May 23, 2005

Senju Akira Talks (Part 2): Baton Was Passed On To Son

[ LECTURE>]

(千住明さんの講演会の話の続き)

【渡されたバトン】

バトン。

千住明さんの講演の中盤で、彼はそれまで理論で音楽を作ってきたり、頭で音楽を作ってきたが、あるきっかけで、心の叫びみたいなもの、理論ではなく湧き上がる感情のようなもので曲を創らなければならないと感じるようになった、という話がでた。

そのきっかけというのは、父のことだった。5年前(2000年)、父が病(脳梗塞)に倒れたのだ。病は重く、完治することは考えられなかった。この時、子供たちは可能な限りの英知を集結し、いかに父に最高の時を過ごしてもらうかを考えた。そこででた結論は、父親を病院ではなく、自宅で介護するということだった。しかし、それは一般的な医学の常識からすれば、とても考えられないことだった。ある程度の医療機器がなければ、患者を安全に保つことはできないからだ。

だが、理解ある医師たちのアドヴァイスを得て、彼らは自宅に様々な設備を備え、そこを病院のようにしてしまったのだ。そして子供たちが、24時間体制で父の面倒をみた。2000年3月、明さんたちの戦いが始まった。

父親は頭脳明晰な学者だった。兄が絵の道に進みたいと言っても反対もしなかった。明さんが音楽の道に進みたいと言っても文句ひとつ言わなかった。父が言ったことはただひとつ。「やるならば、徹底してやれ。そこで一流になれ」ということだった。「音楽も、遊び半分でやるくらいなら、やめろ」という感じだった。

子供の頃から、父親は「何でも好きなことをしてよろしい。だが、もしそれが自分が思ったものと違ったと感じたら、30歳までに(人生の)方向転換をしなさい」と助言した。つまり、もし彼が音楽の道で生きていきたいと思ったら、30までは自由にやるだけ、やってみろ。もし、それでだめなら、30歳で方向転換しなさい、というのだ。「父にはそんなことをほんの子供の頃からずっと言われてきたので、自分の中にはなんとなく30歳(という転機)が、身体に染み付いていたという感じです」。なぜ父が30歳と口を酸っぱくして言ったのかといえば、父自身が30歳で人生の転換をしていたからだった。

明さんは、慶応で幼稚舎から大学まで進むが、音楽家を目指し、一念発起。芸術大学を目指す。一度慶応の大学に進んでそれを途中で辞めての受験だったので、芸大には2浪して入ったが、その他の現役新入生と比べれば「実質5浪」で入ったことと同じだった。現役と5浪の差は大きかった。

「あの2年間の受験勉強の厳しさ、辛さは、もうとても同じことをやれといわれても、絶対にやれない。何百冊とある百科事典のような本をすべて覚えなければならないんです。それほど厳しいものでした」と彼は振り返る。23歳で無事芸大に入り、卒業、しかもさらに一念発起し、大学院にも進み、29歳で首席で修了した。父が言っていた30歳前に、芸大を、しかも首席で卒業したことで、「なんとか間に合ったと思った」という。

現在44歳の明さんは、それからの10年、クラシックの音楽家として、またテレビ番組のテーマ曲などポピュラー畑の音楽家として、休みになく突っ走ってきた。

かつては、クラシックの世界とポピュラーの世界の二束の草鞋(わらじ)を履くことは許されなかった。そこで、彼はポピュラーの世界で仕事をしていることを、しばらくは隠していた。それは、50年代に敬虔なゴスペル・シンガーが、世俗的なR&Bを歌うことを隠していたことと似ている。あるいは、ひょっとして、彼にとっては「クラシック作曲の苦しみ」を「ポピュラーを創る楽しみ」で帳消しにしていたのかもしれない。

父が倒れ、その看病をするために、彼の生活スタイルは劇的に変わった。特に夜、夜中は彼が父に付き添うことが多かった。千住明さんは、そんなある日、父と長い時間かなり深い話をした、という。父はその時いわゆる延命治療というものを拒否していたために、かなりの痛み、苦しみを感じていた。

「父を看病していた頃から自分の音楽に対する姿勢が変わってきたような気がします。自分は音楽を作るために、とにかく(人生を)突っ走ってきた。だが、その看病をきっかけにいろいろ考えさせられるようになったんです」。

自分は音楽という「国際語」をしゃべるようになっているが、その時、何かを主張しようかな、と思ったこともそんな変化のひとつだった。

病床に横たわる苦痛の父に「人生で一番楽しかったのはいつだったのか」と息子は尋ねた。父は答えた。「1967年家族全員で車でアメリカ横断をした時のことだ」。 ちょうど、その時の8ミリ・フィルムが残っていて、それをともに見ながら話したという。明さんが6、7歳頃のことだ。

強い父が弱音を吐いた。「なんでこんなに(痛い思いをして)苦しいのか」。 その時、明さんの口から、思わず「生きるためじゃないかなあ」という言葉がでた。「生きるっていうのは苦しいことなんだよ」と息子は父に言った。「ほんとに僕は父と一緒に戦っていた、と思います。いわゆる延命治療はしなかったんですが、ここは矛盾するんですが、その中でできるだけ延命できるようにいろいろしていた。そんな中で、自然にその言葉がでたんです。生きるっていうのは苦しいことなんだ、という言葉。自分でもよくそんな言葉がでたな、と思います。そんな重い話を、父と(生まれて)初めてしました。父がどんどんとだめになっていくのがわかった。衰弱していって、父の(明晰で優秀な)学者としての頭脳がだめになっていくのが悲しかった。人生のこと、妹のこと、お袋のこと頼むね、とか、様々なことを話した。普段、父とは絶対しなかったような話をしました。それは、父が僕にバトンを渡した瞬間だったように思います」。

バトンは受け継がれた。そのバトンに込められた真実は、今度は明さんが何十年かかけて、次の世代に受け継ぐことになるだろう。父が倒れてから半年後の2000年9月、戦いは終った。半年間の濃密な時間の想い出を残して・・・。

(千住さんが話された内容を元に構成しました)

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千住明氏公式ホームページ
http://www.akirasenju.com/

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(2005年5月19日木曜、日比谷・三田倶楽部=千住明講演会)

PEOPLE>Senju, Akira
LECTURE>Senju, Akira

投稿者 吉岡正晴 : 02:22 AM | コメント (0)

May 22, 2005

Senju Akira Talks (Part 1): Native Speaker Of Music 

[ LECTURE>]

【音楽のネイティヴ・スピーカーによる『音楽のすゝめ』】

一月一枚。

ソウルメイトY先生から帝国ホテル内にある三田倶楽部で、音楽家の千住明さんのお話があるので来ないかとの誘い。以前にもお会いしたことがあるので、ちょっと出向いた。Yは、ここでいろんな世話役をやっていて、僕にもさかんに三田倶楽部に入会しろとせっつく。僕はいつもそれを煙にまいているが、それはさておき、約1時間半、お話があって、その後若干の質疑応答。充実の2時間であった。

千住さんのところは、一番上の兄が日本画家の博氏、下の妹がヴァイオリン奏者真理子さんとそれぞれ有名で、明さんもいまやテレビドラマや映画音楽などクラシックからポピュラーまで幅広い分野で大活躍中だ。

とてもいい話がいくつもぽんぽんと出てきた。いくつかご紹介しよう。中でも印象的だったのは、彼と彼の父の話だ。

例えば、その父の話として、才能のある・なし、ということについて語った。「才能のある・なしなど、それほど差はない。ある人が才能があって、別の人に才能がない、あるいは普通だとすると、普通の人が1.0なら、才能ある人の才能などせいぜい1.1くらいのものだ。ただし、それに努力を掛けると、そこに結果がでてくる、という。才能ある人が努力をすれば、掛け算で結果が普通の才能の人とかなり違ってくる、という話だ」。(な~~るほど)

「アート、芸術というものは、人間の創造性を出すものだ。誰も創っていないものを創らないければ意味がない。しかし、何かを創るとしても、先人たちが積み上げた物の上に立っていかないとだめだ。やっていないことをやり続けることが大事だ」。(その通り)

「自分は『音楽のネイティヴ・スピーカー』を目指す。だが、音楽を正式に勉強したのは、随分と後になってからなので、3歳4歳頃から音楽を『しゃべってきた』人たちとはどうしても違う。だが、自分としては音楽のネイティヴ・スピーカーになりたい。しかも、誰もがわかる言葉でしゃべりたい」。(ふ~~む)

「ヨーロッパ、西洋では音楽は哲学だ。特にドイツの人などは音楽を理論で聴くが、日本の人たちは音楽を官能で聴く。自分も20歳くらいまでは、音楽を官能、感覚で聴いていた。だが、芸術大学に行って音楽理論を学んでからは圧倒的に音楽を理論で聴いていた」。(ほ~~~)

「音楽にはとてつもない力がある。だが、音楽があなたの心を癒せる、あるいはこの音楽で人を癒せるなどということは、とてもおこがましく、そんなことは言えない。感動の扉というものは、聴く側が完全に無垢の状態でなければ開いたりしないものだ。新興宗教などが巧みに音楽を利用するが、音楽で人を癒してやろう、などというのは、大きなお世話だ」。(いえ~~~い)

あるいは、芸術大学に行く前に様々な音楽を聴いていた頃の話としてこんなエピソードを語った。

彼は高校時代に赤坂のディスコ、ムゲンにコモドアーズやクール&ギャングのようなソウル・バンドを見に行ったという。彼がソウル好きだというのは、初めて知った。ところが、ムゲンなどは普通は学らんを着た高校生をいれてくれない。そこで、店のマネージャーに「とにかくこのバンドが見たいんです。それだけでいいですから」というようなことを熱心に言っていれてもらい見たという。それまでに見たこともないようなきらびやかな音楽で、楽しみとしての音楽を知った。

あるいは、中学生時代にコーヒーと煙草の煙が立ちこめる、いかにも大人の世界というジャズ喫茶にも出入りした。その店主は、しゃべると怒ったが、だまって名盤といわれるレコードを聴いていれば、にこにこしていた。そこでは、随分とジャズの名盤を聴いて覚えた。渋谷のジニアスという店はそんな店のひとつだったが、今はもうない。

ある時、NHKの『スタジオ・パークからこんにちは』という番組に出て、ジャズ喫茶の話をしたところ、それをたまたま見ていたジニアスの店主が連絡をくれ、その後感動の再会を果たした、という。

彼は、音楽の歴史や理論を学び、ずっと理論で音楽を聴いてきて、頭で音楽を作ってきた。だがある時、あることをきっかけに自分は誰もがわかる言葉で音楽をしゃべらなければならない、心の叫びを音楽の中に込めなければならないと悟った。今、かつての作品(頭で作っていた頃の作品群)を聴くと、とても恥ずかしい。以来、自分は単純に音楽が好きだった十代の頃、スタート地点に戻ったような気がした、と振り返る。

そして、「今、この時代に何をすべきか、音楽で何ができるのか、そういったことを考えるようになった。今、自分は音楽を理論ではなく、官能で作れるようになった」と語る。

千住さんは、机にラジカセを置いていた。最初の1時間半のトークでは、それは使わなかった。「なんとなく、使うと授業みたいになってしまうので」と説明。なんと彼は大学で一年間、授業をやっていて、その時、いろいろな音をCDなどで聞かせて講義をしたので、同じようにラジカセを用意していた。講義をされていたのね。道理で話がうまいはずだ。

質疑応答のときに、ジプシー・キングスの「マイ・ウェイ」(フランク・シナトラで有名)のオリジナルと彼がリミックスしたものの聴き比べをしてくれた。オリジナル・ヴァージョンのヴォーカル部分だけをもらって、それに新しいオーケストラを付け加え作ったものだ。なかなかおもしろい。彼は言う。「クラシックの作曲などは苦痛が続くんですが、こういうのは本当に楽しい。唯一の趣味と言ってもいいかもしれない(笑)」。

「今後20年間の(自分の)使命としては、大人のための音楽を創るということです。例えば、(日本でも)食の世界、舌は肥えてきてそうした文化は根付いてきた。でも、音楽という文化は、日本はまだまだです。(普通の大人の人が)1ヶ月に1枚でいいからCDを買ったらどうでしょうか。知らないお酒を飲んでみるのも楽しいでしょう。ジャケットから選んでもいいんです。自分が創る音楽で、みなさんの歴史の一ページを飾れれば嬉しいですね」。

福澤先生の『学問のすゝめ』ならぬ、千住先生の『音楽のすゝめ』だ。僕自身も『音楽のすゝめ』というコンセプトは前々から持っていて、ずばりこのタイトルのコラムでも作ろうかとも思っているほど。したがって大賛成である。

ところで、誘ってくれたY。「いい話聞いたでしょう。三田倶楽部入れば、毎月こういうの見られるよ。どうよ、どう」。「う~~ん、よかった、よかった。でも、入会金に、年会費かかるしなあ。しばらくはYのゲストでいいよん」。 Y先生は三田倶楽部への『入会のすゝめ』なり~~~。『学問のすゝめ』『音楽のすゝめ』、そして、『入会のすゝめ』と、すゝめ三段活用であった。

(続く)

(2005年5月19日木曜、日比谷・三田倶楽部=千住明講演会)

PEOPLE>Senju, Akira
LECTURE>Senju, Akira

投稿者 吉岡正晴 : 05:00 AM | コメント (0)