITUARY>Hudson, Pookie: June 11, 1934 - January 16, 2007 (72)

投稿者 吉岡正晴 : 01:51 AM | コメント (0)

January 16, 2007

Michael Brecker Dies At 57

[ ENT>OBITUARY>]

【マイケル・ブレッカー57歳で死去】

サックス自由自在。

ジャズ、フュージョンのサックス奏者で、過去に11のグラミー賞を獲得したマイケル・ブレッカーが、2007年1月13日(土曜)ニューヨーク市内の病院で死去した。57歳だった。死因は骨髄性白血病。

マイケル・ブレッカーは、1949年3月29日ペンシルヴェニア州フィラデルフィア生まれ。ジョン・コルトレーン、ウェイン・ショーターなどに影響を受け、ストレートなジャズからスタートし、徐々にロック、ソウル、ポップの要素までを取り入れ、幅広いジャンルで活躍。参加したアルバムも1000枚を超えるといわれる。クラリネット、アルト・サックスなども吹くが基本的にはテナー・サックス奏者。

インディアナ大学に通った後、1970年、ニューヨークに本拠を移し、当初はロック・ジャズ・グループ、ドリームスなどに参加。ロック、ソウルの要素を自由自在に取り入れた。彼の名前を決定的にしたのは、1972年にリリースされたシンガー・ソングライター、ジェームス・テイラーの大ヒット「ドント・レット・ミー・ビー・ロンリー・トゥナイト」のサックスソロ。これ以来、ジャズ界だけでなく、ポップ、ロックの世界からも次々と声がかかるようになった。彼が録音に参加したのはポール・サイモン、スティーリー・ダン、ジョニ・ミッチェルなど多数。1975年、兄でトランペッターのランディー・ブレッカーとともにブレッカー・ブラザースを結成。フュージョン界に大きなセンセーションを巻き起こした。また80年代にはアメリカのヴァラエティー・テレビ番組『サタデイ・ナイト・ライヴ』のハウスバンドのメンバーとして活躍。1990年代から2000年代にかけて計11のグラミー賞を獲得。押しも押されぬサックス奏者となっている。

スタジオ・セッションだけでなく、多くのアーティストのライヴなどにもつきあったり、また、1987年以降、自身名義のアルバムを8枚リリース、そのたびにツアーなども積極的に行ってきていた。

たびたび来日し、日本人アーティスト、小曽根真、スマップなどのレコーディングにも参加している。

2005年6月に、白血病の一種であることを公開し、ドナーの提供者を探していたが、なかなか彼の身体にマッチするドナーが現れなかった。(なお、病名は正確には、骨髄異形成症候群[こつずいいけいせいしょうこうぐん、myelodysplastic syndromes; MDS]という。これは骨髄機能の異常によって前白血病状態となり、造血障害を起こす症候群)


なお、彼の最後のレコーディングは約2週間前に行われたもので、これはハービー・ハンコック、パット・メセニー、ジャック・デジョネ、ブラッド・メルドウらと共演したもの。6月頃、ヘッズアップ・インターナショナルからリリースされる予定だがタイトルは未定。

ご冥福をお祈りします。

ENT>OBITUARY>Brecker, Michael, March 29,1949 - January 13, 2007 (57)

投稿者 吉岡正晴 : 04:18 AM | コメント (0)

December 31, 2006

James Brown's Homecoming Celebration

[ ENT>OBITUARY>]

【ジェームス・ブラウンの凱旋祝い】

セレブレーション。

ジェームス・ブラウンの遺体は金曜日(12月29日)、ジョージア州オーガスタに戻り、近親者、音楽関係者などで簡単な葬儀をすませた。場所はサウス・キャロライナ州ノース・オーガスタにある煉瓦造りの小さな教会で、約300人の関係者が集まりアル・シャープトンの音頭で90分のセレモニーが行われた。そして、土曜日(30日)午後1時(日本時間・31日午前3時)から「ジェームス・ブラウン・アリーナ」(8100人収容)で一般弔問が始まる。

ブラウンの親友でこの一週間、ぴったりブラウンに付き添っている公民権運動活動家でもあるアル・シャープトン師は、この葬儀を「ホームカミング・セレブレーション(凱旋祝)」と位置付けた。

幼少の頃オーガスタの叔母に頼って移り住んだジェームス・ブラウンは、小遣いを稼ぐためにダウンタウンのブロードストリートの角で靴磨きを始めた。それから半世紀を経て、そのストリートは「ジェームス・ブラウン・ブルヴァード」と命名された。

さらにまた、昨年ジェームス・ブラウンの銅像が建てられた。そして、その銅像のところには、すでに多くの献花がなされ、人々が集まっている。また、葬儀が行われるアリーナも今年になって「ジェームス・ブラウン・アリーナ」と命名されていた。さらに、オーガスタ市のキャッチフレーズ(モットー)も、ブラウンの大ヒット「アイ・フィール・グッド」にちなんで「ウィ・フィール・グッド」となった。

この土曜日の葬儀の模様は、地元のテレビ局(WAGT、WRDW)で生中継される。午後12時過ぎ、アル・シャープトンがジェシー・ジャクソンを伴い会場に入った。

ジェームス・ブラウンの遺体はその後、60エーカー以上の広さの自宅内に埋葬されるという。

葬儀には、マイケル・ジャクソンも出席するのではないかと言われている。

セレモニーは、午後1時から始まり、オープニングで「ジョージア・オン・マイ・マインド」と「ジョージアライナ」が流れ、その後ビデオでブラウンが最後にオーガスタでパフォーマンスした模様が紹介された。これは今年5月に行われたもの。さらにその後、ソウル・ジェネラルのトリビュート生演奏もあった。さらに、テンプテーションズのリード・シンガー、アリ・オリ・ウッドソンが「ウォーク・アラウンド・ヘヴン」を歌った。

(この項、続く)

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『ソウル・ブレンズ』はジェームス・ブラウンで3時間

総力特集。

今日(31日)放送の『ソウル・ブレンズ』(インターFM76.1mhz)ではコーナー以外3時間、総力特集でジェームス・ブラウンにトリビュートします。ご期待ください。「ソウル・サーチン」のコーナーでは、ブラウンの親友のひとりドン勝本さんをゲストに迎えます。

ジェームス・ブラウンの海外の新聞での報道量は半端ではありません。いくら読んでも追いつきません。

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ごあいさつ

1年の最後を飾る日記が、ジェームス・ブラウンの葬儀のものになるとは、まったく夢にも思いませんでした。この1年、お世話になりました。また、来年もソウル・サーチン・ブログ、およびソウル・サーチン・ホームページもよろしお願いいたします。

みなさまよいお年を~

吉岡正晴

The Soul Searcher

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ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 - 2006.12.25 (73)

投稿者 吉岡正晴 : 03:55 AM | コメント (0)

December 30, 2006

Gimme Some More About James Brown

[ ENT>OBITUARY>]

【再びオーガスタに戻るジェームス・ブラウン】

帰郷。

1956年、23歳だった若者は、黒人の夢だったニューヨーク・ハーレムにあるアポロ・シアターのステージに初めて立った。ジェームス・ブラウン。

彼はその後、この聖地に何度も足を運び、ステージで激しく動き、シャウトし、語り、歌い黒人の夢となった。ジェームス・ブラウン。

ステージ狭しと動いた彼は、今、同じアポロのステージで棺に静かに横たわり、動かず、踊らず、語らず、歌わない。ジェームス・ブラウン。

何万人という多くのファンの弔問を受けたジェームス・ブラウンは、土曜日再び故郷オーガスタ・ジョージアに戻る。なんという忙しいスケジュールか。最後の最後まで、「ハーデスト・ワーキング・マン・イン・ショー・ビジネス(ショービジネス界でもっとも働く男)」だ。

アル・シャープトン師は木曜日(28日)棺の傍らで語った。「この人物は、常に何かに対して立ち上がっていた。この人物は、我々一般人のために立ち上がっていた。彼が作り出したビートは、ヒップ・ホップ、ファンク、ディスコ、ラップなどあらゆる音楽に影響を与えた。彼が発明したリズムをみな真似した。そして、彼が『セイ・イット・ラウド、アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド(黒人であることを声高に言え、黒人でそれを誇りに思っている、と』と歌った時、たった一曲のその歌のおかげで、我々のヴォキャブラリー(語彙)の中から『ニグロ』という言葉が消滅したのだ」

そして、いつもジェームス・ブラウンにどこまで列が連なっているかを報告していたシャープトンは、アポロがある125丁目を棺とともに行進しているとき、ブラウンに語りかけた。「ミスター・ブラウン、列ははるかかなたの130丁目まで伸びていますよ」

JBズでの長年のベース奏者、フレッド・トーマスは、棺を持つ役のひとりとなったが、彼は「他に何があっても、(キャンセルして)その仕事は引き受けたよ」と語った。

ニューヨークでの一般弔問の後、ゴッドファーザーは再びオーガスタに戻り、土曜日に同地の教会でプライヴェートなセレモニーを行い、さらに、オーガスタの「ジェームス・ブラウン・アリーナ」で地元の人たちの一般弔問を受けることになっている、という。

黒人の星であり、希望であり、夢であった男。ジェームス・ブラウン。

ソウル・ミュージックのゴッドファーザーだった男。ジェームス・ブラウン。

ファンキー・プレジデント(大統領)だった男。ジェームス・ブラウン。

ステージに立った1956年からちょうど半世紀。その日から50年の月日を数えた2006年。ジェームス・ブラウンはアポロに戻った。ブラウンがアポロの歴史を作り、アポロがブラウンの歴史を作った。そして、その歴史的劇場の舞台に横たわった。ブルーのスーツ、白い手袋、そして銀色の靴を履いて。

ハーレムのアポロ・シアターからは姿を消すが、これからは天国のアポロ・シアターに連日、出演だ。そして、そこでも付き人に尋ねることだろう。「行列はどこまで並んでいる?」と。

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■ジェームス・ブラウン過去記事(第2弾)

2002/12/15 (Sun)
Enseigned'angle Where the soul coffee is
自由が丘のおしゃれな珈琲屋アンセーニュダングルのマスターのジェームス・ブラウンとの出会い。こんな風に影響を受けた人が世界中にいるはずです。
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200212/diary20021215.html

2003/01/23 (Thu)
What will happen to false James Brown
映画『ゲロッパ』について
http://www.soulsearchin.com//entertainment/movie/review/diary20030123.html

『人生でもっとも驚いた瞬間』【2003年2月12日】
ブラン・ニュー・ヘヴィーズ(ヤン・キンケード)インタヴュー。
ヤンとブラウンの遭遇は。
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/interview/brand20030212.html

ジェームス・ブラウン・ライヴ評
【動から静への瞬間移動』
【2002年3月22日金曜・東京国際フォーラム、ホールA】
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/brown20020322.html

2003/12/23 (Tue)
From King To King
キング・オブ・ポップからキング・オブ・ソウルへ手渡されたもの
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/diary20031223.html

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ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 - 2006.12.25 (73)

投稿者 吉岡正晴 : 03:25 AM | コメント (0)

December 29, 2006

James Brown Goes Back To Apollo Theater: Another Home He Loved

[ ENT>OBITUARY>]

【ジェームス・ブラウン、アポロ・シアターに戻る】

帰還。

jb200612.jpg12月25日クリスマスの日に亡くなった「ゴッド・ファーザー・オブ・ソウル」ことジェームス・ブラウンの遺体が故郷オーガスタから、陸路でブラウンが愛したもうひとつのふるさと、ニューヨークのアポロ・シアターに運ばれ、アポロで一般客の弔問を受けることになった。すでにこの話を聞きつけた一般のファンが、木曜の朝からアポロの周囲に並び始めている。棺はオーガスタを水曜の夜に出発し、約12時間をかけて陸路でニューヨーク入りする。飛行機で移動しなかったのは、単純に飛行機の最終便に間に合わなかったためという。「写真は、アメリカ・ローリング・ストーン誌のサイトより。詳細は、次のアドレス
にあります。 http://www.rollingstone.com/photos/gallery/
12985546/james_brown_1933__2006/photo/1/large/jamesbrown
 」

棺は30日土曜日の午後までに一般に公開される予定で、人々とジェームス・ブラウンとの最後のお別れとなる。

ジェームス・ブラウンのアルバムで初めて大ヒットとなったのが、1963年発売の『ライヴ・アット・ジ・アポロ』というアルバム。これはその前年1962年10月24日にアポロ劇場で録音されたもので、63年6月からヒット。アルバム・チャートで2位を記録、彼のまさに出世作となった。このアルバムは、ブラウンがレコード会社の反対を押し切ってリリースさせたもので、この成功が後のブラウンのキャリアに大きな影響を与えたエポック・メイキングな作品ともなった。アポロは、ブラウンにとっての、真の意味での出発点だ。ブラウンは、長い旅を経て今、その出発点、ルーツに戻る。

また、ニューヨークでは棺を馬車に乗せ、ハーレムの街角をアポロまで行進し、3日間の通夜を行う。この3日間におよぶ通夜は、通常、皇室・王族のみに対して行われる。

「彼は黒人たちに、黒人であることを誇りに思わせ、私たちのルーツ(祖先)を大事に親しむべきだと教えてくれました。私たちに何も目標がなかった時代、尊敬すべき人物がいなかった時代、私たちに唯一あったのが(ブラウンの)音楽でした。ジェームス・ブラウンは私たちに力を与えてくれた人物の一人です」 こうチャンネル11に答えたのは、夜明け前からアポロで並び始めたアミノ・ハイマンさん。

「ハーレムにおけるロイヤル・デイ(王者の日)になるだろう」とブラウンの親友でもあり、棺の乗ったヴァンに同乗したアル・シャープトン師は語った。アル・シャープトンは、ブラウンの妻エイドリアンが死去した1996年1月の葬儀の時、またブラウンの母親が亡くなった時も葬儀の指揮を取ったが、まさかブラウン本人の葬儀を取り仕切るとは夢にも思わなかったようだ。シャープトンは「ハーレムのコミュニティーにとって長い間ほとんどなかったような凱旋になることを約束する」という。また「夜通しのドライヴになろうが、そんなことはかまわない」とも語った。

アポロ劇場は、多くの人の参列のために、列の仕切り線などの準備に追われている。シャープトンによれば、「ブラウンは、(自分のショーを見るために)アポロの外に人が並んでいるのがとても好きだった。アポロでやるたびに、彼は言っていた。『外にはどれくらい人がいるんだ』 そこで、私は『そこの角くらいだ』とか、『2ブロック先まで』なんて答えてた。私の夢は、こう言えることだ。『ミスター・ブラウン、みんなあなたのために、最後の行列をしていますよ』とね」

ブラウンの遺体は、1956年に立ったステージと同じ舞台に木曜日の午後1時から8時の間に通夜のために安置される。そこで、彼の音楽だけが流される。午後6時から6時半まで、家族と親しい友人たちが参列、この様子はメディアも見守る。

アポロ劇場の歴史に詳しい歴史家のビリー・ミッチェルによると、ジェームス・ブラウンは、アポロが1934年にオープンして以来、累計でもっとも多くの観客を集めたアーティストだという。

アポロで葬儀が行われたことはあるが、それまではいずれもアポロの従業員だけだった。また一般弔問を受け付けたのは、1992年8月、アポロ劇場の『アマチュア・ナイト』創始者ラルフ・クーパーの葬儀の例がある程度だという。

アポロでの葬儀が決まったのは、2006年の『アマチュア・ナイト』の決勝戦が行われたまさにその夜(水曜)のことだった。

アポロの入口上に飾られるマーキー(表看板)には次のように書かれる。\"Rest in Peace Apollo Legend The Godfather of Soul James Brown, 1933-2006." 同時に歴史的作品『ライヴ・アット・ジ・アポロ』のアルバムがそのマーキーのスピーカーから流れる予定だ。

近くに住む現在はフィットネス・クラブのオウナー、バリー・ハモンズ氏は、かつてアポロの「アマチュア・ナイト」で3回優勝し、ブラウンに一度会ったことがある。その時彼はこう言われたそうだ。「これが、君のやりたいことなら、オーディエンスと真剣に交われ。そして、やり続けることだ」

大晦日にBBキングのブルース・クラブに出演する予定だったジェームス・ブラウンの代役には、シャカ・カーンが決まった。

http://www.cnn.com/2006/SHOWBIZ/Music/12/28/jamesbrown.funeral.ap/index.html?section=cnn_latest

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ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 - 2006.12.25 (73)

投稿者 吉岡正晴 : 03:30 AM | コメント (0)

December 26, 2006

James Brown Dies At 73

[ ENT>OBITUARY>]

【ジェームス・ブラウン73歳で死去】

急死。

「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウル・ブラザー・ナンバーワン」などさまざまなニックネームを持つジェームス・ブラウンが去る2006年12月25日午前1時45分(日本時間25日15時45分)、アトランタのエモリー・クロフォード・ロング・ホスピタルで死去した。73歳だった。死因はまだ発表されていないが、入院したときにはすでに肺炎になっていた、という。すでにアメリカでもCNNを始めテレビ、メディアが大々的に報じており、レイ・チャールズ以来の報道量になっている。

先週金曜(22日)には地元でおもちゃを子供たちに配るイヴェントに出演していた。また日曜に入院し、また今週のいくつかのライヴをキャンセルしたが、週末のものはキャンセルしていなかったので、本人は直るつもりだったのだろう。急死という印象が強い。

その死について、50年代からの友人で元大統領候補だったジェシー・ジャクソン師は、「彼は最後までドラマティックだった。なにしろ、クリスマスの日に死ぬなんて。彼のニュースは、今日一日中、世界中で話題になるだろう」と語った。

ジェームス・ブラウンは1933年5月3日サウス・キャロライナ州バーンウェル生まれ。現在はジョージア州オウガスタ郊外に住んでいる。少年院を経て、かつて歌っていたゴスペルのグループに参加。徐々に頭角をあらわし、1956年「プリーズ・プリーズ・プリーズ」が初ヒットとなり、以後多数のヒットを放った。

これまでに「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン」「ファンキー・プレジデント」「ハーデスト・ワーキング・マン・イン・ショービジネス」など多数のニックネームを持つ。

レイ・チャールズ同様ゴスペル、ブルースなどを混ぜ合わせ、ソウル・ミュージックの確立に大きく寄与、さらに1965年に発表した「パパズ・ガット・ア・ブラニュー・バッグ」、「アウト・オブ・サイト」などの作品でいわゆる「ファンク」の原型を作り出した。ファンクのオリジネーターといってもいい。このファンクの要素は、これ以降のブラック・ミュージックのアーティストはもとより、白人のロック・アーティストにも多大な影響を与えた。影響を受けたアーティストとしては、マイケル・ジャクソン、プリンス、ミック・ジャガー、デイヴィッド・ボウイなど枚挙にいとまない。

1968年4月、キング牧師がメンフィスで暗殺され、黒人運動、公民権運動が高まりをみせると、ブラウンも積極的に先導に立ち、そうした黒人の代表的な行動をとるようになり、多くの若手から年齢層の高い人たちまで支持を集めた。

音楽的には、ファンクの誕生があるが、その他にもシンガー、ミュージシャンたちにスポットを当てられるようなパッケージ・ショーのスタイルを確立。ここからリン・コリンズ、マーヴァ・ホイットニー、メイシオ・パーカー、フレッド・ウェスリー、ブッチーズ・ラバー・バンドなど多数を輩出した。またバンドに対しては規律が厳しく、遅刻厳禁、ライヴでの曲間違いなどに罰金が課せられた。しかし、自分と同じ考え方をもつ者、同胞などにはやさしく、カリスマ的な人気を獲得していた。

ジェームス・ブラウンが作り出したリズムは唯一無二で、90年代に入って「モースト・サンプリング・アーティスト」(もっともサンプリングされるアーティストと呼ばれるようになった。そうした、サンプリングという手法で、若いヒップホップ世代からも熱い支持を集めている。

1992年にグラミー賞で「生涯功労賞」を受賞。また、この他にもドメスティック・ヴァイオレンスなど、逮捕歴も複数回あり、破天荒な人生を送った。

現在までのところ最新作は、2002年の『ザ・ネクスト・ステップ』。

http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/linernotes/brown20020220.html

葬儀の予定など未定。

(この項目・続く)

ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 - 2006.12.25

投稿者 吉岡正晴 : 12:16 AM | コメント (0)

December 25, 2006

(News Bulletin) James Brown Dies At 73

[ ENT>OBITUARY>]

(【速報・ジェームス・ブラウン73歳で死去】

「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウル・ブラザー・ナンバーワン」などさまざまなニックネームを持つジェームス・ブラウンが去る2006年12月25日午前1時45分(日本時間25日15時45分)、アトランタのエモリー・クロフォード・ロング・ホスピタルで死去した。73歳だった。

(詳細は後ほど)

投稿者 吉岡正晴 : 06:53 PM | コメント (0)

December 16, 2006

Atlantic Founder Ahmet Ertegun Dies At 83

[ ENT>OBITUARY>]

【アトランティック・レコード創始者アーメット・アーティガン死去】

創始者。

インディ・レーベルからスタートしメジャーへと成長したレーベル、アトランティックの創始者のひとり、アーメット・アーティガンが去る2006年12月14日(木曜)ニューヨークで死去した。83歳だった。

アーティガンは、1923年7月31日トルコ・インスタンブール生まれ。その後ニューヨークに移り住み1947年、友人のハーブ・エイブラムソンとともにアトランティック・レコードを設立。元々好きだったジャズ、R&B、ブルースを録音、発売。すぐに人気レーベルとなる。1950年代に入ると、兄のネスヒ・アーティガン(1917年11月26日生まれ、1989年4月15日死去)、後に敏腕プロデューサーとして活躍するジェリー・ウェクスラー、同じくトルコ出身のアリフ・マーディンなどが参加。ネスヒは1955年以降、チャーリー・ミンガス、ジョン・コルトレーンなど多くのジャズ・アーティストと契約、多数の傑作アルバムを世に送り出した。

また、アトランティックからはルース・ブラウン、レイ・チャールズ、ドリフターズ、ベンEキングなどのR&B、ソウルの基礎となるアーティストが続々と登場。60年代に入ると、南部のソウル・レーベル、スタックス・レコードを配給しオーティス・レディングなどを次々とヒットさせ黒人音楽の発展に大きく寄与した。60年代後期には、ポップ、ロックの分野にも進出。

レッド・ゼッペリン、ローリング・ストーンズをアトランティックに招き、スターに育てた。その後もロバータ・フラック、ダニー・ハザウェイ、スピナーズ、シックなどのソウル系からシェール、アバなどのポップ勢まで世に送り出した。

アーメット・アーティガンは、1987年、ロックン・ロール殿堂入り。兄ネスヒも4年後に殿堂入りを果たす。

アーメットは、2006年10月29日、ニューヨークで行われていたビル・クリントン元大統領の誕生日パーティーでローリング・ストーンズが演奏していた時に、楽屋で転び、頭を強打し入院していた。しばらくは安定していたが、ここにきて容態が急変、14日にニューヨークのプレスバイテリアン病院で死去した。

葬儀は近親者ですませ、故郷トルコで埋葬される。年が明けて、ニューヨークでメモリアル・サーヴィス(偲ぶ会)が開かれる。

レイ・チャールズの自伝映画『レイ』、ボビー・ダーリンの自伝映画『ビヨンド・ザ・シー』などでも、アーメット・アーティガン役の人物が登場している。アトランティックは来年、創立60周年を迎える。

ENT>OBITUARY>Ertegun, Ahmet / July 31, 1923 -December 14, 2006 (83)

投稿者 吉岡正晴 : 04:43 AM | コメント (0)

November 21, 2006

R&B Singer Ruth Brown Dies At 78

[ ENT>OBITUARY>]

【R&B創生期のパイオニア、ルース・ブラウン死去】

パイオニア。

1940年代から50年代にかけてヒットを放ったR&B時代創生期のごく初期のスターである女性シンガー、ルース・ブラウンが2006年11月17日(金)、ラスヴェガス地区の病院で死去した。78歳だった。「ティアドロップス・フロム・マイ・アイズ」(1950年末のヒット、R&Bチャートで1位)、「5-10-15アワーズ」(1952年のヒット、R&Bで1位)など多数のヒットがある。

ルース・ブラウンは1928年1月12日ヴァージニア州ポーツマス生まれ。本名、ルース・アルストン・ウェストン。

デューク・エリントン楽団の歌手になったところ、その紹介でアトランティック・レコードと契約することになり、1949年、アトランティックからの「ソー・ロング」が初ヒット。以後、1960年頃までヒットを出し続けた。レイ・チャールズ登場以前のアトランティックのドル箱スターと言える。しかも、ジャズ、ゴスペル、創生期のR&B、ロックンロールなどありとあらゆるジャンルを超えて歌った。

しかし、60年代、70年代初期までは不遇で、一時期はバスの運転手、家事手伝い、教師などをしながら2人の息子を女手一人で育て、どん底の生活をしていたこともあった。

1982年、ワシントンDCで小さなライヴを行った後、一人の白人男性が昔のアルバムを持ってきて、ルースのサインを求めてきた。そのアルバムは、ルースが見たこともないアルバムだった。彼女はアルバムにサインをしながら、「私たちはこうしたアルバムから一銭たりとも、印税をもらってないのよ」とこぼした。この男性の名前は、ハウエル・ベーグル、エンタテインメント系の弁護士だった。そして、彼はルースのために、身を粉にして、未払い印税をメジャーレコード会社にさせるという前代未聞の仕事を始めたのだ。

そして、それから約5年をかけて、ハウエルとルースは、それらの貯まった未払い印税をレコード会社に支払わせることに成功したのである。1987年のことだった。こうして生まれたのが、同年発足の「リズム&ブルーズ・ファウンデーション(基金)」である。

様々な交渉を重ね、アトランティックのアーメット・アーティガンらから150万ドル(現在のレートで1億8千万円)の小切手をR&B基金宛てに拠出させたのだ。この基金から資金を運用したりして、R&Bの世界で実績がありながら、例えば保険に加入していないために病気治療が受けられない人へのサポート、未払い印税の支払いなどにあてるようになった。彼女にとっての最大のターニングポイントは、この交渉をかってでてくれたハウエル弁護士との出会いだった。

Blues on Broadwayその後、映画、ミュージカルの仕事が入るようになりアーティストとしても奇跡的に復活。中でも、1989年1月からブロードウェイで始まったミュージカル『ブラック&ブルー』は2年間にわたるロングラン大ヒットとなり、オリジナル・サウンドトラックもグラミー賞を受賞、さらにルース自身のアルバム『ブルーズ・オン・ブルードウェイ』も、1989年度グラミー賞「ベスト・ジャズ・ヴォーカル・パフォーマンス」を獲得した。同ミュージカルは、トニー賞5部門にノミネート、ルースの最優秀女優賞を含む3部門を獲得した。また1993年には「ロックン・ロール・ホール・オブ・フェイム」(ロック殿堂)入りを果たすまでになった。

ルースは、ライヴでは1978年9月「モンタレー・ジャズ・フェスティヴァル」(=武道館。複数アーティストとの共演)への出演、1991年4月、渋谷クアトロでのライヴ、1995年1月、東京ブルーノート出演で来日している。また、甥にラッパーのラキームがいる。

(ルースの来日履歴について阿見博さんから貴重な情報をいただきました。訂正・追記しました。ありがとうございます)

ENT>OBITUARY>Brown, Ruth>January 12, 1928 - November 17, 2006 (78)

投稿者 吉岡正晴 : 04:09 AM | コメント (0)

November 13, 2006

Gerald Levert, Forever:

[ ENT>OBITUARY>]

【ジェラルド・リヴァート安らかに~】

暑。

Private Line『プライヴェート・ライン』のアルバムを聴いている。まだあどけなさも残るジェラルド・リヴァートの顔が前面にでている1991年の作品だ。ここには、ジェラルドと父エディーのデュエットが収録されている。やはり、親子だけあって、声質も似ているし、暑苦しい歌い方が、これまた父親譲り。最高の1曲だ。

今から11年前、1995年11月に父エディーと息子ジェラルドがアメリカの雑誌エッセンスのインタヴューに答えた。その時、ジェラルドは父についてこう語っている。「僕が子供の頃、父はいつも旅にでていていなかった。だからいつも、会いたいと思っていた。そこで、自分が父親になったら、僕がいつも子供たちのそばにいようと誓ったものだ。だが、実際(自分がヒットをだして有名になってしまうと)、外にでると人が集まってきて大変なことになる。また、やはり、僕自身の仕事は多くの旅をしなければならない。その点クリーヴランドに住むということは、いいものだ」

父エディーは、「父親という存在がどのような意味を持つのか」という問にこう答えている。「父とは、子供たちにとって、まず何よりもひとりの人間であるべきだろう。泣いたり、悲しんだり、怒ったり、感動したり、そういうことをする普通の人間だということだ。ジェラルドはいつも私のことをひとりの人間として見て、接してくれてきた。息子は私の欲望や、弱さを知っている。だから何でも話してくれるのだろう。一方、私も子供たちを、仲間と思い、世界中で一番の親友だと思って接している」

アメリカのブラックミュージック業界が、歌がうまいことを重視しなくなって久しい。本当に歌のうまい歌手たちの不遇な時代が続いている。そんな中で、ジェラルドは歌のうまさが正当に評価された最後の世代のシンガーではないだろうか。

木曜日(9日)に、静岡のKMIXでオンエアーされている『ブギーナイツ』内の「ブラック&ホワイト」のコーナーで、リヴァートを特集、収録してきた。そのために、前日にいろいろリヴァートのCDを聴いたり、調べていたりしたのだが、それから2日後の土曜午後に、ジェラルドの訃報を、守島さんからのメールで知った。なんというタイミングか。(いつも最新情報ありがとうございます) 死去の報をいれていないので、一部を再録することになるだろう。

リヴァートは、有明のMZAで見たことがあったような気がしたのだが、どうもそれは勘違いで、オージェイズを見たことと混同していたようだ。(あるいは、来たがインタヴューはしなかったか) オージェイズのエディー・リヴァートには来日時にインタヴューした。あと、僕がインタヴューしたのは、同じジェラルドでも、ジェラルド・アルストンだったので、それも勘違いの元かもしれない。

映画『永遠のモータウン(Standing In The Shadows Of Motown)』のDVDを引っ張り出して見た。始まってまもなくジェラルド・リヴァートがフォートップスのヒット「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」を歌う。途中で、ジュニア・ウォーカーの「ショットガン」も歌う。このバックを支えるファンク・ブラザースの中で2002年にリチャード・ピストル・アレンが撮影後まもなく他界している。しかし、ここに登場するアーティストで、まさか次にこの世からいなくなるのが、若きジェラルドになるなどとは誰も夢にも思わないだろう。

フォートップスのリード・ヴォーカルも、熱血ヴォーカルだ。そして、ジェラルドも同じように暑くソウルフルだ。

彼が1986年に設立したプロダクションの名前は「トレヴェル(Trevel)」 という。辞書にはでていない。おわかりになるだろう。Levert を引っくり返したものだ。

ジェラルド・リヴァート、安らかに。

ENT>OBITUARY>Levert, Gerald/July 13, 1966 - November 10, 2006 (40)

投稿者 吉岡正晴 : 04:21 AM | コメント (0)

November 12, 2006

Gerald Levert Dies Of Heart Attack At 40

[ ENT>OBITUARY>]

【ジェラルド・リヴァート心臓発作で40歳で急死】

急死。

R&Bシンガー、ジェラルド・リヴァートが2006年11月10日(金曜)、オハイオ州クリーヴランドの自宅で心臓発作のため急死した。40歳だった。家族によると、就寝中に他界した模様。クリーヴランド郊外のジョーガ・メディカル・センターに運ばれてきた時には、すでに死去していた、という。ジェラルドはグループ「リヴァート」のリードシンガー。ソロとしても活躍。父親は数々のヒットを放ったオージェイズのエディー・リヴァート。父親の出身地、オハイオ州カントンには、彼らの名前を冠したストリートがある。

アトランティック・レコードは、「アトランティックの全スタッフはこのまったく予期せぬ彼の死に衝撃を受け、深い悲しみに包まれている。私たちの時代のもっとも素晴らしい声の持ち主の一人だった。シンガーとしてだけでなく、プロデューサー、ソングライターとしても素晴らしかった」とコメント。

パティー・ラベルは「私にとっては、息子のような存在。驚くべき才能の持ち主だった。大変なハードワーカーで、行くべきところに行き、すべきことをする人物でした。仲間がいるところにはいつも現れ、人々に触れたものです」と述べ、葬儀で歌うと語った。

ジェラルド・リヴァートは1966年7月13日、オハイオ州クリーヴランド生まれ。父親のエディー・リヴァートは、フィラデルフィア・サウンドで人気となったR&Bヴォーカル・グループ、オージェイズのリード・ヴォーカル、エディー・リヴァート・サー。ジェラルドは1984年に、弟のショーン・リヴァート(1968年9月28日生まれ)と幼少時代からの友人マーク・ゴードンとともにR&Bヴォーカル・グループ、リヴァートを結成。

1985年、地元のインディ・レーベル、テンプレから出した「アイム・スティル」が小ヒット。その後メジャーのアトランティックに移籍し、1986年7月、「(ポップ・ポップ・ポップ・ポップ)ゴーズ・マイ・マインド」がブラックチャートでナンバーワンとなり、一躍人気グループに。以後、「カサノヴァ」(1987年)、「アディクテッド・トゥ・ユー」(1988年)、「ジャスト・クーリン」(1989年)など多数のヒットを生み出した。

1991年には映画『ニュー・ジャック・シティー』のサウンドトラックで、父親たちのヒット曲「フォー・ザ・ラヴ・オブ・マネー」、「リヴィン・フォー・ザ・シティー」をカヴァー。

さらに同年、ジェラルドはグループ活動とは別にソロ活動を開始。初ソロアルバム『プライヴェート・ライン』を発表。この中で父親エディー・リヴァートと「ベイビー・ホールド・オン・トゥ・ミー」をデュエット。これは1992年になってからブラックチャートでナンバーワンを記録する大ヒットになった。

弟のショーン・リヴァートも1995年、ソロ・デビュー。ショーン名義の1995年作品「セイム・ワン」には、ジェラルド、さらに父エディーも参加した。1995年には、ジェラルドとエディーは『ファーザー&ソン』というアルバムを発表している。

ジェラルドは、1997年、R&Bシンガー、キース・スゥエット、ジョニー・ギルとともに、ワンショット的に「LSG」というグループを結成。これは、リヴァート、スゥエット、ギルの頭文字を取ったもの。

最新作はジェラルド・リヴァート名義がスタジオアルバムとしては2004年の『ドゥ・アイ・スピーク・フォー・ザ・ワールド』、2005年にこれまでの作品を集めたコンピレーション的アルバム『ヴォイセス』を出している。また、グループ、リヴァート名義では1997年の『ザ・ホール・シナリオ』で、その後2001年ベストが1枚でた。

父親譲りの荒々しくソウルフルな歌唱が最大の魅力で、80年代の歌えるシンガーとして大きな人気を博した。

ジェラルドには4人の子供がいる。

Do I Speak for the World
Do I Speak for the World

Voices
Voices

ENT>OBITUARY>Levert, Gerald/July 13, 1966 - November 10, 2006 (40)

投稿者 吉岡正晴 : 02:26 AM | コメント (2)

November 11, 2006

(速報)Gerald Levert Dies Of Heart Attack

[ ENT>OBITUARY>]

(速報)【ジェラルド・リヴァート心臓発作で急死】 

急死。

R&Bシンガー、ジェラルド・リヴァートが2006年11月10日(金曜)、オハイオ州クリーヴランドの自宅で心臓発作で急死した。40歳だった。ジェラルドはグループ、「リヴァート」のリードシンガー。ソロとしても活躍。父親は数々のヒットを放ったオージェイズのエディー・リヴァート。

(詳細は後ほど)

ENT>OBITUARY>Levert, Gerald/ 2006.11.10 (40)

投稿者 吉岡正晴 : 12:23 PM | コメント (0)

July 12, 2006

Original Commodore Milan Williams Dies At 58

[ ENT>OBITUARY>]

【コモドアーズのオリジナル・メンバー、マイラン・ウィリアムス死去】

握手。

THE BEST 1200 コモドアーズコモドアーズのオリジナル・メンバー、マイラン・ウィリアムスが去る2006年7月9日、テキサス大学ガンセンターで死去した。長い間、ガンを患っていた。58歳だった。

マイラン・B・ウィリアムスは、1948年3月28日ミシシッピー州オコローナ生まれ。キーボード、ギターをプレイする。アラバマ州タスキギーにあるタスキギー大学に進学。この頃からすでにバンド活動をしており、マイランはジェイズというバンドにいた。1968年、この学生を中心に結成されていたもうひとつのグループ、ミスティックスと合体。ひとつのグループになった。

その時のメンバーがマイランのほか、ライオネル・リッチー、ウォルター・オレンジ、ウィリアム・キング、トーマス・マクラリー、ロナルド・ラプリードだった。彼らはグループの名前を、辞書をぱっと開いたところにあった単語から、コモドアーズとした。

1971年、ジャクソン・ファイヴの前座を務めたことから1972年までにモータウンと契約。1974年、マイランが書いたインストゥルメンタル曲「マシン・ガン」が初ヒットとなり、一躍注目され、以後次々と大ヒットを放つようになった。特に、ファンキーでダンサブルな作品と、リード・シンガー、ライオネル・リッチーの作り出すメロディアスな作品が人気を博すようになった。マイラン作品としては、共作も含め「バンプ」「ブリック・ハウス」「アフィ・フィール・サンクティファイド」などがある。

グループからは、82年、リードシンガーのライオネルがソロへ独立。グループは、新しいリードシンガー、JDニコラスを迎え再出発を計った。70年代ほどの大ヒットには恵まれなかったが、クラブなどでのライヴは行っていた。なお、マイランは1989年、コモドアーズを脱退し、ソロで音楽活動を続けていた。また、コモドアーズは現在、ウォルター・オレンジ、ウィリアム・キング、そして、JDニコラスの3人編成となっている。

マイランが病床にあった最近、マイランとコモドアーズのメンバーたちと電話でコンファレンス・コール(複数人が同時に電話でできる、電話会議)が行われた。メンバーに向けて、マイランはこう言ったという。

「みんな、たとえ、君たちが誰かといさかいを持ったり、敵対したとしても、そんなことはどこかに追いやって、握手をしろ。そして、神があなたに与えてくれた貴重な人生を前向きに生きなさい。人生は短いものだよ」 

マイランは、現在の妻メラニー・ブルーノ・ウィリアムスと前妻との間に生まれた二人の息子、ジェイソンとリッチーによって送られる。

マイラン・ウィリアムス、永遠にセイル・オン! 

(トシミさん、情報ありがとうございます)

ENT>OBITUARY>Williams, Milan B.Mardin,/March 28, 1948 --July 9, 2006 (58)


投稿者 吉岡正晴 : 03:18 AM | コメント (0)

June 28, 2006

Arif Mardin Dies At 74: The Great Producer.

[ ENT>OBITUARY>]

【大物プロデューサー、アリフ・マーディン死去】


ノンストップ。

1960年代から現在に至るまで、あらゆるジャンルの音楽をプロデュースしてきた大物プロデューサー、アリフ・マーディンが去る2006年6月25日(日曜)ニューヨークの自宅で死去した。74歳だった。ここ1年ほどすい臓ガンを患っていた。てがけたアーティストは、アレサ・フランクリン、ダニー・ハザウェイ、チャカ・カーン、ウイルソン・ピケットなどのソウル系から、ビージーズ、メリサ・マンチェスターなどのポップ・アーティストまで幅広い。最近ではノラ・ジョーンズ、ラウル・ミドンの大ヒットが記憶に新しい。グラミー賞12回受賞、うち2回は「ベスト・プロデューサー」部門。アメリカ音楽業界における押しも押されぬ大プロデューサーだ。

アリフ・マーディンは1932年3月15日、トルコ・イスタンブールの裕福な家庭に生まれた。トルコ人。十代の頃から両親兄弟の影響で音楽、特にジャズに傾注。インスタンブール大学、ロンドンの学校などで教育を受けた。この頃は音楽は彼にとってただの趣味に過ぎなかったが、1956年、ジャズ・ジャイアンツのひとり、ディージー・ガレスピーがトルコにやってきた時に衝撃を受け、音楽の仕事をする決意を固めた。この時、クインシー・ジョーンズとも知り合い、クインシーがアリフの作曲能力に惚れこみ、アメリカのバークリー音楽院のクインシー・ジョーンズ奨学金を提供した。アリフはアメリカに渡り1961年に卒業。1963年、アトランティック・レコード創始者であり、同郷のアーティガン兄弟のひとりネスヒ・アーティガンのアシスタントとして同社に就職。まもなく、スタジオの管理から、音楽のアレンジ、プロデュースの仕事などを任されるようになる。

当初は、アトランティック・レコードに所属するエディー・ハリス、フレディー・ハバードなどジャズ・アーティストの作品をてがけていたが、1967年大きな転機が訪れた。同年、コロンビア・レコードからアトランティックに移籍してきたアレサ・フランクリンとの出会いだ。

I Never Loved a Man the Way I Love Youアリフは、アトランティックのスタッフだったプロデューサー、ジェリー・ウェクスラー、エンジニアのトム・ダウドらの下で、アレサの作品にかかわるようになる。アレサのアトランティックでのデビュー作『アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン・・・』(1967年)では、「レコーディング・エンジニア」としてクレジットされている。このアルバムからは、「リスペクト」、「アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン・・・」、「ドゥ・ライト・ウーマン」などが大ヒット、アレサの名前を決定づけ、アルバムは傑作ソウル・アルバムとして高い評価を得るようになった。

初めて彼の名前がプロデューサーとしてクレジットされたのは、ラスカルズの作品。ジェリー・ウェクスラーとの共同プロデュースだったが、67年5月から「グッド・ラヴィン」が大ヒット。全米ナンバーワンになり、一躍注目されるようになった。

その後もアレサ・フランクリンの作品群にかかわるだけでなく、ラスカルズ、ダスティー・スプリングフィールド、ホール&オーツ、ベット・ミドラー、ロバータ・フラック、ウィリー・ネルソン、ビージーズ、アヴェレージ・ホワイト・バンド、ジョージ・ベンソンなど多数のアーティストをてがけた。ラスカルズ作品は「グルーヴィン」などほとんどすべてをてがけ、「5番目のメンバー」とさえ言われるほどにまでなった。

特にアレサ・フランクリンなどの黒人R&Bをプロデュースするノウハウを、白人アーティストにも応用し、ラスカルズ、ホール&オーツ、アヴェレージ・ホワイト・バンドなどに「ブルー・アイド・ソウル」と呼ばれる作品群を提供し注目された。

1990年代には、ミュージカルなどもてがけている。

Come Away With Me2001年5月、マーディンはアトランティックのシニア・ヴァイス・プレジデントの役職を退任。しかしその数ヵ月後、EMIと「新人と契約しプロデュース権利を持つチーフ・プロデューサー」の役職に就いた。そして生まれたのが、2002年のセンセーション、ノラ・ジョーンズの『カム・アウエイ・ウィズ・ミー』だった。これは翌年グラミー賞主要4部門を独占する。60年代から40年以上にわたってまさにノンストップでヒットを生み出してきた偉大なプロデューサーだ。

マーディンは、48年間連れ添った妻ラティーフ、息子でプロデューサーでもあるジョー、二人の娘ネリーとネイザンによって送られる。

+++

1日。

アリフ・マーディンは大好きなプロデューサーのひとりだ。アレサ、チャカ、ダニー・・・。気に入ったアルバムにはいつも彼の名前があった。クインシーと同じくらい多数の作品をてがけてきた人物だ。一度、ゆっくり話が聞きたい人物のひとりだった。僕にとっては、彼は「ソウル・ミュージックのプロデューサー」という印象が圧倒的に強い。

アリフの恩人でもあるクインシー(Q)はアリフより1歳年下、1933年生まれ。誕生日がなんと一日違いなのだ。Qは3月14日シカゴ生まれ。一年と一日違いということを聞いたのは、クインシーにインタヴューした時のことだった。なにかのきっかけで、アリフの話になり、誕生日が一日違いだと教えられた。もう10年以上も前のことだ。

そして、昨年。ラウル・ミドンが来日しライヴを行った。その時、ほんの少しだけ話をする機会があった。誕生日を尋ねたら、「3月14日」との答え。その時は、クインシーかアリフかどっちの誕生日か覚えていなかったが、どちらかと同じでしょう、というとクインシー(3月14日)だと答えた。

3月15日生まれのアリフは、3月14日生まれのクインシーに大々的に世話になった。そして、そのアリフは、こんどは3月14日生まれの無名の新人ラウル・ミドンをプロデュースし、ヒットさせた。だから、どうだということはないのだが、なんとなく、因縁めいていておもしろいなと思った。

ラウフがステージで語ったアリフ・マーディン話は、ひじょうに興味深かった。(下記ブログに)

October 25, 2005
Raul Midon: From Donny To Stevie To Raul
http://blog.soulsearchin.com/archives/000603.html

I Feel for Youこの訃報記事を書き始めた時、アレサの『アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン・・・』をかけていたが、今はシャカ・カーンの『アイ・フィール・フォー・ユー』を聴いている。

ご冥福をお祈りしたい。

ENT>OBITUARY>Mardin, Arif / March 15, 1932 -- June 25, 2006 (74)

投稿者 吉岡正晴 : 03:31 AM | コメント (0)

June 27, 2006

Claydes "Charles" Smith Of Kool & The Gang Dies At 57

[ ENT>OBITUARY>]

【クール&ザ・ギャングのオリジナルメンバー、チャールス・スミス死去】

生粋。

The Very Best of Kool & the Gangアメリカの人気ファンク・グループ、クール&ザ・ギャングのオリジナル・メンバーであり、ギター奏者だったクライデス・チャールズ・スミスが去る6月20日、地元ニュージャージーで死去した。57歳だった。今年の1月から、病気を理由にグループのツアーから退いていた。

チャールズ・スミスは1948年9月6日、ニュージャージー州ジャージー・シティーの生まれ。十代のころから父親の影響でジャズのレコードを聴き、ギターを始めた。

1964年、友人であるロバート・クール・ベル、ロナルド・ベルらとともに、ジャズ・グループの「ジャジアックス」を結成。地元やニューヨークのクラブなどで演奏し、評判を上げるが、名前を「ソウルタウン・バンド」「クール&ザ・フレイムス」などと変え、1968年「クール&ザ・ギャング」となった。1969年、ニューヨークのインディ・レーベル、デライトから『クール&ザ・ギャング』でデビュー。1973年、「ファンキー・スタッフ」「ハリウッド・スゥインギン」などの大ヒットで一躍メジャーな存在となった。

グループは79年に新しいリードシンガー、ジェームスJTテイラーを迎え心機一転再出発。さらに、ポピュラーな人気を獲得。その後もコンスタントにヒットを送り出し、クール&ザ・ギャングは、70年代から80年代にかけて押しも押されぬ人気バンドとなった。特に「セレブレーション」は、お祭りやなにかいいことがあった時のテーマ曲ともなり、高い人気を誇っている。

スミスは、「ファンキー・スタッフ」「ハリウッド・スゥィンギン」などのほか「セレブレーション」なども共作、多数のグループのヒット曲の制作に加わった。また、彼は1964年の前身「ジャジアックス」以来40年以上、クール&ザ・ギャングのギタリストとして、リズム隊の屋台骨を支えてきた生粋のメンバーである。

The Hitsクール&ザ・ギャングとしての最新作は、2004年発売の『ザ・ヒッツ:リローデッド』。これは自分たちのヒットを、若い人たちとコラボレートして再録音したもの。

彼は6人の子供と9人の孫によって送られる。

ENT>OBITUARY>Smith, Charles Clydes / 1948.9.6-2006.6.20 (57)


(Soul Oz さん情報提供ありがとうございます)

投稿者 吉岡正晴 : 04:59 AM | コメント (0)

June 15, 2006

Japanese Bassist Aoki Tomohito Dies At 49

[ ENT>OBITUARY>]

【青木智仁氏逝去】

急死。

EXPERIENCE日本の音楽シーンでベーシストとして人気の高かった青木智仁(あおき・ともひと)氏が去る2006年6月12日、誕生日であるその日に自宅で倒れ、そのまま品川区の病院に運ばれ急性心不全で亡くなった。49歳になったばかりだった。

青木智仁氏は1957年6月12日神奈川県生まれ。ギターを14歳で始め、その後16歳でベースに転向。19歳の時に出たヤマハのコンテストでベストベーシスト賞を受賞。その後プロとして活動を始めた。多くのアーティストのバックをつけたり、スタジオミュージシャンとして活躍。中でも角松敏生(かどまつ・としき)の作品群では、レコーディングだけでなくツアーにも全面的に参加、その関係は現在まで続いていた。89年、ソロアルバム『ダブル・フェイス』を発表、2000年に『エクスペリエンス』を発表。93年から5年間は渡辺貞夫グループにも参加。現在はフォー・オブ・ア・カインド[本田雅人(Sax)・ 塩谷哲(P,Key)・沼澤尚(Ds)・青木智仁(Bass)]、ソースのメンバー、また本田雅人、近藤房之助 などのサポートもてがけていた。フォー・オブ・ア・カインドも2枚のアルバムをリリースしている。日本の音楽シーンにおけるベース奏者の第一人者だった。スケジュールもこの先、多数入っていた。

+++++

衝撃。

13日の午後あたりから、青木さん死去の噂が駆け巡っていたようだ。僕は、この前会ったばかりだし、違う青木さん、青木違いじゃないか、あるいは、ルーサー死去の時のようなガセネタではないかと思っていた。いただいた名刺の携帯に「まちがいですよね」などと電話でもしてみようか、と思ったほどだ。それほど、そんなことはあり得ないと思っていた。しかし、14日になっていくつかの朝刊にも記事が出て、事実だということが判明。愕然とした。まだ49歳になったばかりである。あまりの若さに言葉がでない。

まだ3ヶ月も経っていない。名前はそれこそ20年以上前から存じ上げていて、ベース奏者の第一人者だった青木さん。その青木さんとは、黒沢薫さんのソロライヴの打ち上げで、初めて名刺を交換させていただいた。3月23日のことだ。しかし、初めて会うという感じがしなかった。たぶんわからないが、好きな音楽(ソウルミュージック)が共通している、聴いてきた音楽が似ているなどという、それだけで親しみが湧いてきてしまうのだろう。そういうことはしばしばある。

その時に、青木さんが娘さんとともに、『ソウル・ブレンズ』を毎週聴いていると言われ、大変恐縮した。いろいろな音楽談義をさせていただいたが、その様子は当日の日記に書き記した。青木さんの観察によるソウルの東西の違いは、見事なものだと思う。

【ソロを見ることによってわかるグループの構成部品】
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_03_24.html

ものすごく優しい方で、話易く、これを機にずっと仲良くしてください、という感じだった。

海外のアーティストの訃報記事も徐々に増えていて、実際書くのに辛いことも多々あるが、このような身近なところにいる方の訃報記事というのは、本当に書きたくない。だが、葬儀で故人の話をたくさんして、偲ぶように、書くことによって偲ぶことができるのであれば、それもいいのかな、とも勝手に思ってみたりする。

それほど親密ではなかった僕でさえショックを受けるのだから、一緒に音楽をやっていたバンド仲間のみなさん、グループのみなさん、親しく接しておられた方たちのお気持ちははかりしれない。

青木さん、ご冥福をお祈りします。天国でファンキーなベースを弾いて盛り上げてください。

ENT>OBITUARY>Aoki, Tomohito>June 12, 1957 - June 12, 2006 (49)


投稿者 吉岡正晴 : 03:57 AM | コメント (0)

June 14, 2006

Stevie Wonder's Mother Died

[ ENT>OBITUARY>]

【スティーヴィーの母、死去】

傷心。

シンガー、スティーヴィー・ワンダーの母親ルーラ・メイ・ハーダウェイが去る5月31日亡くなり、その葬儀が6月8日ロスアンジェルスの「ウェスト・エンジェルス・チャーチ・オブ・ゴッド」で行われ、スティーヴィーら多くの人たちが参列した。ルーラ・メイは76歳だった。 (自伝では1932年生まれとされているが、今回の報道はほとんどが1930年生まれとなっているので、30年生まれが正しいものと思われる)

ルーラは1930年1月11日アラバマ州に小作人の子供として誕生。しかし、ルーラの幼少時はひじょうに悲惨で、貧困と飢えと暴力に苦しんだ。家から家、親戚のところをたらいまわしにされていた。その後、15歳の時に父親とインディアナ州に移り、学校は行かず工場で働き始めた。まもなく年配の男性カルヴィン・ジャドキンスと結婚。この男性はあまり働かず、ルーラに生活費を稼ぐために売春をするよう命じていたという。20歳になるまでに3人の息子を産んだ。その子供たちが、カルヴィン、ミルトン、スティーヴランドらで、スティーヴランドのフルネームは、スティーヴランド・モーリス・ジャドキンス・ハーダウェイ。世界的にはスティーヴィー・ワンダーとして知られる。ルーラは3番目の子供が盲目で生まれてきたのは、自分がしてきたこと(売春)への神様の罰だと考えるようになっていた、といわれる。そういう事情もあり、スティーヴィー本人は、名前にジャドキンス姓をつけたがらない、という。

盲目の信念(ブラインド・フェイス)―スティーヴィー・ワンダーとその母ルラ・ハーダウェイルーラ・ハーダウェイのことを描いた伝記『ブラインド・フェイス(邦題、盲目の信念)』(デニス・ラヴ&ステイシー・ブラウン著)が2002年11月に全米でリリースされ、2003年9月に日本語版も発売されている。

スティーヴィーは葬儀で「キープ・アワ・アライヴ」を歌った。彼のほか、ソウル・スティアラーズ、ヨランダ・アダムス、ジェームス・イングラム、テイク6などが歌を歌い、ママ・ルーラの旅立ちに華を添えた。また、モータウン創始者ベリー・ゴーディーもスピーチをし、さらに、スティーヴィーの兄弟(カルヴィン、ミルトン、リニー)もあいさつをした。

スティーヴィーはゴスペルアルバムのコンピレーションへの作品提供を語った、という。

また、母ルーラの友人、ジョージ・ニューベリーは「ダイアモンド・インザ・スカイ」という詩を読んだ。

スティーヴィーにとって、ここ数年は、弟、レイ・チャールズ、最初の妻シリータ、そして、今回は実の母の死去と、傷心の別れが続いている。そうしたことがゴスペルへ彼を向かわせる一端になっているかもしれない。

ルーラ・ハーダウェイは6人の子供、5人の兄弟、20人の孫、ひ孫によって、送られた。

+++++

OUR DIAMOND IN THE SKY

We speed through life fulfilling dreams
Of things we want to do,
And working for material things...
A house and a car, or two.

We take our trips and tour the world
And buy our diamond rings,
But we often forget to take time out
For the most important things.

When we need love or a helping hand,
Diamonds are never there,
It's our families and the friends we made
Who love and show they care.

Lula cared for all of us
And it's hard to say goodbye,
But forever she'll shine her love on us...
She's our Diamond in the Sky.

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ENT>OBITUARY>Hardway, Lula Mae>Jan 11, 1930-May 31, 2006 (76)

投稿者 吉岡正晴 : 03:31 AM | コメント (0)

June 08, 2006

Billy Preston Dies At 59: Piano Man On Rooftop

[ ENT>OBITUARY>]

【ビリー・プレストン死去~屋根の上のピアノ弾き】

実績。

エンカレッジング・ワーズ(紙ジャケット仕様)60年代から70年代にかけてヒットを送り出し、その後もキーボード奏者として活躍してきたビリー・プレストンが、去る6月6日(火曜)、アリゾナ州スコッツデールの病院で死去した。59歳だった。プレストンは長く腎臓病を患い、2002年に腎臓移植を受け、その後人工透析をしていた。昨年11月心臓が感染症を起こし意識不明になっていた。以来意識が戻ることはなく、先週末、容態が急変し火曜日死去した。

ビリー・プレストンは1946年9月9日テキサス州ヒューストン生まれ、2歳からロスアンジェルスに育った。本名ウィリアム・エヴァレット・プレストン。10歳の頃、ゴスペルシンガーのマヘリア・ジャクソンとともにステージに立ち、神童と呼ばれた。12歳の時、1958年の映画『セント・ルイス・ブルース』でピアノを演奏。この映画は伝説のブルース・シンガー、WCハンディーの自伝映画で、ハンディーの子供時代を演じた。ちなみに、大人になったハンディーを演じたのはナット・キング・コールだった。

アメリカのテレビ番組『シンディグ』にレギュラー出演。レイ・チャールズなどのツアーにも参加。業界内でキーボード奏者としての評価を確立、そんな評判からビートルズの「ゲット・バック」、「ドント・レット・ミー・ダウン」などのレコーディングに参加。「5番目のビートル」などとも称された。ビートルズは69年がライヴの最後の年となるが、同年行われた有名な「屋根の上のコンサート」でも、彼はオルガンをプレイしている。このシーンは映画『レット・イット・ビー』に収録されている。ビートルズの中では特にジョージ・ハリソンと親しく、ハリソン関係のセッションに参加したり、ハリソンが亡くなった時の追悼ライヴでもプレイしている。多くのセッションにも参加、スライ&ファミリー・ストーンともレコーディングしている。また、プレストンは75年、ローリング・ストーンズのアメリカツアーにも参加。『ビートルズとストーンズとプレイした男』にもなっている。

ビリー・プレストンとしては、当初アップル・レコードに所属していたが、72年A&Mレコードに移籍。同年インストゥルメンタルの「アウタ・スペース」が全米ナンバーワンを記録。同曲はグラミー賞も獲得。さらに「スペース・レース」「ナッシング・フロム・ナッシング」などの大ヒットが続いた。モータウンに移籍して1980年、シリータとのデュエット「ウィズ・ユー・アイム・ボーン・アゲイン」がビルボード・ポップチャートで4位を記録。

長いセッション・マンの歴史の中で、彼はアレサ・フランクリンの『ヤング・ギフテッド&ブラック』、ボブ・ディランの『ブラッド・オン・ザ・トラックス』、スライ&ファミリー・ストーンの『ゼア・イズ・ア・ライオット・ゴーイング・オン(邦題、暴動)』などに参加。様々なジャンルの歴史的名盤に名を残した。

映画『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』、『ブルース・ブラザース2000』にも出演。また、昨シーズンのテレビ『アメリカン・アイドル』にも登場していた。

1990年代は、それまでのアルコール中毒、ドラッグ問題などさまざまなプライヴェートでの問題が表面化し、刑務所入りしていたこともある。

最近では、2006年1月にリリースされたソウルシンガーのオムニバス・アルバム『アイ・ビリーヴ・トゥ・マイ・ソウル』で3曲歌っていた。これが遺作となった。

ビリー・プレストンはかつてこう言っていた。「何かをする時にはできる限りベストを尽くせ。何かとてつもなく重要なことをしているなんてことは、その時は誰にもわからないものだ。たとえ、それが歴史に残るセッションであっても、その時にはわからない。それができる才能があったこと、ベストを一生懸命尽くしたこと、それだけが実績なのだ」

彼にとっては単なる「屋根の上のセッション」だったかもしれないが、それが彼を一躍有名にし、その後の音楽業界でのステータスを決定的にした。

ENT>OBITUARY>Preston, Billy / June 6, 2006 (59)

投稿者 吉岡正晴 : 04:06 AM | コメント (0)

June 07, 2006

Billy Preston Dies At 59 (News Bullettin)

[ ENT>OBITUARY>]

(速報)【ビリー・プレストン死去】

ライヴ・ヨーロピアン・ツアー人気キーボード奏者で、かつてビートルズやローリング・ストーンズなどとも共演してきたビリー・プレストンが、6月6日(火曜)、アリゾナ州スコッツデールの病院で死去した。長く腎臓を患っていたが、先週末から容態が急変した。「ナッシング・フロム・ナッシグ」などの大ヒットを放っている。

(詳細は後ほど)

投稿者 吉岡正晴 : 05:27 AM | コメント (0)

May 20, 2006

Johnnie Wilder Of Heatwave Died At 56

[ ENT>OBITUARY>]

【ヒートウェイヴのリードシンガー、ジョニー・ワイルダー死去】

宣告。

人気ソウル・グループ、ヒートウェイヴのリードシンガー、ジョニー・ワイルダー・ジュニアが去る(2006年)5月13日(土曜日)、オハイオ州デイトン郊外のクレイトンにある自宅で死去した。娘のカーラ・ホウキンスによると寝ている間に息を引き取ったという。56歳だった。

ジョニー・ワイルダーは、1949年7月生まれ。4人兄弟のひとり。キース・ワイルダー(54歳、ジョニーの弟)とともに70年代初期にソウル系のヴォーカル&インストゥルメンタル・グループ、ヒートウェイヴをドイツで結成。77年、「ブギー・ナイト」、さらに「オールウェイズ&フォーエヴァー」、「グルーヴ・ライン」などの大ヒットで一躍世界的な人気グループとなった。ドイツで結成したのは、彼らが米軍に所属し、その兵役地で音楽活動を始めたことによる。

ヒートウェイヴ(熱波)というグループ名は彼らが練習していたドイツの建物が、一年中暖房がついていて、夏でもものすごく暑かったため、そこからとった。

グループには、イギリス出身のロッド・テンパートンという人物もいた。彼はグループのヒット曲の多くを書くようになり、ソングライターとして注目を集め、その後クインシー・ジョーンズに認められ、クインシー関連の作品に曲を提供するようになった。そんな中からマイケル・ジャクソンの「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」などが大ヒットしている。

グループには、アメリカ、ドイツ出身者の他、イギリス、チェコ、スペインなどの出身が含まれ、ドイツで結成、イギリスのレコード会社と契約、ヒット、さらにアメリカでもリリースされ大ヒット、とまさにマルチナショナルな活躍をみせた。サウンド的にも、アメリカン・ファンク一辺倒でなく、どこかにヨーロッパ的要素をちりばめており、それが特長となった。

しかし、大ヒットが続いていた79年2月24日ジョニー・ワイルダーがオハイオに戻った時、運転手していた車にヴァンが衝突。ジョニーは重傷をおいその時点では一週間くらいしか命がもたないと宣告される。結局、一命は取り留めたが下半身不随となった。ツアーなどのライヴはしなくなったが、音楽制作などの活動は続けていた。

車椅子のジョニーはこう言う。「ヒートウェイヴ時代に自分が何を獲得し、成し遂げたかはわかっている。だが、その頃は今自分が得ているようなレベルの個人的な満足感というものはなかった」 90年代に入り、彼はソロ・アルバムを発表するが、それは、ゴスペルのアルバムだった。彼は神への感謝とメッセージを歌に託した。『マイ・ゴール』、さらに続いて96年に『ワン・モア・デイ』を発表。

彼は言う。「それぞれの人間が神の元へやってくる道筋は様々だ。僕が今やっている音楽は、自分なりの神への感謝の気持ちなんだ。僕は、自分の人生を悔いていないと自信を持って今は言えるんだ」

79年2月の事故の時に、1週間しか生きられないと医師に宣告されたワイルダーは、その後27年間生き延びた。まさにソウル・サヴァイヴァーである。ご冥福をお祈りする。ヒートウェイヴ、オールウェイズ&フォーエヴァー。

ENT>OBITUARY>Wilder Jr., Johnnie / 2006.5.13(56)

投稿者 吉岡正晴 : 05:00 AM | コメント (0)

April 14, 2006

June Pointer Dies At 52

[ ENT>OBITUARY>]

【ジューン・ポインター死去】 

末娘。

音楽姉妹グループとして70年代から80年代に数多くのヒットを放ったヴォーカル・グループ、ポインター・シスターズの末っ子ジューン・ポインターが去る2006年4月11日(火曜)、カリフォルニア州サンタモニカ大学病院で癌のため死去した。52歳だった。癌の種類は発表されていない。ジューン・ポインターは去る2月から入院していた。

ジューンは、姉のルース、アニタの胸に抱かれながら、また兄のアーロン、フリッツも立ち会う中死去した。ボニーは立ち会わなかった。

ポインター・シスターズは、1971年カリフォルニア州オークランドでポインター姉妹4人、上から順にルース・ポインター(1946年3月19日生まれ)、アニータ(1948年1月23日生まれ)、ボニー(1950年7月11日生まれ)、ジューン(1954年11月30日生まれ)によって結成された。60年代後半はポインター兄弟の、姉妹のほか、上記2人の兄たちと教会で共に歌っていた。

DVD1973年、ニューオーリンズのプロデューサー、アラン・トゥーサンのプロデュースによる『ポインター・シスターズ』でブルーサム・レコードからデビュー。ここからいきなり、ファンキーな「イエス・ウィ・キャン・キャン」が大ヒットし注目されるようになった。ポインター・シスターズは、ソウル、ファンクだけでなく、1940年代のアメリカのノスタルジックなスタンダード曲も歌い、従来のR&Bコーラスグループと一線を画した。また、1976年の大ヒットブラック映画『カー・ウォッシュ』にも出演している。

1978年、3女のボニー・ポインターがソロシンガーとなるために、グループを脱退。ボニーは同年モータウンから「フリー・ミー・フロム・マイ・フリードム」がヒット。一方、ポインターズは3人組となり、一時期人気が低迷したが、1979年、ブルース・スプリングスティーンの作品「ファイアー」をレコーディングしたところ、これがポップ部門で2位まで行く大ヒットとなり、復活。以後、「ヒーズ・ソー・シャイ」(1980年)、「スロー・ハンド」(1981年)などの大ヒットが続出、70年代以上に大きな人気を獲得した。

その後、グループ活動と並行してジューン、アニータもソロ活動をしていた時期もあるが、ジューンはソロアルバム2枚をだしてグループを脱退。ポインター・シスターズは、しばらくアニータとルースの二人で活動、その後、ルースの娘イッサ・ポインターを加えて3人組として活動している。

ポインター・シスターズとしてはグラミー賞を3回獲得している。74年度、「フェアリーテール」で「ベスト・カントリー・パフォーマンス」、84年度「オートマティック」で「ベスト・アレンジ・フォー・ヴォイセス」、同年度「ジャンプ」で「ベスト・ポップ・パフォーマンス」。

ENT>OBITUARY>Pointer, June / April 11, 2006 (52)

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LOS ANGELES (AP) ・June Pointer, the youngest of the singing Pointer
Sisters known for the 1970s and 1980s hits I'm So Excited, Fire, and
Slow Hand, has died, her family said Wednesday. She was 52.

Pointer died of cancer Tuesday at Santa Monica University of
California, Los Angeles, Medical Center, the family said in a
statement. She had been hospitalized since late February and the type
of cancer wasn't disclosed.

She died "in the arms of her sisters, Ruth and Anita and her
brothers, Aaron and Fritz, by her side," the family statement
read. "Although her sister, Bonnie, was unable to be present, she was
with her in spirit."

The Pointer Sisters began as a quartet in the early 1970s with
sisters Ruth, Anita, Bonnie and June. The group became a trio when
Bonnie embarked on a solo career.

The group's hits also included He's So Shy, Automatic and Jump (For
My Love).

The sisters, along with their two older brothers, grew up singing in
the choir of an Oakland church where their parents were ministers.
Bonnie and June formed a singing duo and began performing in clubs
around the San Francisco Bay area. Anita and Ruth later joined the
group and together, they sang backup for Taj Mahal, Boz Scaggs and
Elvin Bishop, among others.

Their first, self-titled album, The Pointer Sisters, debuted in 1973
and the song Yes We Can Can became their first hit. They followed up
with the album That's A Plenty, which featured an eclectic mix of
musical styles ranging from jazz to country and pop. They won the
first of their three Grammy awards in 1974 for best country vocal
performance by a group for the song Fairytale.

Bonnie left the group in 1977, and the sisters recorded several more
albums, scoring several hit songs that became identified as the
soundtrack of the 1980s.

The successful 1984 album Break Out earned two Grammy awards for the
songs Automatic and Jump (For My Love). The album's other hit song,
Neutron Dance, was prominently featured in the movie Beverly Hills
Cop.

June recorded two solo albums, and later left the trio.

Anita and Ruth still perform under the group's name. Ruth's daughter,
Issa Pointer, is the trio's newest member.

Two years ago, June Pointer was charged with felony cocaine
possession and misdemeanor possession of a smoking device. She was
ordered to a rehabilitation facility.

Funeral arrangements were incomplete.


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投稿者 吉岡正晴 : 03:20 AM | コメント (0)

January 30, 2006

Philly Great Gene McFadden Dies At 56

[ ENT>OBITUARY>]

【ジーン・マクファーデン死去】

デュオ。

「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」の大ヒットを送り出したマクファーデン&ホワイトヘッドの二人組のうち、ジーン・マクファーデンが2006年1月27日(金)、癌のためフィラデルフィアのマウント・エアリーにある自宅で死去した。56歳。パートナーのジョン・ホワイトヘッドは、2004年5月、何者かに銃撃され殺されている。マクファーデン&ホワイトヘッドはこれで2人とも死去したことになる。

2004/05/13 (Thu)
John Whitehead Shot Dead
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200405/diary20040513.html

娘のカサンドラ・マクファーデンによると、ジーンは、2004年10月、肝臓と肺に癌が発見され、以後闘病生活を送っていたという。

ジーン・マクファーデンは1949年ノース・キャロライナ生まれ。幼少の頃フィラデルフィアに移り住み、ジョン・ホワイトヘッドと同じノース・フィラデルフィアのエディソン・ハイスクールに通った。二人は音楽好きとして意気投合、友人たちと共に4人組エプシロンズを結成。オーティス・レディングに売り込み、オーティスがマネージした。オーティスは67年12月、不慮の飛行機事故で死去。フィラデルフィアに戻り、音楽活動を続け、スタックスから1枚シングルを出したのち、フィラデルフィアで活動するプロデューサー、ケニー・ギャンブル&レオン・ハフと契約。グループは3人組となり、名前もトーク・オブ・ザ・タウンと変え、レコーディング。しかしヒットには至らず二人はソングライターとして活動を始めた。

二人が初めて書いた曲は「バックスタバーズ(裏切り者のテーマ)」で、これは72年、オージェイズによってレコーディングされ大ヒット。これは彼らにとっても、またオージェイズ所属のフィラデルフィア・インターナショナル・レコードにとっても初のミリオンセラーとなり、続くフィラデルフィア・サウンドの大ブームの火付け役となった。

79年、ソングライターだけでは飽き足らず、彼らは自らアーティスト、マクファーデン&ホワイトヘッドとして「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ(何も、俺たちを止めることはできない)」をレコーディング。これが見事に大ヒット。ニューヨークのラジオ局WBLSのアンセム(テーマ曲)的存在となったり、フィラデルフィア・イーグルスのテーマとなったりした。

マクファーデンは、57歳の妻、2人の息子、2人の娘によって送られる。

■ニュース素材

R&B songwriter Gene McFadden dies at 56
http://www.pittsburghlive.com/x/tribune-review/trib/newssummary/s_418166.html

Philly great Gene McFadden dies at 56 Teamed with John Whitehead for a string of hits
http://www.macon.com/mld/dailynews/news/local/13733963.htm?source=rss&channel=dailynews_local

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McFadden & Whitehead: Finally History Came To The End

【マクファーデン&ホワイトヘッド、力尽きる】

ピリオド。

グループの歴史に、いつかピリオドが打たれるということは頭で理解していても、それが現実に起こるとなかなか理解し辛いものだ。『ソウル・サーチン』の生みの親とも言っていいジョン・ホワイトヘッドのパートナー、ジーン・マクファーデンも亡くなってしまった。

ジョンの2004年の死去のニュースも衝撃だったが、ジーンの死去で、マクファーデン&ホワイトヘッドの二人がこの世からいなくなったということで、重いものを感じる。いつまでも、すべてが同じでい続けることはないのだなあ、と思う。

ジョンは、「ジーンが世界で一番のオーティス・レディングのファンだった。だから、俺は世界で二番目のオーティスのファンかな」と笑った。ジーンの歌声にはあちこちにオーティスの色彩が強い。

彼らの歌う「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」は、本当にポジティヴなメッセージを携えた傑作曲だ。マクファーデン&ホワイトヘッドの12インチ・ヴァージョンにはインストゥルメンタルが収録されている。僕は『ソウル・コネクション』で毎月紹介している「ソウル・サヴァイヴァー」のテーマ曲に、このインストを使っているほどだ。

天国で二人は再会して、また一緒に歌っているかもしれない。なにしろ、ハイスクール時代からの親友同士だから。ジョンから遅れること1年半で、ジーンも天国の住人になった。ご冥福をお祈りしたい。

ENT>OBITUARY>McFadden, Gene/ 2006.01.27 (56)

投稿者 吉岡正晴 : 01:17 AM | コメント (0)

January 21, 2006

Wilson Pickett Dies At 64

[ ENT>OBITUARY>]

ウイルソン・ピケット死去

シャウト。

独特のシャウト唱法で知られるR&Bシンガー、ウィルソン・ピケットが去る(2006年)1月19日アメリカ東部ヴァージニア州レストンという街の病院で死去した。64歳だった。代表曲は「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」(65年)、「634-5789(ソウルズヴィルUSA)」(66年)、「ランド・オブ・1000ダンセス(邦題、ダンス天国)」(66年)など。この一年ほど体調を崩していたという。現在はヴァージニア州アッシュバーンに在住。ニックネームは「ウィックド・ピケット」(邪悪な、いたずらな、わんぱくな・ピケット)。

アレサ・フランクリンは「同じデトロイト育ちの仲間として、ウィルソン・ピケットは、あらゆる時代において最高のシンガーのひとりでした。ひじょうに残念です。しばらく前に彼と直接話ができてよかったです」とコメントした。

DVD最近の彼が動く映像としては2002年発表の映画『オンリー・ザ・ストロング・サヴァイヴ(邦題、ソウル・サヴァイヴァー)』での出演がある。同映画をプロデュースしたロジャー・フリードマンは、「ピケットは、まさにジェームス・ブラウンに対するアトランティックからの回答だった」とコメント。

フリードマンは先週、ピケットと話した。それによると、「健康問題は、彼はそれほど気にしているようではなく、カンバックすることを考えていた」という。

ウィルソン・ピケットは、1941年3月18日アラバマ州プラットヴィル生まれ。デトロイトに移り住み、ゴスペルグループ、ファルコンズに在籍。ここには、のちに「ノック・オン・ウッド」などの大ヒットを放つエディー・フロイド、あるいはサー・マック・ライスなどが在籍。ファルコンズは「アイ・ファウンド・ラヴ」(62年)のヒットを放ち、ピケットはその後独立。63年、ダブルLからだした「イフ・ユー・ニード・ミー」が小ヒット。その後65年、アトランティックのプロデューサー、ジェリー・ウェクスラーに見出され、彼とともに南部スタックスのスタジオへ行き、レコーディング。移籍第一弾「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」が大ヒットし、以後次々とヒットを放つようになった。

以後、「634-5789(ソウルズヴィルUSA)」、「ランド・オブ・1000ダンセス(邦題、ダンス天国)」、「ムスタング・サリー」、「ファンキー・ブロードウェイ」、「エンジン・エンジン・ナンバーナイン」などヒット多数。1991年、ロックンロール・ホール・オブ・フェイム入り。2002年、ソウルミュージックのドキュメンタリー映画『オンリー・ザ・ストロング・サヴァイヴ』に登場した。

激しくシャウトし、ステージ処狭しと派手に動き、観客を圧倒するパフォーマンスが持ち味。またかなり自由奔放なキャラクターが、時に話題を提供した。91年には恐喝などの容疑で逮捕されたり、また飲酒運転で捕まったこともある。ピケットは、「もし自分が歌手でなければ、何をしていたかわからない。だが神様が(自分に)歌う才能を」と振り返る。映画『ソウル・サヴァイヴァー』の中では、自分の6000ドルのスーツや、シャツに1000ドルを払ってもいいなどと話している。

日本には74年、コンサートで来ている。

ENT>OBITUARY>Pickett, Wilson / March 18, 1941 -- January 19, 2006

投稿者 吉岡正晴 : 02:33 AM | コメント (0)

January 07, 2006

Lou Rawls Dies Of Lung Cancer At 72

[ ENT>OBITUARY>]

【ルー・ロウルズ死去】 

低音。

低音の魅力で60年代から活躍してきたヴェテラン・ソウル・シンガー、ルー・ロウルズが1月6日(金曜)朝、ロス・アンジェルスのシーダース・サイナイ病院で肺ガンのため死去した。72歳だった。ロウルズは、先月、脳にも転移していたガンの手術のため入院していた。彼は2004年12月に肺ガンが見つかり、さらに2005年5月脳にもガンが発見されていた。死の床には2004年1月に結婚した妻のニーナさん、子供たちが付き添った。ロウルズは、ルーアンナ・ロウルズ、ルー・ジュニア・ロウルズ、ケンドラ・スミス、エイデン・ロウルズら4人の子供たちによって送られる。

ロウルズは2005年ワールドシリーズ第二戦が故郷シカゴで行われた時、国歌斉唱した。これは、シカゴ・ホワイトソックス(井口資仁選手所属)とヒューストン・アストロスが対戦した10月23日のこと。このシリーズは、シカゴが4連勝してワールド・シリーズを制している。

ルー・ロウルズは、本名ルールス・アレン・ロウルズ、1933年12月1日シカゴ生まれ。(これまで生年は広く1935年とされていたが、今回33年に改められた) シカゴのサウスサイドで祖母によって育てられた。幼少の頃からゴスペルを歌い頭角を現し、当初はゴスペルシンガーとして活躍。その後、ソウル、ジャズ、ポップと芸域を広げていった。ソウル・ジャイアントのひとりサム・クックとは幼馴染で、サムとともにピルグリム・トラヴェラーズというグループで巡業にでていた。そんな58年、交通事故に会う。同乗者の一人は死去、サムは軽症ですんだが、ルーは大怪我を負い、病院へ搬送される途中で一度は死亡を宣告された。しかし、一週間近くの意識不明を乗り越えその後復活。これを機に彼はゴスペルから世俗的音楽(ソウル、ジャズ)などに転向することになる。

ロスアンジェルスに本拠を移し、コーヒーハウス、ライヴ・ハウスなどで歌い始めるが、キャピトル・レコード近くのコーヒー・ハウスで歌っていたところをキャピトルのプロデューサーに見出され、61年、キャピトル・レコードと契約。ジャズ系の作品を歌いヒットを出す。中でも66年の「ラヴ・イズ・ア・ハーティン・シング」はソウル・チャートで1位を記録、彼の出世作となった。さらに、67年「デッドエンド・ストリート」、71年MGMへ移籍して「ナチュラル・マン」などの大ヒットがでた。「ラヴ・イズ・・・」は、アーサー・コンレイの大ヒット「スイート・ソウル・ミュージック」の中で、ルー・ロウルズの名前とともに、歌われている。

そして、彼にとって最大のヒットとなったのが、76年、フィラデルフィア・インターナショナルからリリースされた「ユール・ネヴァー・ファインド・アナザー・ラヴ・ライク・マイン(邦題、別れたくないのに)」。ポップなソウル曲でソウル・チャートで1位、ポップ部門でも2位を記録、ゴールド・ディスクに輝いた。グラミー賞に12回ノミネートされ、「デッドエンド・ストリート」、「ナチュラル・マン」、「アンミステイカブリー・ルー」で3回受賞している。

DVD彼の最大の魅力は、4オクターヴが出るという低音の声。この声だけで、彼とわかり、しかもその渋さで爆発的人気を得た。ゴスペルをルーツにしながらも、ソウル、R&B、ポップ、ジャズとあらゆる音楽ジャンルに挑戦したことも、彼の革新的なところだった。また、70枚以上のアルバム、18本の映画、16本のテレビ・シリーズにも出演、CMでもおなじみになっている。映画の中には『ブルース・ブラザース2000』などがある。アメリカでは76年以来ビールのアンハイザー・ブッシュのCMで彼の存在がよく知られている。

また、ロウルズは様々な慈善事業、社会活動にも熱心だった。特によくしられているのが、ユナイテッド・ニグロ・カレッジ・ファンド(黒人大学基金)への資金集めのチャリティー・イヴェントでの活動。これまでに2億ドル以上を集めたという。

日本には71年、89年、90年と来ている。また、90年にはホンダのCMで「ラヴ・ミー・テンダー」が使われ、日本でも人気となった。

■ルー・ロウルズ関連記事

2005/01/18 (Tue)
Lou Rawls, Daddy Again At 69
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200501/diary20050118.html

この時点では1935年12月生まれということで、69歳で父にとなっている。

■ルー・ロウルズ公式ウェッブページ(英語)

http://www.lourawls.com

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Lou Rawls: A Man From Dead End Street

思い出。

ルー・ロウルズには3度インタヴューしていた。調べてみると、89年6月20日、21日、90年9月19日の3回。内容はテープを聴き返さないと思い出せないが、ひとつ強力に覚えているのが、彼がワインを飲みながらインタヴューに応じていたこと。けっこう、いい調子で飲んでいて、かなりのりのいい話っぷりになっていた。

そのときは旧ブルーノートでライヴをして、それを見た。ジャズ曲、スタンダードが多かったと記憶するが、もちろん、十八番の「ユール・ネヴァー・ファインド・・・」は歌った。

同じ来日時だと思うが、夜、車で西麻布の交差点を過ぎたちょうどキャンティの前を通ると、ルー・ロウルズがキャンティから出てきたか、入るところだった。車の中から「ミスター・ロウルズ!!」と声をかけると、こちらによってきて、手を振ってくれた。ルー・ロウルズというと、あのキャンティ前の彼が思い出される。

彼の作品のひとつに「デッドエンド・ストリート」という67年のヒットがある。渋いブルース調の曲だが、この冒頭部分がいわゆる「モノローグ」という語りが入っている。これなど、当時は「語り」と言われていたが、今で言えば、「ラップ」だ。そういう意味で、ラップのオリジネイターということも言えなくはない。また彼のもうひとつの代表曲「ナチュラル・マン」もイントロに長尺の「モノローグ」(語り)が入っている。そして、その語りからいきなり歌に移行するところがめちゃくちゃかっこいい。

この歌はこうだ。「みんなはこの街(シカゴ)はリッチな大都市だという。だが、俺はその中のもっとも貧しい土地に住んでいる。明日の希望などない行き止まりの道に住んでるのだ。心のない街。6歳になる前に喧嘩の仕方を学んだ。行き止まりの道に住んで、生き延びていく唯一の方法が喧嘩で強くなることだ。タフで強くならなければならない。二度とこの行き止まりの道には戻らない」

ロウルズは、そんなデッド・エンド・ストリートから抜け出し、見事成功して、世界を手に入れた。

ワールドシリーズの第二戦はあいにく見逃したが、ホワイトソックスの選手(井口を含む)は、みんなルーの国歌を聴いたということになる。シカゴの4連勝は、シカゴアンのロウルズにとって、大きなプレゼントだっただろう。

ロウルズの公式ホームページを見ると、11月まで予定が入っていた。1月から4月まではけっこう入っているが、すべてこれらはキャンセルとなる。

ご冥福をお祈りしたい。

ENT>OBITUARY>Rawls, Lou / January 6, 2006

++本日はマンハッタンズのライヴ評をアップする予定でしたが、ルー・ロウルズ死去に伴い記事を差し替えました。マンハッタンズのライヴ評などは後日掲載します。

投稿者 吉岡正晴 : 05:56 AM | コメント (0)

(速報)ルー・ロウルズ死去

[ ENT>OBITUARY>]

(速報)ルー・ロウルズ死去

Lou Rawls Dies Of Lung Cancer

【ルー・ロウルズ死去】 

低音の魅力で60年代から活躍してきたヴェテラン・ソウル・シンガー、ルー・ロウルズが6日(金曜)、ロス・アンジェルスのシーダース・サイナイ病院で死去した。オフィシャルには1935年12月1日生まれとされていたため享年70の報道もいくつかあるようだが、この死去にあたって家族はルーが72歳だったことを明かした。1933年生まれということになる。肺ガンだった。

【詳細は後ほどアップします】

投稿者 吉岡正晴 : 02:50 AM | コメント (0)

September 23, 2005

Willie Hutch Dies At 59

[ ENT>OBITUARY>]

【ウィリー・ハッチ死去】

コーポレーション。

モータウンで多くのヒット曲を制作、また、自らもシンガーとして活躍していたウィ リー・ハッチが9月20日(火曜)、テキサス州ダラスで死去した。59歳だった。死因は 発表されていない。

ウィリー・ハッチは1946年ロスアンジェルス生まれ。本名、ウィリー・マッキンレー・ ハッチンソン。テキサス州ダラスで育った。ヒップホップグループ、アボーヴ・ザ・ ロウのメンバー、グレゴリー・ハッチンソンの叔父にあたる。64年にインディでシン グルを出したこともある。1970年頃、友人のハル・デイヴィスに誘われ、モータウンで 曲作りに参加するようになった。

当初は、複数いるメンバーの一員としてソングライター、プロデューサーとして活動 していた。初期の作品には、ジャクソン・ファイヴで歌われ大ヒットした「アイル・ ビー・ゼア」(のちにマライア・キャリーもカヴァー)、「ネヴァー・キャン・セ イ・グッドバイ」、マイケル・ジャクソンのソロヒット「ガット・トゥ・ビー・ゼア」 などがある。ジャクソン・ファイヴ時代の作品のクレジットは「ザ・コーポレーション」となっていて、当時は個人の名前はでていなかった。「ザ・コーポレーション」 には、他にフレディー・ペレンなどもいた。ハッチはその後もモータウン所属のミラクルズ、マーヴィン・ゲイ、スモーキー・ロビンソンなどに作品を提供。

また、73年にはシンガーとしてブラックムーヴィー『ザ・マック』(リチャー ド・プライアー主演)のサントラを担当。ここから自らが歌った「ブラザース・ゴ ナ・ワーク・イット・アウト」「スリック」などがヒットした。さらに、ブラック ムーヴィーのクイーンとも言えるパム・グリアの『フォクシー・ブラウン』のサント ラにも参加。「フォクシー・ブラウンのテーマ」をヒットさせた。また、75年には 「ラヴ・パワー」が大ヒットしている。

ご冥福をお祈りしたい。

投稿者 吉岡正晴 : 12:45 AM | コメント (0)

August 10, 2005

Little Milton Dies At 70

[ ENT>OBITUARY>]

【リトル・ミルトン死去】

ブルース。

2005-0810-0459.jpg60年代から70年代にかけて多くのブルース・ヒット、ソウル・ヒットを放ったシンガー、リトル・ミルトンが去る8月4日、メンフィスで死去した。一週間ほど前に心臓発作で入院していた。70歳だった。

リトル・ミルトンの芸名で知られるシンガーの本名は、ジェームス・ミルトン・キャンベル、1934年9月7日ミシシッピー州インヴァーネス生まれ。ミュージシャンだった父親の影響で音楽に興味を持ち、その道に進んだ。当初は、よく聴いていたカントリーのラジオ番組『グランド・オール・オプリー』などの影響を受け、ギターを弾き始める。当初のアイドルは、ギタリストのTボーン・ウォーカーだった。

やはり南部を中心に活動していたアイク・ターナーと知り合い、1953年、彼の紹介でメンフィスのサン・レコードでレコーディングを始める。その後、1950年代、シカゴのチェス・レコード、メンフィスのスタックス・レコードに移籍、ヒットを放った。

中でも1965年、「ウィ・ゴナ・メイク・イット」は、ソウル・チャートで1位になった。71年、スタックスに移籍。72年には「ザッツ・ホワット・ラヴ・ウィル・メイク・ユー・ドゥ」がヒット。また、「ワッツタックス」にも出演している。76年、マイアミのTKプロ傘下グレイズ・レコードに移籍、さらにマラコ・レコードに移籍した。

エレキギターを持ったブルースマンとして、また、ソウル、R&Bの分野でも人気を獲得し、ブルースとR&B、ソウルの架け橋ともなった。

リトル・ミルトンの成功のきっかけを作ったアイク・ターナー(=73歳。アイク&ティナ・ターナーのアイク)は、こう振り返る。「ミルトンが数週間前、電話をかけてきて言ったもんだ。俺たち、もっと仲良くしようぜ。ロスコー・ゴードンが死んだ。そのすぐ前にタイロン・デイヴィスも死んだ。俺たち、子供時代一緒にいったじゃないか。あの頃、俺もミルトンもジミ・ヘンドリックスみたいに痩せてたな。今じゃ、俺の彼女は彼のことを『大きなリトル・ミルトン』と呼ぶんだからな。ちゃんとプレイできるいい連中が皆、木から落ちていくんだ」

チェス時代にレーベルメイトでもあった女性ブルース・シンガー、ココ・テイラーはミルトンの他界に衝撃を受けこう語った。「彼はブルースマンの中のブルースマンだったわ。私がブルースウーマンの中のブルースウーマンであるようにね。素晴らしい人物であり、ブルース・ギタリストであり、シンガーだった。ブルースを知る人間で、今まで一度たりともリトル・ミルトンの悪口を言う人に会ったことがないわ」

ミルトンの友人は、彼の音楽だけでなく、彼の人間としての暖かさ、ユーモアのセンスを口々に言う。

シカゴのソウルマンでありブルースマンでもあるオーティス・クレイはこう述べた。「俺たちにはお互いの呼び名があったんだ。だけど、それは印刷なんかできない言葉なんだ。お互い愛情を込めてそう呼んでいたんだけどね」

リトル・ミルトンは1988年、ブルース界のグラミー賞とも言える「W.C.ハンディー・アワード」を受賞。また、ブルース・ホール・オブ・フェイムにも選ばれている。

また、リトル・ミルトンは3回来日している。1983年4月、渋谷ライヴイン他全国各地、88年10月、東京・簡易保険ホール他全国各地、93年5月、渋谷クワトロ他全国各地で公演した。

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Source: Chicago Suntimes
http://www.suntimes.com/output/entertainment/cst-ftr-milton06.html

Little Milton: an R&B great in any era

August 6, 2005

BY JEFF JOHNSON Staff Reporter

Little Milton Campbell's five-decade career is the story of postwar rhythm and blues in microcosm.

The versatile Southern soul-blues performer, who died Thursday in Memphis, Tenn., at age 70, was among the most versatile performers in the blues field. He had the guitar chops to hold his own during the rough-edged electric blues period of the 1950s, the gritty, gospel-trained voice and songwriting talent to score hit after hit in the soul-powered '60s and early '70s and the adaptability to survive during the disco years of the late '70s. Even in the '80s and '90s, when R&B was watered down by synthesizers and electronic beats, the sheer vitality of his songs shined through.

In 1999, when he made the duets album "Welcome to Little Milton," he held his own in the studio with many of the roots-rockers and blues-rock stars who idolized him, such as Dave Alvin, Gov't Mule and Susan Tedeschi. That album brought the only Grammy nomination of his career.

And his last album, "Think of Me," released in May on Telarc, marked a return to his classic sound. Milton's throaty tenor and single-string runs were in perfect form on an album that he hoped would bring a wider audience.

"He never got the recognition he deserved," said Ike Turner, who met Little Milton when they were teenagers in Greenville, Miss., just breaking into the music business.

Turner said he attended B.B. King's concert Thursday night in Highland, Calif., and the two were reflecting on the recent loss of many Delta-based blues stars who got their start in the 1940s and '50s.

"Milton called me a few weeks ago and said, 'Man, we should stay closer,' " Turner said. "Rosco Gordon had just died, and just before him Tyrone Davis. We were kids together, back when me and Milton were skinny like [Jimi] Hendrix. Now my girl calls him 'Big Little Milton.' ... All of the good guys who could play are falling like trees."

Turner, 73, played a vital role in Milton's career, steering him toward Sam Phillips in 1953 at Sun Records in Memphis. Later, when Turner had become established in Downstate East St. Louis, he sent for Milton, who landed at St. Louis-based Bobbin Records.

But it was Chicago's Checker Records, a Chess imprint, for which he scored his biggest hits, including "We're Gonna Make It." The 1965 song became a civil rights anthem, reaching No. 1 on the R&B chart and No. 25 on the pop chart.

His music became a staple on the play lists of Chicago's black-oriented radio stations. Late '60s hits such as "If Walls Could Talk," "Feel So Bad," "Who's Cheating Who?" and "Grits Ain't Groceries" marked a time in the life of the city's African-American youth, the same way the Beach Boys and the Buckinghams did for whites.

Chicago blues queen Koko Taylor, Milton's label mate at Chess, said she was deeply saddened by Milton's passing. "He was nothing but a bluesman, just like I'm nothing but a blueswoman," Taylor said. "He was a great blues person, guitarist and singer. I don't think I've ever met anybody who knows about the blues who could say anything bad about Little Milton."

After the Chess empire collapsed, Milton found his way to another seminal R&B label, Memphis-based Stax. Younger fans found Milton through his appearance in the 1973 concert film "Wattstax," for which he performed "Walking the Back Streets and Crying."

Stax folded in 1976, and Milton tried several other labels, finally settling at the R&B specialist Malaco. But he felt he never got the proper promotional push there.

While he was making the Telarc album last fall, he told the Sun-Times, "I'm trying to see if we can get a different share of exposure that we haven't gotten since the early Chess and Stax days. I'm not criticizing Malaco, but I hung in there for 19 years, waiting for promises that never came to be."

Jon Tiven, who co-produced and co-wrote much of "Think of Me," says, "Milton was very well established in the African-American community, and one of the reasons he came to me is he felt he wanted to get more recognition in the white community. And he was well on his way to accomplishing that with this album."

But Milton's friends will remember his warmth and sense of humor as much as his music.

Tiven said he last saw Milton perform at an open-air concert in Nashville, Tenn. Tiven, who had taken his dog to the show, arrived backstage sporting sunglasses. He introduced himself to Milton's road manager, who informed Milton that Tiven was there to see him. Milton took one look and shouted, "Jon Tiven isn't blind!"

Asked what he would miss most about Little Milton, Chicago soul-blues singer Otis Clay replied, "There's a word that we always called each other that you couldn't print. It was all with affection."

Services are set for 11 a.m. Wednesday at Greater Love Church Ministries in Southaven, Miss.

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ENT>OBITUARY>Little Milton / August 4, 2005

投稿者 吉岡正晴 : 04:56 AM | コメント (0)

July 25, 2005

Tribute To Eugene Record Of Chi-Lites

[ ENT>OBITUARY>]

【シャイ・ライツで30分】 

黙祷。

昨日の『ソウル・ブレンズ』の「4PMアット・スロー・ジャミン」は、急遽、金曜(22日)に亡くなったユージーン・レコードへのトリビュートということで、シャイ・ライツの作品ばかりを30分間ノンストップでかけた。かけた曲は順に「トビー」「ハヴ・ユー・シーン・ハー」「イエス・アイム・レディー」「コールデスト・デイズ・オブ・マイ・ライフ」「ア・ロンリー・マン」そして最後に「オー・ガール」。6曲連続。

スロー・ジャミンを全部一アーティストでやったのは、先日のルーサー以来だが、こうして、シャイ・ライツだけ連続でかける番組など、おそらく日本広しと言えどもこの『ソウル・ブレンズ』くらいしかないのではないだろうか。微妙に自負。

本当にこうして流しているだけで、空気が変わってくる。オッシー曰く「いやあ、(ニューヨークの)WBLSみたいですねえ」。いや、ほんとほんと。6曲連続でかけるだけで、何百万語を語るよりも、はるかにトリビュートになるから、音楽の力は強い。

WBLSがルーサーの時に24時間ルーサーだけをかけたという話を聞いたときには感激したものだが、シャイ・ライツの場合、シカゴのソウル・ステーションは24時間シャイ・ライツをかけ続けたのだろうか。

シャイ・ライツは86年9月に渋谷のライヴインに来日している。75-6年頃だったか来日話があったが、流れた。その時はチケットを買っていてかなり楽しみにしていたが、中止でけっこうショックだった。FENのDJ、ピート・パーキンスという人が来日を企画したことをおぼろげに覚えている。渋谷のライヴインは、行っていると思うのだが、どうにもはっきりした記憶がない。

シャイ・ライツの4作目『ア・ロンリー・マン』(72年)はリリースされた頃よく聴いた。72年の大ヒット「オー・ガール」を含むアルバムで、ここには長尺8分を越える「コールデスト・デイズ・・・」が収録されている。「ア・ロンリー・マン」も、ちょっとミディアム調の「ビーイング・イン・ラヴ」も、たまらなく素晴らしい。このメロディーとユージーンのリード・ヴォーカル、特にナレーションのところなど、ソウル・バラードの王道を行く。

「One month ago, I was a happy as a lurk(一月前まで、僕は鳩のように幸せだった)」(「ハヴ・ユー・シーン・ハー」のオープニング・ナレーション)という冒頭のセリフは、覚えるほどまで聞いた。

今日かけた6曲は、いずれも失恋ソングというか、恋がうまく行っていない状況のラヴソング。ユージーンはこういう曲を書かせ、歌わせると最高だ。

シカゴのともし火、今、ひとつここに消え行く。ユージーン・レコードへ黙祷。

++お勧めアルバム

シャイ・ライツ 『オー・ガール +1』

シャイ・ライツ 『グレイテスト・ヒッツ』

シャイ・ライツ 『(フォー・ゴッズ・セイク)ギヴ・モア・パワー・トゥ・ザ・ピープル 』

シャイ・ライツ 『アイ・ライク・ユア・ラヴィン(ドゥー・ユー・ライク・マイン)+2 』

ENT>OBITUARY>Record, Eugene>2005.07.22 (64)

投稿者 吉岡正晴 : 12:20 AM | コメント (1)

July 24, 2005

Eugene Record Of Chi-Lites Dies At 64

[ ENT>OBITUARY>]

【シャイ・ライツのリード・シンガー、ユージーン・レコード死去】 

シカゴアン。

2005-0724-0537.jpgシカゴ・ソウルのR&Bヴォーカル・グループ、シャイ・ライツのリーダー的存在でリード・シンガーでもあったユージーン・レコードが7月22日(金)、シカゴ郊外の娘の自宅で癌のため死去した。64歳だった。

ユージーン・レコードは1940年12月23日イリノイ州シカゴ生まれ。幼少の頃ギターをもらい弾き出したことから音楽にのめりこむようになり、十代の頃から音楽活動を開始。十代後半ですでにR&Bヴォーカル・グループを結成した。58年頃、二つのヴォーカル・グループ(シャンターズとディサイデロス)が合体。グループ名はハイ・ライツとなった。その後64年頃にレコード会社を移籍する時に、名前をシャイ・ライツとした。シャイ・ライツは、シカゴの灯の意味。68年、シカゴの有力プロデューサー、カール・デイヴィスによってブランズウイック・レコードと契約。彼らはデイヴィスのプロデュースで次々と作品を送り出すようになる。

69年、「ギヴ・イット・アウェイ」が初ヒットしたのを皮切りに次々とヒットを出すようになる。70年のヒット「アー・ユー・マイ・ウーマン」(ソウル・チャートで最高位8位)は、後にビヨンセの「クレイジー・イン・ラヴ」にサンプリングされ再び注目された。71年暮れにだしたバラードの「ハヴ・ユー・シーン・ハー」、さらに72年の「オー・ガール」の2大ヒットで、一躍人気グループに。

美しいメロディーとユージーンのリード・ヴォーカルがグループの最大の魅力だったが、76年までに所属レコード会社が脱税で告発され、それにともないグループに税務調査が入り、同じく脱税で罰金刑を言い渡されグループ活動に危機が訪れた。さらに、ユージーンはこうしたことに嫌気がさしグループを脱退し、76年、ソロへ独立。だがソロとしてはそれほどのヒットを放つことはなかった。

またユージーンは一時期、ブランズウィック・レコード所属の女性R&Bシンガー、バーバラ・アクリン(1943~1998)(後にスイング・アウト・シスターズでヒットする「アム・アイ・ザ・セイム・ガール」で有名)と結婚していた。

シャイ・ライツは1980年、一度オリジナル・メンバーで再結成。メンバーは頻繁に入れ替わったが、90年に再びユージーンが脱退していた。88年、ユージーンはクリスチャンの洗礼を受け、93年にゴスペル・アルバムを出している。また、ユージーンは、ここ数年を癌を患っていた。現在の妻ジャッキーとは31年間連れ添った。シカゴ生まれ、シカゴ育ちの生粋のシカゴアンだった。

また、シャイ・ライツとしては映画『ソウル・サヴァイヴァー(Only The Strong Survive)』に出演していたが、ここで登場していたのはマーシャル・トンプソン、ロバート・レスター、アンソニー・ワトソンの3人でユージーンは参加していなかった。このライヴの模様は99年5月に収録されていた。

ENT>OBITUARY>Record, Eugene>2005.07.22 (64)

nasaさん、第一報の情報ありがとうございます。

投稿者 吉岡正晴 : 05:04 AM | コメント (1)

July 16, 2005

Shirley Goodman Dies At 69

[ ENT>OBITUARY>]

【シャーリー・グッドマン死去】

他界。

1956年夏に「レット・ザ・グッドタイムス・ロール」のヒットを放ったデュエット、シャーリー&リーのうち、シャーリー・ピクスレー・グッドマンが、去る7月5日ロス・アンジェルスで死去した。69歳。シャーリー・グッドマンは、1936年6月19日ニューオーリンズ生まれ(35年説も=その場合は70歳)。男性シンガー、レオナード・リーと組んで、シャーリー&リーとしてニューオーリンズを本拠に活躍。52年、「アイム・ゴーン」の大ヒットで一躍知られるようになる。

その後56年に「レット・ザ・グッドタイムス・ロール」が大ヒット。しばらくシャーリー&リーとして活動していたが、63年、パートナーを変え、シャーリー&ジェシー(・ヒル)として活動。

75年、ニュージャージー州のインディ・レーベル、ヴァイブレーション(シルヴィア・ロビンソンが経営)から、シャーリー&カンパニーとして「シェイム・シェイム・シェイム」の大ヒットを放った。この曲は当時ニューヨークを中心としたディスコでヒット。日本でも一部のディスコでプレイされた。この大ヒットの後、シャーリーは79年頃まで音楽活動を続けていたが、79年に引退していた。

なお、シャーリー&リーのうち、レオナード・リー(1935年6月29日生まれ)は、1976年10月23日、心臓発作で41歳の若さで他界している。

ENT>OBITUARY>Goodman, Shirley>2005.07.05 (69)

投稿者 吉岡正晴 : 03:07 AM | コメント (0)

July 10, 2005

Luther's Funeral Was Celebration

[ ENT>OBITUARY>]

【ルーサー葬儀は、セレブレーション】 

セレブレーション。

去る7月1日に死去したソウル・レジェンド、ルーサー・ヴァンドロスの葬儀が、8日(金)午前11時(日本時間9日午前0時)からニューヨーク・マンハッタンのリヴァーサイド教会で多くのエンタテインメント界の友人などに囲まれ行われた。スティーヴィー・ワンダー、アレサ・フランクリン、パティー・ラベルなどが歌い、スピーチをした。地元のR&Bステーション、WBLSはこの日24時間ルーサー・トリビュートを放送した。

リヴァーサイド教会は120丁目から122丁目までをまたぐイーストサイドにある大きな教会。この日、関係者、友人などが2400名以上が教会に訪れ、さらにこのほか一般のファンが沿道に列をなした。一般のファンは、5列に並んで献花したが、その列は125丁目のアポロ劇場のあたりまでつながっていたという。中にはマイアミから1400マイルも車を運転してこの葬儀にかけつけたファンもいた。

この日はアポロ劇場のマーキー(歩道につきでている看板)には、ルーサー・ヴァンドロスの名前が出ていた。

ヴァンドロスのゴールドのカスケットは、教会の中央に置かれ、その横で友人のシンガーたちが歌った。スティーヴィー・ワンダーは、先ごろのロンドンでの同時多発テロについて「殺戮とテロリズムは、神の願うところではない。愛だけが(人々を救う)唯一の方法だ」とコメントしてから、レイ・チャールズの葬儀の時と同じく「アイ・ウォント・コンプレイン」を熱唱した。

(スティーヴィーのレイ・チャールズの葬儀での歌とコメントについての日記)

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200406/diary20040622.html

スピーチをするあらゆる人からヴァンドロスを、アーティストとしてだけでなく、ひとりの人間として賞賛する声が続いた。

パティー・ラベルは、ゴスペル曲「アイ・ドント・フィール・ノー・ウェイズ・タイアード」を歌い、ルーサー・ヴァンドロスの母、メアリー・アイダが息子に向けて書いた詩を読み上げた。「神はあなたに世界のために歌う機会を与えました。そしてあなたは神からいただいた物を世界に返したのです。それは、愛です」

親友アレサ・フランクリンは、ソウルフルな「アメイジング・グレイス」を熱唱。アドリブでヴァンドロスの家族への言葉をメロディーにのせた。ルーサーの葬儀は、セレブレーションになった。

ルーサーを乗せたカスケットは、リヴァーサイド教会からアポロ劇場の横を通り抜け、墓地に向かった。その時、マンハッタンには小雨が降り注いでいた。

ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)

投稿者 吉岡正晴 : 03:21 AM | コメント (0)

July 09, 2005

Ray Davis Of Parliament/Funkadelic Dies At 65

[ ENT>OBITUARY>]

【レイ・デイヴィス死去】 

Pファンク。

パーラメント/ファンカデリック(Pファンク)のベース・ヴォーカル、レイ・デイヴィスが2005年7月5日(火曜)、ニュージャージー州ニュー・ブランズウィックのロバート・ウッド・ジョンソン大学病院で、呼吸器疾患で死去した。65歳だった。

Pファンクの総帥、ジョージ・クリントンは次のような声明を発表した。「私たちはみなレイをしのぶ。レイは、パーラメントのベース・ヴォーカルだった。だが、彼は本当にパーラメントの心だった。きっと新しい世界でも歌っているだろう」

レイモンドは、1940年3月29日サウス・キャロライナ州サムター生まれ。12人兄弟の末っ子。愛称「スティング・レイ」。子供の頃から教会でゴスペルを歌っていた。1961年、それより先にニュージャージーで結成されたR&Bのドゥワップ・グループ、パーラメンツに加入。パーラメンツとして、「アイ・ウォナ・テスティファイ」(67年)などのヒットを放った。その後71年、グループ名はパーラメントに。また、グループを作ったジョージ・クリントンはパーラメントのほかにほぼ同じメンバーで同系統のファンカデリックというグループを結成。実質的には同じグループだが、グループ名を違えるだけで二つのレコード会社と契約するという前代未聞のことを行った。

レイ・デイヴィスは、ファンカデリックでもベース・ヴォーカルを担当。「ギヴ・アップ・フォー・ザ・ファンク」、「ワン・ネイション・アンダー・ザ・グルーヴ」など多数のヒットで歌った。

その後、84年にPファンクを離れ、ザップ/ロジャーに参加。88年頃までザップの一員となった。その後、しばらく歌手活動を辞め、サウスキャロライナに戻った。しかし、93年9月、テンプテーションズから思いもよらぬ誘いがきた。

デトロイトの名門ソウル・ヴォーカル・グループ、テンプテーションズのベースシンガー、メルヴィン。フランクリンが体調を崩し、カムバックできそうにないので、グループに参加しないかというオファーだった。メルヴィンは結局95年2月に死去。レイも、しばしテンプスに参加した。

ENT>OBITUARY>Davis, Ray>2005.07.05 (65)

投稿者 吉岡正晴 : 02:59 AM | コメント (0)

July 06, 2005

Luther Vandross Talks In Brooklyn Accent

[ ENT>OBITUARY>]

【ルーサーのアクセント】

後悔。

僕個人のルーサーへの思いもかなりある。80年代後半から、どうしてもライヴを見たいアーティストで、見ることができないアーティストが2人いた。アレサ・フランクリンとルーサー・ヴァンドロスである。二人とも飛行機嫌いゆえに日本には来ないとされていたアーティストである。その後90年代に入ってバーブラ・ストライサンドがそのリストに加わる。ストライサンドの場合は、めったにライヴをやらないから、これは難しい。しかも、引退とか言ってるし。アレサのライヴ情報は、けっこう追いかけ、結局91年にニューヨークで捕まえることができた。だが、ルーサーはかなわなかった。僕のライヴ人生の中でも最大の悔いかもしれない。

ルーサーは、基本的によくライヴをやっていた。80年代後期に日本の業界関係者も何人か見ているし、またライヴのヴィデオも出ているので、その雰囲気はある程度はつかめる。しかし、あのヴェルヴェット・ヴォイスは一度生で見たかった。

Never Too Much [ENHANCED] [FROM US] [IMPORT]ルーサーは、76年に出たグループ「ルーサー」の時からずっとリアルタイムで聞いてきたので、同時代感がものすごくある。81年『ネヴァー・トゥ・マッチ』で再デビューした時も、まずは、グループ時代からずいぶんと洗練されたなと思った。そして、何度もアルバムを聴くうちにその素晴らしさに感心するようになった。今ではルーサーのベスト・アルバムと言われる傑作だ。

その後アルバムを次々とだし、そのどれもが大ヒット。彼の後を追って、フレディー・ジャクソン、キース・ワシントン、ジョニー・ギルなど続々と登場した。

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ブルックリン訛り。

これは以前どこかで書いたか話したと思うが、ルーサーとは一度会ったことがある。場所はロスのスタジオ。記憶がはっきりしないのだが、86~87年頃のことだと思う。誰かジャズかフュージョンのアーティストのレコーディングがロスのスタジオであり、その発売元のレコード会社(ポニー・キャニオンのパシフィック・コースト・ハイウェイというレーベル)の担当に連れられて、そのレコーディングを覗きにいった。主人公はそのアーティストなのだが、名前は覚えていない。(笑) ところが、そのレコーディング・セッションに大柄な黒人シンガーがきていたのだ。

僕はあれ、どこかで見たことあるシンガーだな、と思い、ガラスの向こうの彼をじっと見て、まもなく、ルーサーではないかと思った。担当者に「ねえ、ねえ、あれってルーサーじゃないの」と聞くと、担当者は「知らない、わからない」という。もっともその彼はルーサー自身を知らなかったので、話にならなかったのだが。ただ、僕も半信半疑だった。まず彼がニューヨーク・ベースで活動していること、飛行機嫌いということから、ロスにいるわけはないだろう、と勝手に思い込んでいたのだ。それに、無名のこのアーティストのセッションにルーサーほどの大物が来るわけがないと。でも、そっくりに思えた。特に太り具合は。

そこで、一段落してスタジオから出てきた彼に意を決してずばり尋ねた。「あなたは、ミスター・ルーサー・ヴァンドロスですか?」 後から考えると、とんでもない質問をなげかけたものである。鳥肌ものだ。相手はその時点で何百万枚ものレコードを売ってるスーパースター。アメリカの音楽業界人なら誰もが知っているそんな時期だった。すると彼は満面の笑みで「イエ~ス」と答えた。お~~、まじか~~と超びっくりし、これは一期一会だと思い、「インタヴューしてもいいか」と尋ねた。すると彼は「う~ん、ノー、今、僕はヴァケーション中なんだ」とあっさり断られた。

インタヴューは断られたが、なぜロスにいるのか、というと「今、ロスに住んでるんだ」と答えが返ってきた。ニューヨークではないかのか疑問に思ったら、ニューヨークにもロスにもどちらにも家があるという。なるほど。たまの移動は、なんとか飛行機に乗るらしい。

その時、写真を撮っていいかと尋ねると、「かまわない」という。そこで写真を撮ることにしたが、カメラを向けると、「胸から上だけにしてくれ」と注文をつけられた。やはり太っていることを気にしていたのだ。

Give Me the Reason [FROM US] [IMPORT]それから何ヶ月後かに、ルーサーに電話インタヴューをする機会があった。87年10月のことだった。どういう時期かというと86年秋に『ギヴ・ミー・ザ・リーズン』のアルバムが出たほぼ1年後というタイミングである。今から考えるとなぜ、そんな中途半端な時期にインタヴューが取れたのか、よく覚えていないのだが、なんらかの理由で電話インタヴューはできた。

その時の印象は、はっきりした発音で、独特の訛りがあるなということ。そして、その訛りを以前に聞いたことがあった。話しているうちに誰か考えていたのだが、ふとわかった。カシーフだった。カシーフも、ルーサーもどちらもニューヨークのブルックリン生まれ。いわゆる「ブルックリン・アクセント」というものだった。その後、確かあのウィル・ダウニングと話をした時もその「ブルックリン・アクセント」を感じた。そういえば、ウィル自身もずいぶんとルーサーの影響を受けたシンガーではないだろうか。

ルーサーよ、Always & Forever!

ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)


投稿者 吉岡正晴 : 05:47 AM | コメント (1)

July 05, 2005

Luther Tribute Continues: Luther's Room Is Not A Home

[ ENT>OBITUARY>]

【ルーサー衝撃・続く】

孤独。

ルーサー死去の衝撃は続く。イギリス人のソウル・ミュージック・ジャーナリスト、デイヴィッド・ネイサンが長文の追悼文を書いた。

http://www.soulmusic.com/luthervr.htm

ルーサーはアトランティック・レーベル傘下コティリオン・レーベルからグループ「ルーサー」として76年にデビュー。その時にネイサンがインタヴューをし、それ以来、仕事面でもプライヴェートでも二人は親しくなった。ネイサンがその30年近いルーサーとの思い出を語ったもの。

グループ、「ルーサー」が2枚のアルバムを出した後、契約がなくなり、一時期ネイサンはイギリスのレコード会社にルーサーのデモテープを売り込んだことがある。だが、それを聞いたディレクターは、イギリスのマーケットには「アメリカすぎる」と判断し、売込みを断った。

Never Too Much [ENHANCED] [FROM US] [IMPORT]その後、ロバータ・フラックのツアーで、ロバータのマネージャーと知り合い、その人物がエピックのディレクター、ラーキン・アーノルドを紹介してくれた。アーノルドは、すぐにこのテープを気に入り、契約。そこで『ネヴァー・トゥ・マッチ』が生まれた。ここに収録された「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」を聴かされた時のネイサンの驚きは大変なものだった。ルーサーにとって、ディオンヌ、アレサ、ダイアナ・ロスは3大お気に入りのシンガー。そして、そのうちのひとりディオンヌの作品をカヴァーしたのである。

ルーサーも生涯独身で過ごした。デイヴィッド・ネイサンも独身ということで、人生について、恋について、独身であることについて、パーソナルな会話を何時間もしていたようだ。一時期、偶然にもネイサンとルーサーがニューヨークの同じアパートに住んでいたことも、二人を親しくさせた。

『ネヴァー・トゥ・マッチ』以降、ルーサーはさらに豪華なアパートに引越していったが、新作がでると、まっさきにネイサンに聞かせていた。

ルーサーは、いつでも、生涯のパートナーを見出したいと思っていた、という。つまり、結婚したいと思っていたのだ。彼は、自分の体重(太っていること)が、恋のじゃまになると思っていた。そこで、恋をすると、あるいは、好きな人ができると、痩せる。だが、その恋が成就しないとなると、やけ食いでまた太ってしまうという。その体重の増減は5-60キロあった。それは、彼の歴代のアルバムのジャケットを順に並べてみれば、明らかだ。痩せている時と太っている時が実に極端なのである。

また、彼の兄弟、親ともに、糖尿病を患っていた。糖尿病の家系なのだろう。それと体重も関係していた。そして、そこから心臓への負担があった。

ルーサーにはこんな現実があった。完璧なライヴをやって、何万の人を喜ばせても、ホテルの部屋に戻ってくれば、たったひとりだ。そして、そこで彼を待っているものは食べ物だけ。どうしても食べてしまう。

大学時代、彼はしばしニューヨークを離れミシガン州に行くが、その時も彼は孤独だった。シャイな彼は友達もできずに、いつもヘッドフォーンでレコードばかり聴いていた。その頃聴いていたのが、アレサ・フランクリンであり、ディオンヌだった。同級生がガールフレンドを作ったり、パーティーに興じている頃、彼はレコードを聴いていた。まさにこの頃から彼の人生はヘッドフォーンの中にあった。

孤独というキーワードは、ルーサー・ヴァンドロスの人生の中に常に寄り添っていた。しかし、その孤独さが、体重を増減させ、また、彼の唯一無比の悲恋ソングや叶わぬラヴソングを作る原動力となったにちがいない。

傑作アルバム『ネヴァー・トゥ・マッチ』(1981年)のアナログではB面の最後を飾ったのが、前述の「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」だった。バート・バカラック&ハル・デイヴィッドの名曲だ。恋人が去った後の家は、もう家じゃない、家庭ではない、という歌。「そこに椅子があっても、家ではない。家が(形として)あっても、そこに家庭はない。部屋があっても、しょせん部屋はただの部屋。部屋は家ではなく、家があっても家庭はない・・・」 ルーサーの部屋は、家庭にはならなかった。

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■ルーサー・ヴァンドロスの『ネヴァー・トゥ・マッチ』のライナーノーツを近日中にアップします

■ルーサー・ヴァンドロスに関するソウル・サーチン日記

2003/04/25 (Fri)
Luther Vandross' Condition Critical, But Stable
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200304/diary20030425.html倒れた時の第一報。

2003/05/05 (Mon)
Luther Is Still Alive
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030505.html

2003/05/15
Luther Still Unconcious: But Mother Confident of Recovery
ルーサー、依然 昏睡状態。母親は回復に自信
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030515.html

2003/05/22 (Thu)
Aretha sung "Amazing Grace" for Luther
アレサ・フランクリン、「アメージング・グレイス」で全快の祈り 捧げる
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030522.html

2003/05/29 (Thu)
Promotional Talk
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030529.html

2003/06/13 (Fri)
Luther is out of his coma?
昏睡状態から脱す

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030613.html

2003/06/14 (Sat)
Now it's official: Luther is out of ICU
集中治療室を出る

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030614.html

2003/06/20 (Fri)
Luther's Album Made No.1 For The First Time In His Life
ルーサーの新作、アルバム・チャートに1位初登場
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030620.html

2003/06/21 (Sat)
Dance With My Father: Complete Japanese Translate Version
「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」完全訳詞
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030621.html


NO.326
2003/07/19 (Sat)
The Power Of Love For Luther Vandross
ビデオに友人シンガーたち登場
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200307/diary20030719.html

2003/08/13 (Wed)
Luther: Because It Has His Soul In His Song
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200308/diary20030813.html

2003/09/05 (Fri)
Luther Live Album Due Next Month
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200309/diary20030905.html

2003/11/18 (Tue)
Luther Vandross' First Live Album Ever: Love Story For 75 Minutes Long
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200311/diary20031118.html

2004/02/11 (Wed)
Another Side Of "Dance With My Father"
「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」もうひとつの物語

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200402/diary20040211.html

July 02, 2005
Luther Vandross Died At 54
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_02.html

July 03, 2005
Luther Vandross Died At 54: Reunited After 46 Years With His Father
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_03.html

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ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)


投稿者 吉岡正晴 : 05:55 AM | コメント (0)

July 04, 2005

Renaldo 'Obie' Benson, of Four Tops, Dies at 69

[ ENT>OBITUARY>]

【フォー・トップスのレナルド・オービー・ベンソン69歳で死去】 

死去。

モータウン・レコードでテンプテーションズと並び大きな人気を獲得したR&Bヴォーカル・グループ、フォー・トップスのオリジナル・メンバー4人のひとり、レナルド・オービー・ベンソンが、2005年7月1日(金)、デトロイトの病院で死去した。69歳だった。またフォー・トップスのオリジナル・メンバーのひとり、ロウレンス・ペイトンは、97年6月20日59歳で癌のために亡くなっている。

これによって、フォー・トップスのオリジナル・メンバーは二人になった。他の二人はリード・シンガーのリーヴァイ・スタッブスと、アブドゥール・デューク・ファキール。現在リーヴァイも体調を崩してツアーなど表立った活動はしておらず、グループはデューク・ファキールを中心に別メンバー(セオ・ピープルスとロニー・マクネアー)を加え3人で活動している。ペイトンが97年に死去してからしばらくは、グループはその名を「フォー・トップス」からシンプルに「トップス」に変えていた。

フォー・トップスは、デトロイトのハイスクール仲間だった4人(リーヴァイ、オービー、デューク、ロウレンス)によって1954年頃に結成された。当初はフォー・エイムスと名乗り、シカゴのチェス・レコードと契約。ヒットは生まれなかったが、まもなくフォー・トップスとなり、1963年に同じくデトロイトのモータウン・レコードに入社。64年同社から「ベイビー・アイ・ニード・ユア・ラヴィン」がヒットしたのを機に次々とヒットを放ち、テンプテーションズと並んでモータウンの二大大黒柱となった。

ヒット曲の多くは、リーヴァイ・スタッブスの張りのある声がリードをとっていたが、3人のコーラスも定評があった。彼ら4人は、1954年のグループ結成から一度もメンバー・チェンジをすることなく、1997年のロウレンス・ペイトンの死去までともに活動を続けた。テンプテーションズが頻繁にメンバーチェンジをしていたのと比べると、43年間の4人の絆には固いものがあった。

永遠のモータウン映画『永遠のモータウン』の原題「スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン」は、フォー・トップスの66年12月からのヒット「スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・ラヴ」から取られている。他に「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフ」、「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」などヒット多数。

またオービー・ベンソンはソングライターとしてもいくつか曲を書いている。「ホエン・トゥナイツ・ミーツ・トゥモロウ」「ターン・オン・ザ・ライト・オブ・ユア・ラヴ」などがあるが、友人のアル・クリーヴランドと1曲したためる。

オービーは、69年か70年頃、サンフランシスコで警官が反戦運動をしていた子供を殴りつけているところを目撃する。その子供は特に何をするでもなかったので、オービーは衝撃を受けた。この事件をきっかけに、彼は反戦運動、とりわけヴェトナム戦争について思いを寄せるようになった。なぜ民主主義の名の元に、黒人、白人、十代の若者、貧乏な連中が戦場に送られなければならなかったのか。そこで、クリーヴランドとともに、そうしたテーマをもった曲を作る。このメッセージソングをモータウンのアーティストに録音してもらおうと聞かせたが誰も録音しようとしなかった。彼が在籍していたフォー・トップスのメンバーさえも、メッセージ色が強すぎるとして、録音を見送った。

だが、一人だけ、この曲に大いなる興味をもったシンガーがいた。それがマーヴィン・ゲイだ。マーヴィンは彼の甥が1968年、ヴェトナムで戦死。またマーヴィンの弟が3回ヴェトナムに赴き、そこで目撃した戦争の悲惨さをマーヴィンに語っていた。マーヴィンは、この曲のイメージに共感、さらに曲に手を加え、録音。だが、やはりモータウン社長ベリー・ゴーディーは、この曲のメッセージの強さゆえリリースに反対した。それが「ホワッツ・ゴーイング・オン」だった。結局、マーヴィンの熱心な説得で、ゴーディーは仕方なくリリース。しかし、リリースされるや大ヒットになったのはご存知の通りだ。

フォー・トップスは、1990年に「ロックンロール殿堂」入りを果たしている。

(「ホワッツ・ゴーイング・オン」の部分、加筆。情報提供・守島さんに感謝です)

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http://music.yahoo.com/read/news/21307459

'Obie' Benson, of Four Tops, Dies at 69

07/01/2005 6:42 PM, AP
Mike Householder

Renaldo "Obie" Benson, a member of the legendary Motown singing group the Four Tops, died Friday. He was 69.

Benson died at a Detroit hospital, said the group's road manager, Fred Bridges. His death also was confirmed by Craig Hankenson, president of Producers Inc., one of the agencies that books dates for the Four Tops.

"It was not unexpected. He has been ill," Hankenson said.

The Four Tops sold more than 50 million records and recorded hit songs such as "Baby I Need Your Loving," "Reach Out (I'll be There)," "I Can't Help Myself" and "Standing in the Shadows of Love."

Benson's death leaves two surviving members of the original group: Levi Stubbs and Abdul "Duke" Fakir. The fourth original Top, Lawrence Payton, died of liver cancer in 1997.

They are members of the Rock and Roll Hall of Fame.

The Four Tops began singing together in the 1950s under the name the Four Aims and signed a deal with Chess Records. They later changed their names to the Four Tops.

The group signed with Motown Records in 1963 and produced a string of hits over the next decade, making music history with the other acts in Berry Gordy's Motown lineup.

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ENT>MUSIC>OBITUARY>Benson, "Obie", Renaldo>2005.07.01(69)

投稿者 吉岡正晴 : 05:15 AM | コメント (0)

July 03, 2005

Luther Vandross Died At 54: Reunited After 46 Years With His Father

[ ENT>OBITUARY>]

【ルーサー・ヴァンドロス54歳で死去】 

奇蹟。

ルーサー・ヴァンドロスの死去に関し、多くのエンタテインメント界からおくやみのメッセージがヴァンドロスの元に届いていている。クインシー・ジョーンズ、アレサ・フランクリン、スティーヴィー・ワンダー、ロバータ・フラックなどなどで、これ以後も多くの人々からおくやみが届いているだろう。

ヴァンドロスは、2003年4月16日にニューヨーク・マンハッタンの自宅で脳梗塞で倒れ、数時間発見されずに倒れていたという。発見後すぐに病院に運ばれ緊急手術が行われたが、長く集中治療室にとどまったため、身体に麻痺が残った。生命を救うため、喉からチューブが挿入されたが、シンガーとしての命、声帯に傷をつけないよう最大級の注意が払われた。

6月18日、担当医はルーサーのリハビリテーション・センターへの移動のための退院を許可。ルーサーは、毎日5時間、エクソサイズ、車椅子の乗り降りの練習を続けた。当初、回復は劇的だったという。

そんなある日、ルーサーは母親に電話をかけてこう言った。「1曲、あなたのために歌いたいんだ」 「なんですって?」 母は驚いた。「『ソー・アメイジング』を歌いたいんだ」 これは母アイーダのお気に入りだった。

アイーダが言う。「この曲には私にとってとっても深い意味があるの。というのは、ルーサーがこれを姪の結婚式で歌ったから。彼はその姪をずっと可愛がっていて、育てるのを手伝った。そして、この曲を歌い終えて、彼が姪に向かって『アイ・ラヴ・ユー』と言った瞬間、彼女は泣き崩れた。その場にいたみんなが号泣したのよ」。生涯独身で子供がいなかったルーサーは、ことのほか姪や甥を可愛がったという。

ルーサーが歌おうとする前に、母アイーダは、「一緒に歌いましょうか」と尋ねた。記憶喪失が見られたルーサーが歌うのを手助けしようという心遣いだった。ルーサーは「ママ、ママが歌う前にはたくさん練習してもらわないとだめだ」と言って電話越しで歌い始めた。そして、ルーサーはその「ソー・アメイジング」を一字一句間違えずに最初から最後まで歌いきったのである。

ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー(初回生産限定盤) [LIMITED EDITION]同年5月からアルバム『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』がキャリア中最大のヒットへなっていく。これは、彼自身が「シグネチャー・ソング(代表曲)」「キャリア・ソング(キャリアを代表する曲)」になったと大きな自信を持って世に送り出した作品だった。これはルーサーが8歳の時に死去した父親へ捧げた作品。母親は、これを聴いた時、たった8歳までの記憶しかないルーサー・ジュニアがよくこれほどまでの曲が書けたものだと驚嘆し、涙を流した作品でもあった。

このシングル・ヒットのおかげで、同アルバムは、彼の25年を越えるキャリアの中で初のアルバム・チャート1位を獲得。さらに、秋には、2003年2月のヴァレンタイン・デイに行われたライヴの模様を収めたライヴ・アルバムもリリース。

そして2004年2月、グラミー賞授賞式でビデオでメッセージを寄せ、受賞に大きな花を添えた。回復しなかった中での、ビデオメッセージは、今となっては奇蹟の声だったのかもしれない。

二人の姉、兄ひとりが先に旅立ち、ルーサーはアイーダに残された最後の子供だった。4人の子供を自分の死より以前に見送る母親の心境やいかなるものか。ファミリーのメンバーは、みな糖尿病をわずらっていたという。ルーサーもそうした家系の影響があったのだろう。体重の劇的な増減、糖尿病からくる心臓への負担、そうしたものが彼の命を短いものにした。


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Chasing The Dream, Not Give Up

再会。

ルーサーは母親っ子だった。彼は4人兄弟の末っ子だったが、13歳の時、母と二人でブロンクスに引越し、生活を始めた。父親は既に他界、上の兄弟は独立していたので、母子の生活が始まった。ルーサーは、学校の親友フォンジ・ソーントンとバンドを組み、音楽活動を始める。彼の記憶では4回ほどアポロ・シアターの「アマチュア・ナイト」に挑戦しているが、いずれも優勝にはいたっていない。だが、彼はまったくそのことにくじけることはなかった。

高校卒業後ルーサーは、ウエスタン・ミシガン大学に進学するが、友人もできず、音楽だけに没頭していた。結局、大学生活に嫌気がさした彼は、ドロップアウトを決意する。その時医学を目指していたルームメイトが大学に留まるように説得したが、これはこう宣言してミシガンを後にした。「なあ、君が医者になり、病気にかかった時には、僕は君のところにリムジンで乗りつけよう。僕は逃げ出すんじゃない。自分の夢を追いかけるんだ」。

彼のキャリアのターニング・ポイントはいくつもある。そのうちのひとつがロバータ・フラックとの出会いだ。ルーサーは、80年のロバータの全米ツアーにバックコーラスのひとりとして起用された。そして、そのバンド・メンバーに誰あろうニューヨークのベース奏者マーカス・ミラーがいたのだ。マーカスとルーサーは意気投合。「いつか何か一緒にやろう」ということになった。そして、これが81年の『ネヴァー・トゥ・マッチ』につながっていく。

マーカスとともに作ったデモ・テープの「ネヴァー・トゥ・マッチ」をルーサーがロバータに聞かせたところ、ロバータは涙を浮かべ、「もうあなたは、バックグラウンド(・シンガー)に甘んじていることはないわ。私が、あなたのキャリアをスタートさせるための人物を紹介しましょう」と言ったほどだった。

そして、81年7月、『ネヴァー・トゥ・マッチ』は満を持してリリースされ、大ヒットになる。以後、彼の作品は出せばヒットになっていった。彼は徐々に「ソングスタイリスト」としての名声を確立。他の誰もが真似できないスタイルを築いた。

果たして、彼が自宅で倒れた時、大学時代のルームメイトの元にリムジンを乗りつけることはなかったが、ルーサーはその時の夢を実現させたのである。

スモーキー・ロビンソンがかつてこう言った。「ヴォーカリスト数あれど、ルーサー・ヴァンドロスはただひとり。ルーサーの中に品格が光る。(There are vocalists, and then there's Luther. Luther's in a class by himself)」

8歳の時、父と別れたルーサー・ヴァンドロス・ジュニアは、46年ぶりに今、父ルーサー・ヴァンドロス・シニアと再会を果たしていることだろう。手土産は、もちろん、「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」のCD。父親が息子に言っている言葉が聞こえるかのようだ。「よく来たな。いい曲を書いてくれてありがとう」。今、天国で二人のルーサーの熱いハグ・・・。


ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)


投稿者 吉岡正晴 : 03:23 AM | コメント (0)

July 02, 2005

(速報)ルーサー・ヴァンドロス死去

[ ENT>OBITUARY>]

(速報)ルーサー・ヴァンドロス死去

Luther Vandross Died At 54

繊細。

R&Bシンガーとして、70年代から活躍し、80年代に入り爆発的人気を獲得したルーサー・ヴァンドロスが、2005年7月1日(金)夜(日本時間2日午前)、ニュージャージー州エディソンのジョン・F・ケネディー病院で家族、友人に見守られながら静かに死去した。54歳だった。

ヴァンドロスは、2003年4月16日、マンハッタンの自宅で脳梗塞で倒れ病院に運ばれ緊急手術をし、その後リハビリをしていた。ヴァンドロスが倒れた後、その直前までレコーディングしていた『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』がリリースされ、大ヒット。同曲はグラミー賞「ソング・オブ・ジ・イヤー」などを獲得。2004年2月のそのグラミー賞授賞式では、ビデオテープでメッセージを寄せた。

そのメッセージは、弱々しかったが、声はあのルーサー節だった。彼は"Remember, when I say goodbye it's never for long, Because ... I believe in the power of love.(万一、僕がさよならを言っても、覚えておいてくれ。僕は愛の力を信じている)\"という彼の大ヒット「パワー・オブ・ラヴ」の一節を歌った。

声明を発表した医師によると、倒れた後、ルーサーはほとんど回復しなかったという。

ルーサー・ヴァンドロスは1951年4月20日ニューヨークのマンハッタン、ローワー・イーストサイド生まれ。ルーサー・ロンゾーニ・ヴァンドロス・ジュニア。74年、デイヴィッド・ボウイのバックコーラスとして抜擢され、ボウイのアルバム『ヤング・アメリカンズ』(75年3月全米発売)に登場。以後、音楽シーンで徐々に頭角をあらわすようになった。76年、グループ「ルーサー」を結成、アルバム2枚を出しヒットを出すが、レーベルが自然消滅し、81年9月、ソロ・シンガー、ルーサー・ヴァンドロスとして『ネヴァー・トゥ・マッチ』で再出発。以後、出すアルバムをすべてヒットさせ、80年代から90年代を代表するR&Bシンガー、ヴォーカリストとなった。

ルーサーは、それまでの男性R&Bシンガーが、男らしさを強調するスタイルが主流だったのに対し、男性でも弱さがあること、時には女々しいとされることなどを実に繊細に歌に託し、女性ファンからも、また男性ファンからも圧倒的な支持を受けた。また、その瞬間でわかる独特のクラス(品)のある声と歌唱は、多くのルーサー・フォロワーを生み出した。

20年以上の親交があり、現在日本ツアー中のロバータ・フラックは、「彼は持っているものすべてをさらけだして、与えてくれるシンガーです。彼は本当に音楽をするために生まれてきたような人物でした」と述べた。

ルーサーの母、メアリー・ヴァンドロスにとって、ルーサーは4人の子供の末っ子。そして、上3人がすでに他界しており、ルーサーは「最後に残された子供」だった。

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(詳細はまた後ほど)

ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)

投稿者 吉岡正晴 : 03:21 PM | コメント (1)

June 19, 2005

Ronald Winans Of Winans Died At 48

[ ENT>OBITUARY>]

【ロナルド・ワイナンズ死去】 

大家族。

グラミー賞に輝くゴスペルの名門グループ、ワイナンズのシンガーのひとり、ロナルド・ワイナンズが6月17日(2005年)、デトロイトの病院で死去した。48歳。6月30日に49歳の誕生日を迎える予定だった。ロナルドは10人兄弟の2男。ロナルドは1997年心臓発作を起こしていた。木曜の夜に容態が悪くなり、ファミリーが全員集められ、最後を看取った。

Introducing the Winans [FROM US] [IMPORT]ワイナンズ一家は多くの子供がいて、複数のグループが活動している。ワイナンズとしては、マーヴィン、カルヴィン、ロナルド(17日に死去)、マイケルの4人組。同じくゴスペル・フィールドの大御所アンドレア・クロウチに見出され、1981年、クロウチの持つライト・レコードからアルバム『イントロデューシング・ザ・ワイナンズ』でデビューした。その後コンスタントにアルバムを発表、クインシー・ジョーンズのクエスト・レーベルでアルバムも出した。グラミー賞も5回受賞、その他のアワードも多数受賞している。

ワイナンズ・ファミリーは、父と母(ポップ=デイヴィッド、ママ=デローズ)の間に息子・娘が10人いる。上から順に、デイヴィッド(長男、ギタリスト。ゴスペル界では活動せず、R&Bをやっているという)、ロナルド(2男)、カルヴィン(3男)とマーヴィン(4男=この二人は双子)、マイケル(5男)、ダニエル(6男)、ビービ―(ベンジャミン=7男)、シーシー(第8子=長女)、アンジー(第9子=2女)、デビー(第10子=3女)。2番目から5番目の子供でワイナンズが結成されている。それぞれが、ソロあるいはデュオとしてもCDを出している。さらにそれぞれに子供もあり、相当な大家族になる。

中でも、第4子マーヴィンとその妻ヴィッキー・ワイナンズ(ヴィッキーはソロでも活動)の間に生まれたマリオ・ワイナンズは、ショーン・パフィーと手を組み現在のR&B界で大ヒットを飛ばし人気を集めている。

ロナルドもソロ作品を出していた。彼の最後の作品は、今年初めに出た『セレブレーティング』というアルバム。ロナルドは7年前の心臓発作のときに、医師に無理をしないようにと忠告されたが、それに耳を貸さず精力的にレコーディング、ライヴなどゴスペルの活動を続けていた。最後のアルバムが、『セレブレーティング』(祝い)というのも、彼の旅立ちに花を添えることになりそうだ。

ご冥福をお祈りする。

Fri Jun 17, 5:09 PM ET

http://news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/ap/20050617/ap_en_mu/obit_winans_3

DETROIT - Ronald Winans, a Grammy-winning member of The Winans and of gospel's first family, died Friday at the age of 48.

Winans, who had suffered a heart attack in 1997, died at Harper Hospital of heart complications, his family said. He had recently been admitted for observation, the family said, after doctors realized he was retaining fluid.

"The family wishes to thank everyone who joined us in prayer and will continue to extend their unwavering support during our time of loss," BeBe Winans, one of Ronald Winans' brothers, said in the statement.

Ronald Winans, along with brothers Marvin, Carvin and Michael, was discovered by Grammy-winning gospel singer Andrae Crouch. The group released their first album in 1981 titled, "Introducing The Winans." Later, their siblings, BeBe and CeCe Winans, would record as a duo and then separately.

Ronald Winans, who sang on five Grammy-winning albums, released his final CD, a live recording titled, "A Celebration," earlier this year.

Arrangements were pending Friday.

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ENT>OBITUARY>Winans, Ronald / 2005.6.17 (48)

投稿者 吉岡正晴 : 04:52 AM | コメント (0)

June 08, 2005

Shoo Kusano Died At 74

[ ENT>OBITUARY>]

【草野昌一氏、74歳で死去】 

ペンネーム。

「可愛いベイビー」、「ルイジアナ・ママ」など多くの洋楽曲の訳詞を漣健児(さざなみ・けんじ)のペンネームでてがけた音楽出版社シンコーミュージック・エンタテイメント会長の草野昌一氏が6日午前6時55分、膵臓がんのため東京都文京区の病院で死去した。74歳。葬儀は近親者で済ませ、お別れの会は7月12日午後2時から東京都千代田区飯田橋1ノ1ノ1、ホテルグランドパレスで行われる。喪主は二男で同社社長の夏矢氏。

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2005年4月11日付けソウル・サーチン・ダイアリーで、ナット・キング・コールの「ラヴ」の日本語版について書いた。これを訳していたのが、漣さんである。僕は個人的には面識はなく、何かの場所でお見かけしたくらいだが、業界内では雑誌ミュージック・ライフの初期の編集長、さらに、音楽出版社シンコー・ミュージック(旧名)の社長ということでつとに有名だ。

http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_04_11.html

彼の作り出した洋楽曲の訳詞によるポップス、ロックの日本語化というものは、まさに70年代に花開く日本人による日本語のポップス、ロックへの大変大きな礎になっている。そのあたりは多くの方が研究されているが、シンコーのホームページに漣健児のページがあり、なかなか興味深い。彼がてがけた訳詞リストがあいうえお順に並んでいるが、その膨大な数に驚く。

http://www.shinko-music.co.jp/sazanami/

漣さんの訳詞で歌われた作品が、実は元は外国の歌だということを知らずに聴いて育った人も多い。それほど、洋楽の普及に影響を与えたということだ。ご冥福をお祈りする。

ENT>OBITUARY>Kusano, Shouichi/2005 June 6

投稿者 吉岡正晴 : 04:21 AM | コメント (0)

April 05, 2005

R&B Singer Jimmy Lewis Died On 911.

[ ENT>OBITUARY>]

訃報。

先日(3月31日・木曜)、尾臺さんのラジオ番組『ソウル・ミュージック』を聴いていたらジミー・ルイスが昨年9月に亡くなっていたというリスナーのお便りが紹介されていた。これは知らなかった。この日記でも記事を書いていない。ジミー・ルイスは訃報記事を書いておかないとと思い、さっそく調べてみたら、昨年の9月11日に亡くなっていた。

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R&Bシンガー、ジミー・ルイス66歳で死去

R&Bシンガーで、ソングライターでもあるジミー・ルイスが2004年9月11日にロスアンジェルスで癌のために亡くなっていたことがわかった。66歳。ジミー・ルイスは1937年11月19日、ミズーリ州イッタ・ベナ生まれ。1950年代からR&Bのミュージシャン、シンガー、ソングライターとして活躍。レイ・チャールズ、ボビー・ウーマック、テッド・テイラー、Z.Z.ヒル(ズィー・ズィー・ヒル)らに作品を提供したり、ともに歌ったりしてきた。

また、レイ・チャールズ、ラティモア、ペギー・スコット・アダムスなどもプロデュース。さらに自身もシンガーとしてアルバムを出している。特にレイ・チャールズとは「イフ・イット・ワズント・フォー・バッド・ラック」をデュエット。さらに69年のチャールズのアルバム『ドゥイング・ヒズ・シング』を全面的にプロデュースもした。チャールズが持つタンジェリン・レコードでも仕事をしていた。

その後、南部のソウル・レーベル、マラコ・レコード所属のZ.Z.ヒルなどをてがけたり、同レーベルのラティモアをプロデュースしていた。ジミー・ルイスとしては1974年のアルバム『トータリー・インヴォルヴド』がひじょうに内容の濃い作品で、サザン・ソウルのジャンルの中でも名盤とされる。ところがおもしろいことに、ルイスはしばしばサザン・ソウルのシンガーあるいはソングライターとして語られるが、彼はずっとロスアンジェルスに住んでいた。

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Jimmy Lewis (James E. Lewis) - Died 9-11-2004 in Los Angeles, CA, U.S. - Cancer ( Soul ) Born 11-19-1937 in Itta Bena, MS, U.S. - Singer and songwriter - Worked with Ray Charles ("If It Wasn't For Bad Luck") - He wrote songs for Bobby Womack, Ted Taylor, and Z.Z. Hill - He produced Latimore and Peggy Scot-Adams ("Bill") - Owned Miss Butch Records.


ENT>OBITUARY>Lewis, Jimmy/2004.Sep.11

投稿者 nagato : 06:41 AM | コメント (0)